笑っているんじゃなく、笑われているのではないか…。

10月7日(金)のアメーバテレビのひろゆきの「辺野古取材を放送 “座り込み”めぐる議論」を、冒頭5分で見れなくなったと書いたけれど、その感想の続き。

ブログで書いたことは嫌味でも何でもなく、本当によくわからなかった。
少なくとも冒頭五分を見た限りでは、「ひろゆきが『座り込みという言葉の辞書の定義だけを、座り込み参加者と争う』」という構図を隠す意図が、番組側にまったく見られなかった

ひろゆきが「沖縄基地問題」や社会的な抗議行動について、何か考えなり問題意識があってこういう行動をしている、という演出がまったくない。
屁理屈でただただいちゃもんをつけようとしている、という構図がむしろ強調されている。

「社会的なスタンス」「公的な役割」は面倒なものだけど、「自分という個」を守る防御壁にもなる。
議論で言えば「理論武装」だ。
ひろゆきは「沖縄基地問題」や「抗議行動の歴史」については情報なり意見を持っていない。(番組の後半に出てきているのかもしれないが)
ブログ記事でも触れたが、「看板が『抗議行動』だったら文句はなかった」という主旨の発言をしているので、本当に言葉の定義だけを争っているのだ。

また「基地問題や抗議行動への知識や問題意識」もないのに、「15時なら座り込みをする人がいる」という情報があった、というだけで(行って何したいかという本人の意思は説明されず)行く。
指示されるままに動く人形のようだ。

相手に自分から話しかけるわけでもなく、人がたくさんいるのに素通りする。
相手を威圧するためか、単に癖なのかわからないが距離感が近くスタッフに注意される。
前置きもなく、突然「座り込みの定義」の話から始める。

自分が見ていてウッと思ったのは、「15時にいる人たちを確認しに行く」はずなのに、その人たちの前を素通りしたことだ。
論破する対象であれば、普通はにこやかに自分から近づくと思う。
「避けている=最初から負けている」ように見えてしまう。

先日、サンジャポに出演しているひろゆきを初めて見た時、「旧統一教会からこの番組が訴えられないということは、この番組が旧統一教会に都合のいい主張をしているからだ」という、二秒でわかる詭弁を言っていて驚いた。

「ひろゆきは、人の嫌がるちょっと上手いことを言う」という先入観があるから、「太田光の痛いところをついているのかな」とちらっと思うけど、どう考えても「痛くない」。
言ったほうを「全然理屈になっていない変なことを言う人」と思うだけだ。

その時に感じた「現実の、社会の、大人たちの中に混じるとひろゆきは、『大人なのに大人に見えない奇妙な人』に見える」「理屈にもなっていない変なことを言って、周りをうんざりさせる人でしかない」ということが、Amebaテレビを見た時に残酷なまでに映し出されていることに驚いたのだ。
自分はひろゆきがまったく好きではないのに、そのことにショックを受けた。
それがAmebaの番組を続けて見れなくなった正直な理由だ。

ひろゆきはそういう「キャラ」を演じているのかもしれない。
ただどの番組を見ても同じキャラな上に、「社会的に見ると」隙が大きすぎる。
「キャラ」でやっているのであれば、「看板に書いてある文言が抗議行動ならいい」と言わず、もっと理論武装して戦線を拡大すると思う。
そのほうが議論を撹乱出来るし、何より見栄えがいい。

自分は今まで「ひろゆきは何もかもわかってやっている」と思っていた。
でももしかしたら子供のふりをしているのではなく、本当に社会的な武装を何ひとつせずに、子供の世界でのみもてはやされる頭の良さだけでここまで来てしまったのかもしれない。

どう生きていくかは、本人の自由で他人がとやかく言うことではない。
だがアメーバテレビの見せ方は、余りにひどい。
ひろゆき一人を「滑稽な悪者」にして、悪趣味さを引受けさせている。
本人が承知の上だとしても、自分はそういう風に人を見せることを良しとする考えかたに嫌悪がある。

前回の記事に書いた通り、所詮、社会に対しての個人の戦いは常に負け戦なのだ。何せ、自分もその社会の一部なのだから。
わかっていても、こういう構図は見るのはキツい。
見るんじゃなかった…。
なので、この話に触れるのは終わりにしようと思う。

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