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子育て会社員が沢山絶望したがFXに出会い『挑戦する人生』を歩めるようになった話

はじめまして。さい父ーーさんと申します。

僕は東海に住む34歳の会社員です。
妻の尻に敷かれながら(笑)子供2人に翻弄されながらも楽しく生活をしております。

このたび、僕が『様々なことに挑戦できる人生』にしてくれたFXの良さを知ってもらうためにnoteの執筆をはじめました。(FXの勉強方法やノウハウなどを書いております。)今回の記事は、実際どんな人がFXで毎月5万円以上を安定して稼げるようになったかを知ってもらうために執筆しました。FXでなくていいので『私も何か挑戦してみよう』と思っていただけると幸いです。

少しでもFXに興味ある方は下のマガジンにて勉強方法や実際に私が使用しているノウハウなどを無料でまとめてありますので参考になれば幸いです。

この記事の目的

この記事は、僕がどんな人間で、どんな思いを持って人生を過ごしてきたか。それを書き記した私の自己紹介を目的としたものです。

正直にお話しすると、僕は自己開示がとことん苦手な人間で、こうしてネット上で自分の身の回りのことを話す日が来ることになるとは思いませんでした。

新卒3年目以降の5年間は、親友と呼べるほど同じ時間を過ごした友達もいませんでした。隠れポケモンカードオタクだった僕の中学生時代のことも全部書いています。今も恥ずかしい気持ちがありますが、思えば現在の僕を形成するとても重要な期間だったので、しっかりと書き起こしていきたいと思います。


僕がこの記事で伝えたいこと

「自分の人生のハンドルは自分が持て!」

新卒4年目の春、28歳の時にふと自分の人生を見つめ直す機会がありました。
新卒3年目までは、忙しい店舗に配属されて朝8時半~23時まで働き休日も週に2日あるのですが1日は出勤して処理しきれなかった残りの仕事をこなす日々を3年も過ごしてました。正直何も考えずに、ただ働いて→食って→寝てで1日過ぎる日々でした。そんな努力も実って4年目に新店の立ち上げを挑戦する機会をいただけました。それをきっかけに忙しい店舗を離れ新店舗へ。ある程度軌道に乗せることができると部下も育ってきて10時~19時出勤と今考えれば普通なのですが当時の私からすれば時間が余りまくる事になりました(笑)しかし、社会人になってこんなに時間ができた事がなかった私は何をしていいのわからず適当に夜更かしする日々。時間の使い方に疑問を持ち、そこからいろんな挑戦をするようになりました。そして、いろんな挑戦の先に、現在こうして会社員をしながらもある程度自由に暮らせる人生を歩めるようになった自分が存在します。

まだ何も大きな事を成し遂げていない僕ですが、読んでいただければきっと僕と同じような社会人生活、同じような思い、同じような人生への疑念を持っている人はたくさんいるんじゃないかなと勝手に思っています。

僕はそんな同じ境遇の人に、少しでも何かに挑戦する勇気を与える存在になりたい

そう思いながら、このnoteを執筆することを決めました。

ぜひ、ご感想やいいねをいただけると嬉しいです。

生誕と、僕の家族の構成について。

僕は1988年11月2日に、愛知県の病院で生まれました。
「眉毛が凛々しすぎる」ってことで他の赤ちゃんと並べてもすぐにわかる
赤ん坊だったそうです(笑)

僕は男兄弟の次男で、4歳上の兄がいます。
兄とは6歳以降はよく喧嘩して投げ飛ばされたりいくつもタンコブをつくっていました。

兄はこの頃からとにかく僕の邪魔をしてきました。
一応反抗はするけれど、兄に勝てずにいつもやりたいことができなかった記憶があります。そして、一緒にいる時は兄と喧嘩を起こさないよう、無意識的に何もしない無気力な人間になっていき、常に顔色を伺いながら過ごしていました。

この「人の顔色を伺う」性格は、大人になってからも身体にしっかりこびりついていました。


小学生時代:好奇心が爆発する。はじめての挫折

・小学校1年生から自転車で遊ぶ日々

僕が6歳になった頃、父の仕事の関係で東京に引っ越しをしてました。僕はで小学4年生まで東京で過ごすことになります。

僕はこの頃、自転車を手にいれて好きなところに自由に行けるようになり、今までは家で兄に邪魔されて好きなことができなかった反動もあり好奇心が爆発しました。「いったことのない公園に行きたい」「近所の友達意外と遊んでみたい」などとにかく自転車で遠くへ行ってはそこで友達を作り遊ぶ毎日でした。小学校2年生の時はあまりにも遠くの公園へ行き過ぎ帰るのが面倒になりパトカーでかえって来るという事もありました(笑)

