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「男の娘」というモチーフを用いるのは何故なのか。

自分は創作で「女性であることを強いられる男」というモチーフをよく使う。
他の人とコンセンサスが取れる語がそれしかないから使うが、一般的な語の用いられ方と、自分が考えているその語が表す概念が少し違う。
そういうことが往々にしてあるが、「男の娘」もそういう言葉のひとつだ。

自分は「男の娘」(女性の格好をする男)という外形よりも、「性自認が男である(そこに強い自尊意識があり、女性として生きることを強いられることで、さらに男としての自分にコミットしている)人間が女性として扱われる抑圧の構図と内面の動き」に興味があるのだと思う。
だから性自認が女性の「男の娘キャラ」や、自由意思で女装しているキャラには、ほとんど(全くではないけれど)興味がない。

・女の姿を強いられているか、自由意思でしているか。
は、自分の中では別の人物造形なので、これを「女性の姿をしている男だから」と同じ語でくくるのは、本当は違和感がある。

「男の娘」という比較的新しい語の意味のコンセンサスがとれている、とすることにもやや疑問がある。
言葉というのは、固定化された事象を指し示すものではなく、使用者が概念を恣意的に区切り、その事象を現出させるものだからだ。

飼っている猫に名前をつけたら、飼い主は「うちの猫」として認識するが、猫に興味がない人にとっては全ての猫は見分けがつかない。「うちの猫」という客観的な事物が存在するわけではなく、飼い主が猫全体の中から一匹だけ概念を区切り、自分の意識の中に「うちの猫」という認識を現出させる。

言葉にはこういう働きがある。

自分が描く「男の娘」は、むしろキャラ造形に「抑圧の構図」が含まれる「エルデンリング」(隙あらば混ぜ込む)のマリケスやロロが近い。
なので区別するために「抑圧の構図」のような新語を考えて、「男の娘」に付け加えたほうがいいのかもしれない。(名前を付けて「うちの猫」を出現させる)

「男が女性でいることを強いられる」のは、「一般的には『力』を持つ男が、女性の規範(従属的、控えめであることを求められる)によって抑圧されている」。「自己の力」を抑えることが推奨される構図だ
対して、マリケスやロロの抑圧のされ方は「自己の力を振るう方向を強制」されており、力を振るうこと自体は推奨されている。

「力があるのに、振るうことを禁じられている」か「力があるから、嫌なことを無理矢理せざるえない(しかもそれが自分の使命だと思い込まされる)」かの違いだ。

社会の中では前者は女性が受けやすい抑圧で、後者は「働かなくてはいけない」など男が受けやすい抑圧だ。
使命と責任を背負わされて、うまくいかなかったら自分を無能だと責め、罪悪感でおかしくなるマリケスは、男の抑圧と悲哀を一身に背負うキャラだと思う。

この「性差による抑圧の構図」を性別を逆転させそれぞれ背負わせるとどうなるか。
その方法として「男の娘」というモチーフを用いるのだろう。
女性が選択・判断・行動し、その責任を負う構図である「女攻め」が好きなのも同じ理由だ。
モチーフは方法であり、性差による規範からうける抑圧を逆転させてみるのが好きなのだろう、ということで、自分の中で考えがまとまった。

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