いま話題の件について。自分が一番気になっていること。
上記に上げた「Colaboと仁藤夢乃さんを支える会」の賛同メッセージ一覧の筆頭に、作家の桐野夏生の名前が上がっている。
桐野夏生は、2021年の1月30日のインタビューでこういう話をしている。
これは仁藤さんが温泉娘に対して行ったことと同じでは、と思う。
自分も温泉娘のホームぺージを見たが、個人的にはあの表現に対して、いきなり「差別」「搾取」という言葉で断じるのは批判の域を超えていると思う。
まさにどこから矢が飛んでくるかわからない。防ぎようもないし、反論もしようもない。
創作は、人間の奥底に眠るごく個人的なものに接続し、個人的(一人一人別々)に作用するものだ。
「社会的な文脈のみ」で(正確には、その創作に個人的な文脈で接続する必要のない人によるコンセンサスで)批判されたら、創作自体が成り立たなくなる。
「社会>個人」という発想で、(法律以外の)社会システムに適合しない個人の内部システムをつぶそう、無理やり適合させる動きには反対だ。
個人の内面は、社会という巨大なシステムを相対化できる唯一のものだからだ。
元々は抑圧されていた人々を救うための思想が、今度は人を抑圧する側に回るのはそれほど珍しくはない。
だから上記の「正しくないものを絶対に許さない人々と国家」の記事に書かれた「社会的文脈のみで個人の内面(創作)を判断し、社会に従わせる圧力」への危機意識に強く共感したし、実力も実績もある作家が問題を訴えてくれて良かったと思っていた。
自分も「路上のX」の解説で仁藤さんが書いていた「若年女性が置かれがちな困難」への問題意識には共感した。
正直なことを言えば、温泉娘には、なぜ「『娘』しかいないのか」(年齢・性別が固定されているのか)ということは凄く気になる。
こういう経験をした、今も実際に目の当たりにしているという仁藤さんが、その認識で温泉娘を見た時にああいう意見を言うのはわからないでもない。
その「わからないでもない」と「社会的文脈のみで創作という個人的な文脈をジャッジし、一方的に決めつける行為」への危機意識は自分の中で矛盾なく両立する。
桐野夏生が初の女性会長になった「日本ペンクラブ」は、
こういう理念を持っている。
その立場で「根拠のない批判や、表現について問題があると言われることが増えました」「文脈を外して、作品のこの一文は問題だ、この考え方は問題だという批判をされても困る」という問題意識がある時、仁藤さんの温泉娘に対する批判についてはどう考えているのか。
実際に交友関係があり、執筆の取材協力をしてもらった人を支援するのは分かる。
色々な条件の中で、「この件はこう考えているがこの件はこう考えていて、それは両立する」と言われれば「そうか」と思う。
ただもし自分の執筆したものと温泉娘は同じ表現ではない、だから上記の記事に書かれたことには当てはまらないと考えているなら凄く残念だ。
そんなことはないと思うが。
出来ればどう考えているか知りたいが、ここに至るまでその話は出てこないとなると、この先わかることはないんだろうな。
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