好奇心が爆発しているので運動と勉強はほどほどにして、一方で僕が夢中になっていたことは多く「ゲーム」「漫画を描くこと」「サッカー」「ソフトボール」「自転車」「虫取り」「秘密基地づくり」「ペットの世話」「ミニ四駆」「ロボット作り」「ゲームセンター巡り」「商売(お菓子売り)」という様々な趣味を楽しんでました

特にソフトボールは、サードで4番などチームの中心で活躍してました。幸いソフトボールしている友達も多く小学校4年生まで真剣にやり込んでいました。

この頃は本当に楽しかった記憶があります。あまり努力してないがそれなりに勉強や運動もできてましたし、すきなソフトボールも上手にできて、幼稚園からの友達も多くいたの何も気を遣わずに過ごしてきて順風満帆の日々でした。


・愛知へ再び引っ越しになる

それから、僕が小学4年生の秋のこと。
僕は父の都合で、再び愛知へ引っ越しになりました。
さみしい気持ちはありましたが、いろいろと自分はうまくできる方だという思い込みがあり、引っ越してもまたうまくできるだろうっと勝手に思っていたのを覚えてます。

転校後にその自信は崩れ去ります…
今までは幼稚園からの友達がいたのとほぼ同学年の子は友達になっていたので小学校2年生以降はずっと新しい友達を作ってこなかったので小学校5年生になってどうやって友達を作ればいいんだ?となりました。

東京と愛知では流行っていることは違っており、東京はソフトボールやサッカーが流行っていたのですが愛知はドッチボールや一輪車や竹馬が流行っており全く違ったのです。はっきり言って全くやったことがないことばかりでもちろんうまくできないので学年の中では中心の輪にいけずにいました。成績も愛知県でもトップクラスの人達が通っていた学校ということもあり中の下くらいをずっとうろうろしてました。勉強もあまりしたことがないので仕方もわからずもがきつづけ他人の目を気にする2年間を過ごしました。人生はじめての挫折でした。


中学時代:ポケモンカードに夢中になる。ヤンキーから陰キャへ

・中学デビューを狙ったが苦しい毎日、インドアの趣味に目覚める

自信を取り戻せないまま中学校へ進学しました。そこで東京での小学校時代のような生活を取り戻すために中学校デビューを目指し、少しヤンキーチックなキャラで中学生活をスタートしました。

予想は的中して、ヤンキーな友達がよってきました(笑)
ヤンキーの友達はマジで悪ばっかりでした。授業中は紙飛行機飛ばしたり、他校に喧嘩しにもいきました。※チキンなので後ろでうろうろしてるだけでしたが(笑)中学校2年の時はひどすぎて先生が学校にこれなくなってしまっていました。友達もたくさんできましたしヤンキーなので学校でも中心グループに入れ女の子にもそれなりにモテました。※コラ!自慢するな(笑)

しかし、中学生活1年とちょっと全然楽しくなかったです。正直悪がかっこいいと思った事もなく、行事とかはできれば真剣に参加したいのですが友達の目が気になりダルさアピール・・・ 東京の小学校時代とは違って他人軸で人生を生きてました。先生がこれなくなったのを機にさすがに学校も動いてヤンキー友達は転校する人や休校させられる人が多く離れ離れに。なぜか僕は説教と親との面談のみで同じ中学に残留してました。

また、一からやり直しになった僕ですがたまたま小学校が一緒で成績がよかった子がクラスにいてその友達に勉強を教えてもらうのがきっかけで次第に仲良くなっていきました。

その友達はTHE陰キャであまり話さないようなタイプでしたが友達もいないし親にも迷惑かけたので勉強くらいは頑張るかとい気持ちで付き合ってました。ある日、その子がポケモンカードが好きみたいで大会が近いので練習相手がいないからやろうと言ってきて小学校の頃に少しやった記憶があったので久々にやってみました。

すると ドはまりしました(笑)

