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長谷川等伯の松林図

去年書きためていた下書きを、加筆修正してアップしました。

(執筆時2022年2月)

先月、まだオミクロンが激しくなる前ですが、上野の国立博物館に行ってきました。お目当ては長谷川等伯の「松林図(国宝)」です。写真もOKだったので撮らせてもらいました。

松林図と言えば“国宝100選”みたいな特集があると、大抵絵画部門の筆頭にあげられる名作中の名作です。

久しぶりに見るとやっぱり凄かったですね。昔は正直ピンとこなかったんですけど、自分の年齢が追いついたのもあるかもしれない。絵を見て鳥肌がたったのって初めてかもしれません。

「松林図屏風(国宝)」長谷川等伯

圧倒的な実在感。風や、空気の湿り気、松のツンとした香りさえ漂ってくる気がする。まさに松林の中に立っているような気持ちになる。たった1色の墨の濃淡と筆遣いで、ここまでの表現ができるんですね。 

松の葉の描写(アップ)

近くで見ると、案外雑に見えるんですけどね。笑

でもこの荒々しい筆跡、見たものの形を寸法通りにトレースしたいんじゃなくて、自然が内包するエネルギーそのままというか「松の木を松の木たらしめている本質」そのものを形にしたらこうなったって感じがしてならないんです。

言うなれば、松の木の命を絵画に宿そうとしている。これは松林の絵ではなく、松林そのものなんだと。これってそのまま、西洋画と日本画の「写実」に対する切り口の違いだと思うんです。

子供の頃には、遠近法や陰影の表現も細やかな西洋画の方がずっとリアルで写実的で、日本画より進んでいるように感じていたけど、今では日本画のデフォルメされた表現には、日本画なりの「写実」があるんだということに気づき始めました。

そう思いながら江戸時代の浮世絵なんかを見ると、単なる絵師の誇張表現や遊び心として片付けることはできません。例えば北斎の富士。

少し前に沼津の港から富士山を見たことがあるんですが、「北斎の富嶽三十六景の浮世絵、そのままじゃないか!」と思ったことがあります。

太宰治が小説で言ってるように、確かに北斎の富士は現実の縮尺よりもとんがっています。太宰はそれを茶化していますが、生で見る富士山のエネルギーというか、胸がすくようなあの気持ちを表現しようとしたら、やっぱりあれぐらいの角度で描かなきゃいけない気がするんです。逆にそのまんまの縮尺を写せばいいなら、わざわざ絵という手段で表現する必要なんてないんですから。

現代でもスタジオジブリなんかでは、背景を描くときに遠くのものを設定よりひと回り大きく描く手法が用いられているそうですね。(千と千尋に出てくる湯屋の登場シーンとか)

それはある意味、”見たまんま”をそのまま表現している状態に近いんじゃないでしょうか。見たものを、ありのまま描く。現代では様々なHow Toであったり誰かの解説であったりと、色んな情報が飛び交うことで変な先入観が横槍を入れてくるので、なかなかそれが難しくなっているように思うのです。もちろん、便利なこともいっぱいありますけれど。

自分の“見たまま”を信じる。ここ最近の僕のキーワードです。

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