自分から絡んできたのに、「アクシアは反抗期」「母親には誰も勝てない」と言って人の話をマトモに受け取らない現象について。

◆「アクシアは反抗期」と「母親には誰も勝てない」は同じ現象。

先日読んだ「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」の中に、向こうから絡んできたので、相手の言動について批判したら、面識がないのに「母性を感じる」「母親には誰も勝てない」と結論付けられて話を終わらせられるという現象(P150)が出てきた。

この現象は、先日触れたVtubarのアクシア・クローネが活動休止するにあたって明かした時に出てきた

たびたび「やめてほしい」と呼び掛けていたにも関わらず、「アクシアは反抗期」などと言われ、自分の行動を束縛しようとするようなコメントがあった

(https://kai-you.net/article/84512より引用/太字は引用者)

これと同じだ。

(不本意な絡みかたをしてくる相手を、穏便に遠ざけるためならともかく)「自分から絡んできておいて、認識のコンセンサスを取ろうしない人」「コンセンサスを取らないことで、こちらの言葉を受け取ることを回避する人」「回避する方法として、こちらの人格や言動に要因を押し付けて話を終わらせる人」をどうすればいいか。

たまに見かけるこの現象について話したい。

◆「私の真意がわからないのは、あなたが〇〇という状態(人格)だから」

この現象の難しいところは、「何が駄目か。何が失礼か」を指摘することが大変なところだ。
「反抗期」のような茶化した言葉や「母親には誰も勝てない」のような「美化された言葉」だと、周囲にいる人も(*何なら言った本人も)言葉の無害さに惑わされて「相手の言葉を受けとめていないこと」「受けとめない理由を相手のせいにしていること」をスルーしてしまう

「アクシアは反抗期」は、「この現象の性質の悪さ・問題点」が周りにもわかりやすく可視化された、希有な例だ。

この現象の問題点を分解して説明すると、

・アクシアが「私(アクシア)はあなたの言動のこの点に問題を感じている」と伝える。
・「あなたの言動に問題を感じている」ことについて返答せず(受け取らず)、「アクシアが言動の受け止め方を間違えている。その理由は、アクシアがこういう人物(反抗期)であるため→要因はそちらにある」と返す。

「あなたの言動に問題がある」という指摘を受けとめていない上に、「そう受け取る原因は、あなたがこういう人物だからだ」と相手の人格を勝手に解釈して、その勝手な解釈に原因を押しつけている。(文字にすると凄いな)

自分から絡んでいったのに、相手の指摘をまともに受けとめない。
②相手の人格(状態)を勝手に判断解釈。
③②を行うのは、自分が受け取りたくない反応の原因を相手に押し付けるため。

二重三重に失礼だ。

ただ「アクシアは反抗期」については、アクシアの指摘は特定の一人の人物に向けられているわけではない。該当する人が正面から受け取れないのは、(よくないことだとしても)わからなくはない。

◆「母親には誰も勝てない」は、巧妙な叙述トリックのよう。

「母親には誰も勝てない」は、明確に「自分に対して」話しかけている相手に、①②③に加えて、
④「自分の言動に対して」指摘しているのに、「自分以外の人間も勝てない→だから仕方がない」と「自分」が受けとめることを回避している。
⑤「相手が母親だから、勝てないのは自分だけではない。だから、批判は受け流して自分のやりたいようにやる」と結論付けている。(
※「素直に反省したい」「重く受け止めたい」などの言葉はあるが、反省したなら、なぜ相手の人物像を勝手に解釈して、そこに要因を見い出して結論づけたのかと首をひねる)

これに加えて、小林さんが怒っていることのメインは「栗城さんのことを無断でブログに書いたこと」なのに、著者は「取材をやめたこと」「連絡を取らなくなったこと」に小林さんが怒っている理由を変換している。
少なくとも読み手にそう印象づけるように、こういうことを書いている。

小林さんの中で私は、栗城さんが死んだとたん、舌なめずりしながら遺体に近づいてきたハイエナ、のように映ったのかもしれない。

(「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社/太字は引用者 P150)

小林さんは「死んだとたん、近づいてきたこと」を怒っているのではなくて、「無断でブログに書いたこと」を怒っているのではないか?