冗談抜きに、半年くらい毎日その友達とずっとポケモンカードをしてました。ほかにも見たことのない漫画やインターネットゲームなど様々な、陰キャ趣味を教えてもらいました。正直周りの目は結構痛かったです。中学校でカードゲームかよ・・・的な。がそんなのはお構いなしに友達と新しいカードの事を話したり戦略を練ったりするのが心の底から『楽しいと思えるようになりました。』

このように、中学生という多感な時期に部活や勉強にのめり込むこともなく、なぞにポケモンカードに夢中になっていたことは、つい最近まで自分の人生の中で黒歴史だと感じ、大学生以降は友人にもこの時期のことについて詳しく話したことはありませんでした。

ですが、この時期は間違いなく今の自分を形成する重要な時間でした。



高校時代:再び挫折、人生は他人軸へ逆戻り

・高校生活を費やしてきたが最後の試験で失敗、人生は他人軸へ

僕は中学の後半から陰キャへ変貌をとげ高校でも陰キャ生活をスタート。

入学当初は知り合いはほとんどいなくまた一からスタートです。
特にいままで部活や勉強などに打ち込んでこなかったので入学当初から目標もなくただ何となく生活してました。仲良かった陰キャ達もさすがにポケモンカードなどは引退してました。楽しみといったら学校から帰る途中でコンビニよってジャンプ読むのとTVとかだけでした。

ほんと今でも記憶がないくらい何もない日々でした。1年生とかは他校の文化祭とかに行ってましたが面白いとも思えず、学校の広報なども誘われてやってみましたが面白さを感じずこの頃は再び兄の嫌がらせがはじまり携帯などをとられたりして家でも面倒くさいなぁと感じながら無気力な日々を送っていました。

それを見兼ねた母は私に目標を与えてきました。

『やりたいことがないなら勉強して何か国家資格をとれる大学にでも入りなさい。』

本当にすることが何もなかったので暇つぶしがてら勉強をはじめました。勉強すると中学校時代の勉強ノウハウが活きたのか成績は上位に入ってくるようになりました。

真面目にテストで上位をとっていればいい大学に推薦をもらえるかもしれないと思いいろいろ学校行事にも積極的に参加しました。これも面白くはなかったです。(笑)

・推薦があと一歩でもらえず・・・

成績は頑張ってTOP5くらいまで上がってきてました。そのころには一緒に勉強上位の事も仲良くなりそれなりに楽しく過ごしていました。しかしTOP3くらいの人が私の狙っていた推薦をもっていってしまいました。歯学部とかを狙っていたそうなのですが成績が伸びずに無理と判断し私の狙っていた学部をとっていきました。

正直、高校生活この推薦を狙ってがんばってきたので悔しくてたまりませんでした。もっと遊んでおけばよかった。もっとやりたくない学校行事とかに参加せずやりたいことをやっておけばよかったなど後悔が押し寄せてきました。

しかし、こんなこともあろうかと下調べをしておいて、ペーパーテストは多少あるものの別の推薦がある事としっていたので私はそちらに切り替えてがんばるようにしました。

別の推薦は20人受かるところで21人応募がありました。
この推薦は学校の成績が7割程度点数を占めていたので落ちることはないと思って安心しきっていましたが

まさかの落選・・・

試験は前年のような作文メインの試験から変わり漢字メインに変更されており漢字が苦手な私は全くペーパーテストができませんでした。その結果まさかの落選
本当に母に伝える時は胸が苦しくなりました。そして僕の高校生活はなんだったのだという後悔に押しつぶされてしまいました。

・合格したものの失敗への恐怖心が根ずく。

試験に落ちた時にはほぼセンター試験なども日が近く、センター対策などをしていない私は真っ白…1週間くらい後悔で眠れませんでした。
諦めて1年浪人しようと思っていたところ、父が他県の大学で高校の成績を重視で見てくれて面接の試験と簡単なペーパーテストで受けれる試験が残っているのを探してきてくれて、挑戦することを決意。滑り止めに別の私立の学科も後期日程を受験しました。そして、私立の試験も意外とできてさらに最後の最後になんとか他県の薬学部に合格できました。

