「愛されなければ生きていけないから、愛されるために『自分』すら手放す」という話には、どこにも救いがない。
これを読んで、以前自作小説に来た感想について考えたことを思い出した。
簡単に説明すると「女の子×男の娘」のカップリングにおいて、それぞれ性規範を逆にして抑圧した話を書いたら「女の子のほうが可哀想。男の娘はヨシヨシされていて狡い」(意訳)という感想がきたという話である。
女の子のほうは「お前は強いしその地位に生まれた責務もある。お前が判断して責任を負え」と絶えず言われ続ける(本人もその価値観を内面化している)男の娘のほうは容貌だけに価値を見出されて性的なモノ扱いされ続ける。
男の娘が置かれている「自分の行動の判断ができず人生をコントロールできない(有能力感がない)」という状況は自分にとっては、最も忌避すべき状態だ。その状態を「羨むべきことだ」と言われたことに衝撃を受けたのだ。
自分はむしろ「有能力感」(主導権、意思決定権)には大きな価値があり、人間関係において相対的に奪い合いになりやすいものだと思っている。
そのためこれまで、他人を「テイカーの状態(常に受け入れる側)」において万能感を満たす手法をことあるごとに批判してきた。
「自分の範囲の物事を自分で把握し、コントロールする権利を手放す」というのは「いいことか悪いことか」以前に凄く怖い状態だ。
というのが、自分にとっては疑うことすらないごく当たり前の感覚だったので、それを他人に進んで譲り渡した状態が「楽でいい状態」と思っている人が少なからずいる、というのが驚きだった。
一体、なぜこんなにも考え方に大きな違いがあるのか。
女性の性規範を抑圧ととらえるか、「愛されること」と引き換えに従うべきものと考えるかの違いではないか。
女性の旧来の性規範においては「愛されること(選ばれること)」に価値があった。だからこの枠組みにおいては、自分(女性の主体)が無視されているとしても「選ばれること」それ自体が「価値あること」として機能する。
愛情は目には見えないので、「いくら奢ってもらえるか」「どんなプレゼントをもらえるか」「どれだけ尽くしてもらえるか」「どれだけ求めて(選んで)もらえるか」などの「何をしてもらったか」がバロメーターとして機能するのではないか。
こういう女性規範の枠組みの中では、どんなに主体を抑圧されているとしても「自分が選ばれていると証明され続けること→何かしてもらうこと」に価値が生じる。
むしろ選ばれ何かしてもらうためであれば、主体(有能力感、主導権、意思決定権)を進んで手放す。
だから「ありとあらゆる手続きや電話を自分でしなくなっていく現象」が起こるのではないか。
もし自分の推測が合っているなら、増田が出会った女性たちは「男を憎んで嫌悪しながら、『(社会的な)男の存在』を前提にした女性規範の中で生きている」ことになる。
読んでいて「救いがない話だな」と感じた。
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