少なくとも作内で上げられている、小林さんが言っている言葉は、

「無断でブログを書いたのは不誠実」(略)
「生前に栗城の了解を取っているわけでもないのに死んだ後になって書くなんて」
「番組の制作者を信頼して話したことなのに」

(「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社 P150)

この三つだ。
「死んだとたんに」など期限は指摘していない。近づいてきた時期は関係がない。

小林さんは「死んだとたんに近づいてきた」から怒っているのだ、と怒っているメインの理由をすり替えている。
さらに小林さんが怒っている理由である「無断で書いた」の要因を、
「私と栗城さんの歴史があるからだが、それを小林さんに伝える機会はもらえなかった」(P150)→「歴史があるから、許可を取れなかったのは仕方がないのだ。『小林さんはその歴史を知らないから』怒っている」と小林さん側に転換している。

これは非常に不誠実だと自分は感じるが、「メインの理由を入れ替えていること」も「要因を小林さんに転換していること」もよく読まないとわからない。
巧妙な叙述トリックみたいだ。

文章だからまだしも仕組みがわかるが、これを実生活でやられたら、やられたほうは指摘するのは不可能だ。

「デス・ゾーン」は、そもそも対象である栗城史多氏をこの方法で「記録に残し、多角的に検証しておく」(P151)つもりらしいので、この部分は問題の一環でしかない。

ところでここで小林さんの話を実名で(仮名とされていないので)出したことは小林さんの許可は取っているのだろうか。
「無断で書いたことは不誠実」と指摘している人のことを無断で書くとは考えられないし、「小林さんの意向は重く受け止める」(P150)とあるので許可は取ったと思う。
ただそのまま連絡が取れなくなったかのように受け取れる描写なので気になった。

このあと、小林さんの話のあとに栗城さんの元婚約者のAさんの話に移る。その前に、

これから私が書くことに、小林さんは抵抗を感じることだろう。

(「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」河野啓 集英社 P151)

と書いてあるのだが、小林さんはそもそも「無断でブログを書いたこと→書くことすべて」に抵抗を持っているのではないか?

なぜ「これから書くこと(Aさんのこと?)」だけをことさら「小林さんが抵抗を感じることだろう」と表記したのか、面識のない人の内心を勝手に推測するのか、さらにこの書き方だとやはり許可は取っていないのか? 
「無断でブログを書いたのは不誠実」(P151)と言う言葉を重くどころか、まったく受け止めていないのではないか。
とこの一文だけで三つくらい疑問が浮かぶ。

この箇所を見ると、小林さんが言いたいことは「他人の内心を含めて憶測だけで書いているから、それを『記録』されても困る」ということではないか。

◆人の認識は偏っている上に誘導されやすい。

自分が「デス・ゾーン」に最も近いと思うものは、アガサ・クリスティの「春にして君を離れ」だ。
クリスティの作品の根底には、「『事実そのまま』を見ることは人には難しく、勝手に解釈してしまう。人は大抵の場合、自分の見たいようにしか物事を見ない」という人間観がある。
「春にして君を離れ」は、このクリスティの人間観によって生み出された傑作だ。

「事実を検証しよう」とする人は、「自分を含めた一人の人間の認識がいかに偏っているか」「どれほど注意してもその認識から逃れきることは出来ない」ことが分かっている。
だから、解釈することはおろか、なるべく自分の視点は消し、最初は事実だけを羅列するようにする。自分の先入観で読む(検証する)人の思考を誘導しないように、細心の注意を払う。
人の認識は偏っている上に、誘導されやすいからだ。
ブログ記事で紹介した「トムラウシ山遭難は何故起こったか」も、第一章の事件の経緯の描写には著者の視点はほぼ出て来ない。ただ登山参加者の発言と、その発言に沿った時系列が並べられている。

◆まとめ

自分から関わってきたのに、こちらがいざ話し始めたら話をまったく聞かない。
②聞かざるえないところまで詰められたら、相手の言動の動機や人格を勝手に解釈し、そこに発言の原因を押し付ける。

善意からでもこれはしてはいけない行為だ、と思っている自分から見ると、「自分が相手の言葉を受け取らないようにするために、相手の人格や言動の動機を勝手に解釈して、それを理由に自分の言動の正当性を主張する」なんていうのは、ホラーでしかない。
「関わりたくない」という感想しか浮かばない。

「この原稿を世に問いたいと強く思った」(P151)とあるので「世の一人」として感想を言うと、この本は、第三者が(少なくとも自分には)栗城さんという実在の人物像を検証するための助けになるよりは、妨げになる要素のほうが大きい。
理由はブログ記事とこのnoteで指摘した通り、この本は「著者の偏った認識による解釈の記録」でしかない上に、その認識に読み手の認識が重なるように誘導する箇所が余りに多すぎる。

推測でしかないが、小林さんが著者に指摘したのもこういうことではないか、というのが「デス・ゾーン」を読んで感じたことだ。

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