最終的には合格できたものの、僕の人生で大きな挫折がこの大学受験でした。この受験を境に、僕は高校生活の全ての3年も費やしたのにこの結果だなんてと思い

「どうせやってもうまく行かないんじゃないか」
と、理由のない恐れを抱くようになりました。

志は高く、なりたい姿はあるけれども、このような1つの挫折経験から染み付く「失敗への恐怖」が人の挑戦を妨げているのかもしれません。

なので、僕を含め多くの人が大学受験で「挑戦しない人間」になってしまうのではないかと、今振り返ってみて思います。


大学生時代:失敗を恐れながら過ごす日々と、就活での気づき。

・ごく普通の大学生生活を送る

高校卒業後、僕は石川の大学薬学部に入学します。
薬学部を選んだ理由は「親も喜んでるし薬剤師って給料安定してそうだから」という理由だけでした。

ですので、もちろん薬剤師に憧れて入ってくる人に比べると授業を受ける態度などは薬学部ですが普通の大学生並みでした。(ちょいちょいさぼる)

1回生のときこそ、もう勉強で失敗したくないと思いかなり勉強してましたが、別に薬剤師になりたいと思ってはいった学部でもないので、徐々に気持ちは薄れ、大学の友達と遊んでばかりの日々を過ごすことになります。
それはそれで楽しい時間が過ごせました。

原付バイクで、よく遠方へ輪行し行ったり外食にいったりしてました。

当時の薬学部には特待生制度もあり上位数名には奨学金として30万円とかもらえる制度がありました。もらっている同級生もちらほら見受けられました。ですが、真剣に目指して失敗したらやだなという思いから、そういう人は「変なやつ」「どうせなれっこないのに」「意識高い系はウザい」と仲間内で陰口を言うような空気がありました。

今振り返ると、僕は周りにいる挑戦する人を見て、単にうらやましく思っていたのだと思います。

あの大学受験で味わった挫折を、もう味わいたくない。
失敗をさらけだすのも味わうのも怖くなった結果、すっかり僕は挑戦できない人間になってしまっていました。

・就職活動に対する認識の誤り

3回生の夏。
同級生との会話の中で「インターンシップ」という言葉をよく耳にするようになり、僕はなんとなしに就活に対して意識をするようになります。

そしてこのとき、僕は大きな勘違いをしてしまっていました。
「就活」を「大学受験」と同じようなものだと考えていたのです。

「これまで高い学費を払ったのだから、大手企業に入らなければ親不孝。」
「大手の企業に入ることが正義で、それ以外だと就職してから苦労する。」

「大手企業に入ることこそが正しい道・成功者の道」であると錯覚し、企業の規模の大きさを極端に気にして、まるで大学受験でできるだけ偏差値の高い大学を目指すかのように就職活動を考えていました。

本当にのんびり大学生活を過ごしていた僕は、危機感を感じ取って周りの友達よりも随分早くから就職活動の準備を始めます。
3回生から多くの会社の会社説明会に顔をだし、まだ3回生だけど来たよアピール、エントリーシートを提出して書き方を分析したり、SPIテストの勉強をしたり、大学のキャリア相談センターで面接練習を受けたりしていました。

「成功をしたい」というよりも、「失敗することが怖い」という想いが当時の僕を突き動かしました。

来たる4回生の春。

就職活動が解禁すると同時に、僕は一斉に大手企業に向けてエントリーシートを提出します。毎日のように面接を受けながら、だんだん面接の空気感に慣れ、ついに5月には受けた会社全てで内定をもらうようになりました。
(働き手が少ないのでほぼ内定が出ることを後でしりました笑)

ですが、僕はこの内定をもらった時点でもその会社で具体的にどんなことがしたいのかがイメージできず、そしてそれが「自分が人生をかけて成し遂げたい仕事なのか」なんて考えたこともなく、ただ名の知れた大手企業に行ければいいとだけ念頭においていました。
いわゆる大手病です。やりたいことなんて、入社すれば見つかると信じていました。

結果、僕は当時付き合っていた彼女(現奥さん)がいた東海の大手企業に新卒で入社することになりました。
同じ大学の同期は少なかったですが、すでに社会人の彼女も近くいて安心感もあって、自分の中では納得の行く結果に落ち着きました。

社会人1年目:希望に満ちた社会人生活スタート。

・想像とは異なる会社員生活

2013年4月2日
愛知県にある、会社の大きな研修施設にその年の新入社員全員が集まりました。総数は700人超えで、改めて大きな会社に入ったんだということを初日から実感します。

これまでもそうですが、全く新しい環境に飛び込むたびに「新しい自分」になろうとする自分がいたため、常に落ち着かず、ピリピリした空気を保ちながら研修を受けていました。結果、なんだか終始いい子ぶって絡まっていた感覚があります。

