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トーニオ・クレーガー

本当は知らなくていいことってあると思う。
今の世の中は正しいこと、正確なことばかりを追い求めている気がする。
「嘘も方便」なんてのはとっくに死語なのかもしれない。
それは動画でも言ったけど、例えば小説のタイトルを少し間違えて言ってしまったり、言葉を噛んでしまったり。
そんなことに目くじらを立てて問いただすのが果たして善行なのだろうか?
「粋」じゃないなぁ、と思う。
落語に出てくる八五郎や熊五郎の言動を見て、今の人たちは笑えなくなっているのではないか、と思う。
「なんでそんなことをしたんだ、君、間違ってるよ!」と高座の最中に客席から言い出しかねない。
それが今どきの若者ならまだしも結構な年齢の人だったりする。
下手すると僕と同年代の人もいたりする。
ということは人間がどんどん無粋になって、理解力が乏しくなっている、という話ではなく元来人間というのはそういう気質の人がある程度存在している、ということなのかもしれない。
SNSは発信する相手の顔が見えない場合が多い。
なので、発信するときは受け手側の気持ちより自分の気持ちを尊重するものなのかもしれない。
そこに勘違いが発生しているのだろう。
最近SNSで見た言葉が「過剰なお客様根性」という言葉だ。
実に良い言葉だと思った。
まるで自分がその店に足を運んでお金を支払ったときのようにSNSで「お客様根性」を出している輩がとても多いような気がする。
YouTubeでも「〇〇してください」「今度は〇〇しないの?」などと言ってくる人がいます。
ありがたいことに僕のYouTubeチャンネルにはそういう「たかり」みたいな人はいませんが、人気者にはそういう人が何人かまとわりついているような気がします。
黙っていることができない人が増えたのは誰でも気軽に発信できるようになったからです。
そうなると真実を教えてやろう、とか他人の考えを正してやろう、と考える人が増えてくるのも当然の流れかもしれません。

でもね、知らなくていいこともあるんですよ。

着ぐるみの中の汗だくのおじさんの姿は見なくていいし、無駄毛処理してるアイドルの姿も想像しなくていいんですよ。
子供の頃、僕は促進住宅に住んでいて動物が飼えなかったんです。
するとある日、迷い犬が住宅にやってきた。
住宅に住んでいた友人何人かでその犬を飼うことになった。
もちろん部屋で飼うことはできないので、住宅の敷地内の空いたスペースで飼うことにした。
僕たちは嬉しくなって簡易の小屋をつくり、毎日エサをやって当番制で散歩もしていた。
そんなある日、作業着を着たおじさんがその犬をどこかへ連れて行こうとしました。
必死で止めようとする僕たち。
そこでおじさんはこう言いました。
「あのね、このワンちゃんが病気にならないように予防注射をするだけだから、ちょっとだけ預からせてね」
僕たちは、なんだそういうことか、と安堵して、その犬をおじさんに手渡しました。
去り行く軽トラを見守っていると、友人のお父さんがやってきて、
「あれ保健所やで。あの犬、殺処分されるわ」
と言いました。
その後の僕たちの地獄のような空気、想像できますか?
真実なんて知らなくていいこともあるんです。
だいたい、それを言うてなんになるの?
言ってる本人がちょっと気持ちよくなるだけです。
実にしょうもない。

トーマス・マンの『トーニオ・クレーガー』は自分は才能があると信じ込んで芸術とは何かを雄弁に語るトーニオが主人公の物語です。
物語中盤、芸術とはなんたるかを語ったあと、友人からたった一言「あなたは普通の人よ」と言われてしまいます。
小説の中ではその言葉を受けてからトーニオの言動に変化があらわれ、なんとか明るいクライマックスへと向かいますが、それはあくまで小説のお話。
もし現実なら「お前に何がわかる」と反論されるかもしれない。
塞ぎ込んで取り返しのつかないことになるかもしれない。
自分の快楽を最優先にして言葉を発していると、後々大変なことになるかもしれないですよ。
「口は災いの元」
これも死語になりつつありますね。

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