「人はすでに知っていることだけを信じる」は至言だと思う。

「そもそも『和風ファンタジー』という概念が定まっていない」とまとめ内で何人かに指摘されているので話は終わっているといえばそうだが、それはどうなんだ、と思ったことがあるので話したい。

「和風ファンタジーのヒット作が少ない」という問題提起が出たら「和風ファンタジーとはそもそもどんな作品(条件)をさしているのか?」という疑問が(考えるまでもなく)浮かぶ。
 条件が何もわからないので、語感から勝手に考えるしかない。
 まずはまとめで即座に出てきた「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」がある。「それではヒット作が少ない」と言うなら、「るろうに剣心」「チェンソーマン」「ナルト」「ブリーチ」「宇宙皇子」「帝都物語」「バジリスク」「妖星伝」「魔界水滸伝」「ドリフターズ」「皇国の守護者」「逃げ上手の若君」「うしおととら」「BASARA」「応天の門」「陰陽師」「戌王」「SEKIRO」「創竜伝」「X」「金の海銀の大地」、「後宮モノ」が中華ファンタジーのくくりに入るなら、「なんて素敵にジャパネスク」も和風ファンタジーだろうし、パっと考えただけでもいくらでも出てくる。
 アニメ化していたり、シリーズで何十万部も売れている作品がいくつもある。
 最近久し振りに読んだ「変化草子」も面白かった。

と考えると、「ヒット作が少ない」という結論のために、「和風ファンタジーという言葉から、自分が決めた定義に合わない作品を外しているのではないか」という疑念が浮かぶ。
「持論の根拠にするために、意味のコンセンサスが取れていない言葉を『具体的な意味は説明せずに、自分が定めた意味によって既に定義されている』前提で使う
 多勢によって意味のコンセンサスが取れていない言葉は、こういうことが可能だ。

「語の具体的な意味を誰とも共有していない状態で、その語の概念があたかも定着している前提で問題提起する」のは多重質問の亜流で、人の思考を誘導する。
 ネットでバズった話題を見ると「人の思考を誘導する作りの話」は凄く多い。

 こういう前提にのっかってしまうのは、人ではなく「話題による」と思う。
「自分がそう思いたい結論」にこの手法で誘導されたら、前提を疑うのは難しい。

 人が騙されるのは「そうだったのか、知らなかった」と思うことではなく、「やっぱりそうだったのか、思っていた通りだった」と思うことだ。

「プラハの墓地」でシモニーニが言った、「人はすでに知っていることだけを信じる」は至言だと思う。
「人は自分が知っている(と思っている)ことの前提は疑えない」
 だから「合意が形成されていないのに、それがあたかも合意されたかのような前提で問題提起する手法」は悪質なのだ。

 今後もしかしたら、多くの人の意識によって「和風ファンタジーと言えば刀と呪法(一例)」「〇〇が代表作」という前提がある程度定まるかもしれない。
「和風ファンタジー」という語の意味を、多くの人がある程度「具体的に」想定できるようになって初めて「ヒット作があるかどうか」「なぜ、ヒットしないか」というその先の議論ができると思う。

 今はジャンルによってカテゴライズされて、検索もそれに基づいているから「不便だ」という気持ちも凄くわかる。←これは自分も何とかならんかなと思う。
 ただそもそも「なぜジャンル分けするのか」というと、読み手が読みたい(観たい)物語とマッチングするためだ。
「和風ファンタジーというジャンル名を見かけないから、試しにカテゴライズしてみる」逆に「西洋が舞台で実際の歴史をベースにした作品は、どういうジャンル分けをされているのか」など考えてみれば、なぜ「和風ファンタジー」という名称がジャンルとして機能しないかわかると思うんだけどな。(そうでもないのか)

 ちなみに「プラハの墓地」は「ピカレスクロマン」だそうだ。

「ある程度一般的な意味の形成ができていて、文脈から推測できる言葉の意味をわざと読み取らない」のは、一見、今回とは真反対のパターンに見える。
 これは逆の手法を取っているだけで「自分と相手の認識は違うということを無視して、自分の認識をゴリ押しする」「それを客観的に見た時に体裁を取り繕うために、あたかもコミュニケーションを取っているように装う(問題提起したり議論を持ちかけたりする)」ところは同じだ。

「コミュニケーションを取る(前提を擦り合わせる)気がないのに、手法としてそう装っている」
 これは他人に対する姿勢として不誠実すぎるのではと思うので、そういう人を見かけたら近づかないようにしている。
 普通に怖いよ。

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