この研修期間は大人数での飲み会が毎日のように開かれていましたが、もともとインドア趣味の内向的だった僕には苦痛に感じることのほうが多く、この頃からストレスを溜め込んでいました。

その後は配属先の県にもどりいくつか研修を受けて、職場に配属されたのが2013年の5月頃でした。
当時、言い渡された僕の配属は【県で一番忙しいで有名な店舗】でした。

実は、早く出世してあとあと楽な生活を送ってやろうと甘い考えを当時持っていた私は自分で一番成長できる店舗にしてくれとお願いしてました。希望は無事に通りました(笑)本当に忙しく店舗の上司も本当に一切指導というものがなく背中で覚えてすぐに実践してくれっというイメージと異なるものでした。当時は同期に愚痴っていましたが、今振り返ると私は内向的なのであまり話して指導されるよりかは不明点を軽く聞く方などの方があっていてたのでよかったのかもしれません。

結果、1年目新人であったので残業はそれほどありませんでしたがあっという間に過ぎていきました。1年目の同期と比べて自分はやっているという優越感や上司が顔が広かったので飲み会によく誘ってもらい会社の上の方に顔を覚えてもらえたりといいことも多かったです。

社会人2、3年目:環境の変化によるストレス爆発。電気代が払えなくなる。

・環境の変化に精神が耐えられなくなる

2年目からは上司が出世したためその後釜の管理職に出世しました。
正直異例中の異例ということで周囲の目もすごかったです。
2、3年目は目まぐるしい環境の変化に付いていくのが精一杯だった僕は、よなよなネットでポッチって買い物でストレスを解消してました。

所属している店舗はとても優しい方ばかりだったのですが、年齢差が激しく、腹を割って話せる人が当時いませんでした。もちろん同期で同様の状態になっている人はいるわけもなく。仕事を振る部下も年齢差がありすぎて最小限しか振る事をせずにほとんど自分でこなしていました。新しいプロジェクトも当時は3つくらい掛け持ちしており今考えてもすごいなと思います。

さらに、出世を目指していたの僕は久しぶりに上司にあうと機会がありました。すると考えられないくらい疲れ果てていて24時まで毎日働いているというのです。店舗ではあんなにイキイキしていた上司がうつ病じゃないかという感じまで追い込まれていました。出世すれば指示を出すだけと勝手に勘違いしていた僕には衝撃的でした。給料も本部社員は当時残業代が出ないので2年目の僕より低くなってました。

勉強なども仕事終わりにする気が起きず同期との知識差は気づいた時にはかなりありました。慣れない仕事に、よく残業や休日出勤をして上司に怒られました。

メンタルなんて、面白い動画を見て腹を抱えて笑えばすぐに良くなると当時は思っていましたが、そんな考えとは裏腹に、僕は無駄づかいがどんどんひどくなっていきました。ついには電気代を滞納するまでに…

しかし、忙しすぎて自分の人生について考えることは全くなく思考停止で舞地にがむしゃらに目の前のタスクをこなしていきました。

社会人4年目:新プロジェクト成功。人生について考える。

・2017年6月 新店舗の立ち上げプロジェクトを任される。

3年間がむしゃらに頑張っていた事もあって新店舗の立ち上げを任してくださったので挑戦してみることにしました。

4年目も忙しい店舗をこなしつつ空いた時間で新店の準備など本当に大変でした。マニュアルすらなかったのでヒナ型でありますが自分なりに作ってまとめたりしてました。

そして、7月にオープンし半年近くで目標としていた売り上げを達成したり新規のプロジェクトを始動させて結果を残したり、またしたことのない営業などもしたりと大変でしたが今までとは違い少し時間に余裕も生まれてきて楽しくやってました。

いざ評価面談のFBの日に僕は衝撃を受けました。
数字的にもプロセス的にも今までにないほどの結果を出したのですが評価は【平均】ということでした。理由を聞いたのですが【結局立地がよかったやマニュアルなどは作ろうとしていた、残業が多すぎる】など理解できないものでした。※時間はどれだけ使ってもいいので売り上げを突破しろと言われていた。

また何を改善すればいいのかを説いても返答はなし。
ここではじめてどんなに頑張って数字をだしたところで評価されないこともあると知りました。正直数字はいくらなんでもごまかせないと信じてたのでショックが大きかったです。

