「画面の向こうに生身の人がいることを想像しましょう」←人間の想像力はそういう方向には働かない、とそろそろわかってもいいのでは。

 この問題は、前提が間違っていると思う。
「軽い気持ちで言った言葉でも、画面の向こうには傷つく生身の人間がいることを想像しよう」ではなく、
「その人が生きてきた実感に基づく認識に比べれば、ネット上で概念化した他人など簡略化された記号にすぎない。その差を埋める想像力は人間にはない」
こう考えたほうがいいと思う。

 ネットの情報の広さは、人間が「具体的に」把握できる情報量の限界を超えている。
 情報量が多すぎると、人間は自分の認識で恣意的に情報の取捨選択を始め簡略化する。

 人でも事象でもそうだ。
 だから短文メディアやショート動画、極端な言動やキャラ化した人、ネットミームなど「簡略したもの」が流行る。

「w」一個で概念を手早く共有する。
 そういう造りの世界なのだ。

 目に入るものはすべて記号化して、その記号を当人が自分の認識に沿って組み立ているだけで、どこまで行っても自分の認識の枠組みから逃れられない。(そういう場だからこそ楽しいこともある)
 だから「簡略で極端な主張」(記号化しやすいもの)が力を持ちやすい。
 ネットで有名になろうとする人が、なるべく自分をキャラ化する(情報量を少なく極端にする)のは、そのためだと思う。

 その人を構成している要素のひとつひとつ、その成り立ちも見て、総体としてその人を見る→生身のその人を見る。
ということはそもそも不可能なのだ。

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