人の内面に触れるものの取り扱いは、もう少し慎重になってもいいと思う。

「MBTIの扱い」については、時間がある時に書こうかなと思っていたけれど、ちょうどこういう増田を見かけたので書く。(イエベブルべや骨格診断についてはよくわからない)
 自分は専門家ではないのであくまで自分が理解している範囲の話だ。

 MBTI……というより、その元になったタイプ論は「診断」ではなく、診断をしやすくするための便宜的、および仮説的な方法論だというのが自分の理解だ。
 大海のど真ん中に放り出された時に、やみくもに進むのでは混乱する確率が高い、いまいる場所からざっくりどちらの方角に向かえば目的地にたどり着きやすいか、というとりあえずの方向性を決めるための方法なのだ。

 河合隼雄の「ユング心理学入門」でも、多様な人間の内面にアプローチするための羅針盤のようなもので「人を分類箱に入れるためのものではない」と強く断りを入れられている。

 まず、タイプを分けることは、ある個人の人格に接近するための方向づけを与える座標軸の設定であり、個人を分類するための分類箱の設定をするものではないことを強調したい。
 類型論の本を初めて読んだようなひとがおかしやすい誤りは、後者のような考えにとらわれてしまって、すぐに人間をA型とかB型とかにきめつけてしまうことである。
 こうなると個々の人間は分類箱にピンでとめられた昆虫の標本のように動きを失って、少なくともわれわれ心理療法家にとっては役立たないものになってしまう。

(「ユング心理学入門」河合隼雄 河合俊雄編 岩波書店P2-P3)


 専門的な視点から「類型論として誤解されやすいが、それは誤りである」と強調されているものを、あたかも人格の分類方法のように体系化してしまったのは良くなかったのかもしれない。  
と、今の広まりかたを見ると思う。

 自分も創作を読む時に、キャラを理解するための方法論のひとつとして使う(面白いので)
 ただ上記の「本来は専門的治療のアプローチ方法のひとつとして便宜的に用いる手法だが、人を全人格的に診断する類型論として誤解されやすい」という説を読んでいたので、自分自身も含めて実際の人間には使わないようにしている。
 
また使う時は必ず「専門家ではないので、雑談やネタ程度に読んで欲しい」と断りを入れるようにしている。

 〇〇〇〇というタイプであることに意味(目的)を見出してしまったら、それは「認識のパターンの方向性を知って、他人の内面にアプローチしやすくする(良い関係性を築きやすくする)」という目的と方法が転倒してしまっている。
 
さらに増田に書かれているような「自分との相性を知るために他人を測る」までいくと、かなり危ういと思う。

 自分がMBTI(というよりタイプ論)に惹かれたのは
インプット(認識)→人の内面(人格や知識など)を基準とした判断→アウトプット(言動)
という流れの中で、同じものを見てもアウトプットが異なる理由は「人の内面(人格や知識)に依拠した判断」にあるのではなく、その手前のインプット(認識パターン)から異なっている可能性がある→実は「同じものを見ていない」のではないかということを指摘していたからだ。

 例えとしては「ブラッド・メリディアン」の判事とウェブスターの会話がわかりやすい。

 ウェブスターがそういう書き物や絵をどうするのかと訊いたとき、判事は笑みを浮かべて、
「自分はいろんなものを、人類の記憶から消そうと思ってやっているんだ」
と言った。(略)
「でも俺の絵は描かないでくれ」
とウェブスターは言う。
「俺はあんたの記録簿には載りたくない」
「私の記録簿に載らなくても、誰かの記録簿に載る」
と判事は言った。(略)
「とにかく俺の面は描かないでくれ。知らない連中に見られたくないんだ」
判事はにやりと笑った。
「私の記録簿に載ろうと載るまいとすべての人間はほかの人間の中に宿るし、その宿られた人間もほかの人間のなかに宿るという具合に、存在と証明の無限の複雑な連鎖ができて、それが世界の果てまで続くんだ」
「俺は自分で自分の証人になるよ」
とウェブスターが言うと、ほかの男たちは
「この自惚れ野郎、そもそもてめえを描いた絵なんか誰が見たがるか」
「まさか絵を見たがる人間がわんさと押し寄せて、待ちきれなくて喧嘩を始めると思っているんじゃねえだろうな」(略)
 すると判事は片手をあげて「まあまあ」となだめ
「ウェブスターが絵を描かれたくないというのは、そういう虚栄心から出たことではないんだ」

(引用元:「ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤」 コーマック・マッカシー/黒原敏行訳 早川書房 P211-212 太字、括弧、読点は引用者)

 自分から見ると、このときの判事とウェブスターは「内向直観」の認識パターンを用いて会話している。
 ウェブスターと判事が共有している「判事が絵を描くことの意味」を他の仲間たちは認識できていない。
 字義通りの「絵を描く行為」以外の認識をしていないから
「この自惚れ野郎、そもそもてめえを描いた絵なんか誰が見たがるか」「まさか絵を見たがる人間がわんさと押し寄せて、待ちきれなくて喧嘩を始めると思っているんじゃねえだろうな」とウェブスターを揶揄する。

「判事が絵を描く」という事象自体はみんなが目の当たりにしているが、判事がその行為をする意味(判事の認識)はウェブスターしか共有していない。

 ウェブスターの認識に立てば、自分の言いたいことが他の人たちに通じていない、自分が判事の「絵を描く行為」と仲間たちから見る判事の「絵を描く行為」の意味が違うのではないか、という違和感がある。
 インプット(認識)は固定的なパターンしかないと考えてしまうと、ウェブスターは「自分の判断(を導く人格や知識)がおかしいのではないか」と考えるしかない。
 だが仲間と自分ではそもそもインプット(認識)しているものが違うから判断(アウトプット)も異なるのではないか、そう考えると周りと自分で解釈や判断が異なるのは当たり前ではと思える。

 タイプ論の考え方を用いると、判事とウェブスターが同じ認識で会話をしていて、他の仲間たちは別の認識で会話をしているから、話が噛み合わないのだとわかる。

 もうひとつ例をあげると、自分は「鬼滅の刃」の鬼殺隊と鬼は、そもそも最初から勝負になっていないと思っている。

 何故かというと耀哉がINFJで無惨がESTJだからだ。
 組織はトップの理念と構想によって作られるが、トップ二人のタイプの違いのために、組織の強度が違い過ぎるのだ。(鬼に属性としての強さがあるから、勝負が成り立ったにすぎない)
 誰なら(どの組織なら)勝負になるかと考えると(超常能力を身につけた)第七師団(鶴見一派)なら互角ではと思う。

 鶴見もINFJだからだ。
 どちらの組織も全員が特攻してくる凄惨な総力戦になると思う。

 自分が創作を読む方法論のひとつとしてMBTIを用いるのは、こういう面白さがあるからだ。
 方法論のひとつにすぎないからそれで何もかも解釈するわけではないけれど、例えば異なる二つの創作を比べたりする時の物差しのひとつとして便利だ。

 ただ「現実の人間の内面や人格」について触れたり、ましてや判断をする時は、慎重になったほうがいいのではと思う。      
 今のように情報が溢れている時代は「深く知ることができないなら、判断せずにそのままにしておくことに耐える力」が、重要なのかもしれない。

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