給料もこんなに4年間頑張ってきたのに月に数千円~1万円しか変わらないことに気づきさらにショックをくらいました。

「これが自分の正解だ」と選んだ道を進むにつれ、僕は正直、「本当にこれが正解なのか」と疑問を感じていました。

ですが、過去の自分の判断を「失敗」だと認めたくなかったため、何年間も自分に嘘をつき続けて、無理矢理にも納得しようとしていたんだと、この時、身を持って気付きました。

そしてモヤモヤした日々を過ごしながら社会人になって初めて自分と向き合う時間を持ちました。

「結局自分のやりたいことって何なのか」

と自問自答する日々を過ごすようになります。

・AKIOBLOGさんとの出会い

このように僕が自分の生き方に疑問を持ち始めた頃、YouTubeの急上昇ランクに載る、筋トレ大好きサラリーマンのルーティン動画に出会います。

それがAKIOBLOGさんの動画でした。

ただストイックに【朝活→会社の仕事→筋トレ】を繰り返す生活を送るAKIOBLOGの姿が、当時の僕には異常に刺さりました。
他の動画を見てみると、どうやらこの方は月収100万円を目指して副業を4つ掛け持ちしているらしい。

こんなに活き活きと過ごすサラリーマンがこの世にいたのか
と感銘を受け、すっかりその生き様に魅了されます。

「僕もAKIOBLOGさんみたいに、人生を本気で生きたい」と思い、それからAKIOBLOGさんの生活を見習う日々が始まります。
筋トレを始めたり副業を始めたりしました。

副業はちょうど両学長のリベラルアーツというyoutubeチャンネルでオススメしていた【せどり】をはじめました。せどりは即効性もあり2か月目には月数千円稼げてました。※時給換算したら大したことないですが

『俺の4年間の給料の差がこれでなくなるなんてトホホ』と当時は思ってました。

会社で会社のために頑張るのではなく自分の人生のために自分のやりたい事を頑張ろうと思い出世街道を降りる事を決めて、かかわっていた様々なプロジェクトが終了したことを機に頼まれごとなどは全て断るようにしていきました。

社会人5,6年目:結婚、出産を機に人生転落

結婚、子育てを甘くみていて自分の時間がなくなる。

AKIOBLOGさんの動画に出会い自分の人生のために頑張ろうと決めてから
本当に好きなことをしてきました。副業でしていたせどりも単価の高いカメラにしてからは月に5万近くまで稼げるようになってました。

お金の勉強も始めて投資信託などにも挑戦し始めてました。周りの目は今まで仕事一筋だった人が投資に急に熱が変わったので大丈夫か?という感じでした。※この頃は投資=あぶないという世間の目でした(笑)

周りの目とは違って本当に自分のために時間を使ってそれが結果として出ている状態が心地よかったです。余裕もうまれてきて年齢もよくなってきたため当時付き合っていた彼女と結婚することになりました。

しかし、この結婚が僕の自分時間を削る選択になってしまいました。
本当に毎日せどりのリサーチをしていたので結婚した当初から喧嘩の毎日でした。今思えば何しているんだと思いますが、当時の僕はやっと人生楽しくなってきたのになんで邪魔するんだと本気で思ってました。

さらにせどりのカメラ系はライバルも多く、すり替えやわざと購入し後すぐに返品するなど嫌がらせをする同業者が多々いました。Amazonは販売者にはものすごく冷たい対応なので報告してもあまり効果がなく嫌がらせは続きました。今考えればそれで食っている人もいるので必死になるのもわかりますがあまりにも酷く結婚でのストレスもありメンタルが落ちていきました。

さらに翌年には第一子もう生まれ夜な夜な梱包などもできずまたリサーチする時間も全くとれないのでせどりは断念する事にしました。

社会人7,8年目:人生再転落からFXに出会う

結婚・子育てで自由時間激減からFXが救ってくれる。

7,8年目はプロジェクトも参加していなく時間をあり待っている事を会社にもバレていて再び別でありますが忙しい店舗へ異動になりました。

結婚と出産もかぶってしまい再び忙しい生活が始まりました。
異動先の店舗は新しく入ってきた中途の方が問題児すぎて職場は毎日荒れていました。

僕はうまくコントロールしていたのですがもともと問題児が一人いる現場にさらに問題児が参入してきたため僕が外にいる時はもう手を付けれないとパートさんからも愚痴られる毎日でした。

