「ドラマ『セクシー田中さん』調査報告書」日本テレビ版、小学館版をそれぞれ読んだ感想。
「ドラマ『セクシー田中さん』について」の報告書、日本テレビ版、小学館版を読んで自分が感じたことについて書きたい。
あくまで自分が感じたこと、考えたことなので、興味があるかたは原本を読むことをお勧めする。
報告書を読んだ限りでは、この件は「日本テレビと小学館の間の問題」だ。認識の食い違いによって対立し、その対立を解消をする責任を負うべき当事者は、日本テレビと小学館である。
だが何故かどちらの報告書を読んでも、この件が進行している最中も報告書自体も、構図を「個人である原作者と脚本家の対立(問題)」ととらえている節がある。自分たちこそが第一に責任を負うべき当事者だと考えているように感じられない。
そう思った理由は色々あるが、ひとつだけ上げると、日本テレビ側の報告書では脚本の制作は執筆段階以前までは脚本家個人が行ったわけではなく、「脚本制作のコアメンバー」と呼ばれるチームで作成していた。
この「コアメンバー」の存在は小学館の報告書ではひと言も出てこない。脚本の責任がすべて「脚本家」に集約されている。
もちろん「脚本家」として名前を出すのだから、執筆の責任を負うのは最終的には脚本家ではある。
だが脚本の制作過程を知っていれば、小学館や原作者の認識として「他のコアメンバーの意見はどうだったのか」「これがメンバー全員の総意なのか、もしくは脚本家のアイデアなのか」という言及はあったはずだ。
少なくとも原作者が
脚本家に対してのみこんな風に思うことはなかったのではないか。
どちらの報告書を読んでも、台本改変について原作者の怒りは脚本家に向けられており、「コアメンバー体制」を知っていたとは思えない。
小学館の報告書だけを読むと、脚本家が一人ですべてを考えて書いていたと錯覚してしまう(小学館の認識がどうだったかはわからないが)
日本テレビの報告書では
こう書かれているが、これは例えば雑談の合間に言っただけで、体制を説明するための時間を取ったり、文章で説明したのではないのではないか。
つまり相手に伝わっていない。
「自分は言った→だから伝わっているはずだ」
どちらの報告書を読んでも、こういう記述が頻繁に出てくる。だから「言った言わないの話になっている箇所」が非常に多い。
一見すると「言った言わない」で日本テレビと小学館が対立しているように見える。
しかし、上のコアメンバーの体制について日本テレビ側の報告書が出てもなおも触れない小学館側の報告書を読むと、結局のところ責任を引き受けないでいられるうちは、当初の認識をそのままにしたほうが両組織にとって都合がいいのではと思ってしまう。だからどこまで行っても基本的な認識さえすり合わせようとしないのではないか。
その狭間で組織に所属していない、弱い個人が割を食って矢面に立たされる(もしくは立たざるえなくなる)
こういう構図に見える。
この「コアメンバーと脚本家の関係」が小学館側では、「小学館と原作者」で再現される。
脚本家と原作者のもめ事は、元はと言えば「日本テレビと小学館が」行った契約のもめ事の延長である。
日本テレビと小学館に対処の責任がある。
それなのに、ここまで内容に関わっておいて、個人名で公表させるとはどういうことなのか。
本人は小学館が日本テレビとの間で引き起こしたもめ事に巻き込まれて頭がいっぱいなのだから(年末に休載を申し出ている)そこまで考えられないことは推測できる。
本人が強硬に自分個人の名前で公表すると言い張ったならばまだしも(それでも社で責任を取るのが筋だと思うが、そもそも会社の責任で起こったことなのだから)ここまで内容に関わっておいて、個人名で公表させるということが解せない。
だがわかる部分もある。
これはとてもよくある話だからだ。
組織はこういうものだ。
組織に所属していない人間が、組織の守りの輪から(知らず知らず)弾かれていれば個人はひとたまりもない。
自分はこの件に関わっていた人たちが、個人としては悪い人だとは思わない。
特に小学館のC氏(小学館版報告書ではA氏)は、原作者と親しく、信頼関係も築いていたようだし、個人の力の及ぶ範囲では頑張ったのだと思う(それはどちらの報告書を読んでも伝わってくる)
だが組織の中にいる人間、一人一人が少しずつ手を控えたり身をよけると、結果として積み重なったものを、組織の論理に守られていない人間がストレスとしてすべて引き受けざるえなくなる。
認識のすり合わせを行わなかったがゆえに対立したのは「日本テレビと小学館」であり、この二つの組織がその齟齬の解消の責任を負わなかった、この二つの組織の無責任さに翻弄されて原作者と脚本家が多大な負担を負い、取返しのつかない結果を招いた。
自分の考えはこうだが、小学館版の76‐77ページで、この考えの答え合わせができた。
驚くくらい他人事だ。
まさか「独立した事業者であるから庇護は必要としていない(ゆえに基本的には与える必要はない)」とはっきり言うとは思わなかった。
原作者が公表する文面を一緒に考えて、個人名で公表することを黙認しておいて「協力を申し出る方法もあったのではないか」か。
この姿勢は、
こういう言葉にも表れている。
日本テレビと小学館については、報告書を読んで組織とはこういうものだと改めて思った。
個人としてはどんなに仲が良くてもどんなに信頼関係を築けたと思っても、組織の論理……もっと言うと「組織間の論理」はこういうものだ。この論理の前には個人は本当に脆い。
そのことについては自分がどうこう言っても仕方がない。「そんなことだろうと思った」以上の感想はない。
報告書を読んでいて一番感じたのは、原作者と脚本家という個人で組織に関わり翻弄された二人の苦しさだ。
特に原作者が自分が真剣に考えていること、やってきたことが誰にも伝わっていない、そう思っている苦しさが伝わってきて読んでいて辛かった。
ご本人が一番無念だったと思うけれど、報告書を読んで「なぜ組織間の無責任さから生じたもめ事に、あんなに面白い創作が翻弄されなければならないのか」と悔しかった。
ましてや最終的に原作者が亡くなってしまったのは本当に辛い。
報告書を読むと、原作者も脚本家もそれぞれ自分を守らざるえない場所に追い込まれてしまっている。どこかの段階でどうにか出来なかったのか、どうしてそれが出来なかったかが報告書を両版合わせて150ページ以上読んでもさっぱりわからない、と悔しさと虚無感ばかりが募る。
報告書を読んでから、「セクシー田中さん」の既刊7巻までを改めて読み返した。
前にも書いたが本当にいい話なのだ。
田中さんと笙野、三好とふみかの四角関係にどういう決着がつくのか、朱里が最終的にどんな道を歩むのかを知ることはもうできない。彼女たち、彼らは物語の中でちゃんと生きていたのに。
報告書の中で問題になっていた
「なぜ、朱里の経歴を短大から専門学校に変えてはいけないのか」
「朱里のディスり発言のルール」
「進吾のキャラクター」
についての自分の考えを後で書きたい。
*書いた。
ただの一読者に過ぎない自分にはこれくらいしか出来ることはないけれど、既刊7巻まででも「セクシー田中さん」はキャラクターたちがきちんと生きている、面白くてエネルギーに満ちた作品だ、ということを伝えたい。
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