会社も最初は動いてくれずに苦労しましたが最終的にはユニオンなども介入する大事になりやっと解決するなどトラブルもありメンタルはズタボロ。
ここでも会社はやはり守ってはくれないと痛感するできごとでした。

そんなズタボロの毎日の中何か変わらなくてはと思い考える日々。
モンモンと考える日々で一番したいことをやろうと思いました。
出た結果が旅行でした。

しかし、奥さんは育児休暇中で資金もカツカツで旅行に行く余裕なんてないしどうしようと考えていて調べるとFXは僕のライフスタイルにピッタリでした。せどりやブログと違い多くの時間を使わなく24時間相場が動いているのでいつでもできるとい点にひかれてスタート。

正直、FXって怖いなぁと思ってましたが、当時の現状ではFX以外の選択肢がありませんでした。※この選択肢が他になかったことがよかったです(笑)

はじめは休憩時間やお風呂で勉強する毎日でしたが覚える知識は正直あまりないので練習する日々が多かったです。練習も練習ソフトがあるのでそこまで時間をかけずにできました。現在は月に5~10万前後を一日1時間半~2時間くらいの作業量で稼げるまで成長して半年に1回大きな旅行を楽しみながら残りは老後+教育資金にあてて将来の不安をなくし楽しく暮らしています。

今後のビジョン:「僕は、僕のような人を救いたい。」

今後は、この長い人生の経験で得た『自分の人生のハンドルは自分で持て!そうすれば人生は楽しくなる』の考えを伝えるべく発信者として活動していきたいと思っています。活動目的は、「僕のような人を救いたい」という思いです。

「僕のような人」とは、「高い目標を持とうとするポテンシャルを秘めているのに、たった1つの挫折経験から挑戦に恐れ、人の顔色を伺いながら、失敗の無いよう、人から笑われることの無いよう平穏に過ごすようにしてきた学生や社会人」のことです。

こういう人は、かなりたくさんいると思っています。

僕は俗に成功者と言われるような人たちにありがちな「1つの物事をずっと続けてきた」という経験がありません。
この記事に書いてある小学生時代の通り、これまでもずっといろんなことに興味関心を移して生きてきました。

そんな僕が人生をかけて成し遂げたいことに気づけたのは、現状に留まらず、小さな挑戦をしただけです。
特にこの過去1年の変化は目まぐるしく、「1年で人生は変えられる」ということを我ながら実感しています。

「僕は、僕のような人を救いたい。」

その第一歩として、まずは、僕の人生に大きな影響を与えてくれたFXってこんなに楽しいって知ってほしい。毛嫌いせずに一回でもいいの挑戦してほしい。

そして、もちろんFXじゃなくても
「自分も挑戦をしていいんだ」
「挑戦は格好悪いことじゃないんだ」と気づいてほしい。

きっと、このマインドを持って行動するだけで、1ヶ月後、半年後、1年後の未来は想像もできなかった自分になっているはずです。

ここで突然ですが、SNSでたまたま見かけたタレントの黒柳徹子さんのお言葉が胸に刺さったのでご紹介します。


『アタシはピアノを始めた時、いい歳だったのよ。今から習ったってしょうがないわよって歳。でもね、考えたの。今始めなかったら来年の私はこう思うわ。「去年始めていればピアノ歴1年だったのに」って。そして10年経ったらやっぱり10年前に始めていればよかったって思うかも知れないでしょ。だって10年続ければもう初心者じゃないわ。ピアノ歴10年って立派なキャリアよ。だから私は思うの。何事も始めようと思い立ったときに遅すぎることはないの。その瞬間から始めればいいの。あの時始めればよかったって後悔するよりいいわ。』

黒柳徹子

とても長い自己紹介になってしまいましたが最後まで読んでいただいてありがとうございました。

長い人生かけて気づいたことは
本当にやりたい事は何かをしり挑戦することで人生は楽しくなる
そのためには他人に言われたことでなく自分の本当にやりたい事は何か
自分に問いかけてそれに挑戦する。

まさに『自分の人生のハンドルは自分が持て』です。
子育て中の方で子供メインなのはもちろんですがその中で少ない時間でも妻など他人の顔色なども気にせずやりたい事に挑戦するだけでも人生全然楽しくなります。さぁ一緒に一歩挑戦してみましょう!よーい。スタート!!!

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