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『本とコンピュータのネットワーク』的昔話7

 FSUIRIの十年

 電話というのは、音を電気信号にして伝えよう、というアイデアを実現したものである。
 音を電気信号に変換するのがマイクロフォンで、電気信号から再び音に戻すのがスピーカーだ。具体的な技術はよく分からないが、音の波形も電気の波形も振動であることは変わらないと、原理的にはそういうことだ。
 で、電話機、とりわけ受話器というやつは、マイクとスピーカーでできており、信号を遠くまで伝える電線とつながっている。ここの信号というのは、いわゆる、アナログというやつである。少なくとも、四十年くらい前は、ほぼそれしかなかった。
 音というのは空気の振動だ。大きく小さく高く低く、あるいは細かく、ゆるやかに変化する。その波形を、そのまま電気信号の波形に変えて、伝わった先ではそのまま音の波形に変換してやる。それで、元の音のような音が再生される。こういう、自由に変化する形そのものを扱うのが、大ざっぱにいえばアナログ技術だ。
 音だけ取り扱っているのなら、この、音の波形をいかに元の波形に忠実に再現するか、という話になる。
 だが、そのための機器を、予定外の使い方で利用しようという話が出てくる。というのも、オーディオ機器は練れた技術で、比較的安価に製造できる。たとえばパソコンの記憶装置として使ってはどうか、と。
 初期のパソコンの記憶装置としてカセットテープレコーダーが使われた、という話を前にした。これも、高価な専用機器を買ってもらうのは難しいだろうから、安価なカセットレコーダーで代用しよう、という発想だったわけだ。(後にオーディオもデジタルに変わってゆくのだが、あえて無視する)
 だが、ここにひとつの壁が生じる。
 コンピュータで扱うデータはデジタルデータという形をしており、音声機器で扱うアナログデータとは根本的に異なるのである。いうなれば、デジタルというのはスイッチのONとOFFだけで作ったつっけんどんな信号だ。もしアナログ機器で扱おうとするなら、音のあるなしでデジタルの0と1に対応させる、とかするわけだ。
 ところが、アナログデータというのは多少の乱れが含まれる。50(単位はよく知らないが、おそらく電圧を測るボルト関係)あれば1(こっちは単位がなく、純粋にデータ)にしよう、とたとえば決めていたとしても、42とか11とか、あるはずのない信号が来る。それを、1にしていいものか、0と読むべきなのかが微妙になってくる。
 そのあたりを、どう決めるかは、データの電送時に、どれくらいノイズが乗ってくるかが重要だ。それには、伝送経路の長さだって大いに関わってくるし、最大どれくらいのノイズなら許容できるのか、あるいはどれくらいノイズが乗っているか判断できるかどうかが大切である。
 長々と奇妙な話をしたのだが、要するにこれから始まるのは、電話線で複数のコンピュータをつなぎ合わせよう、というシステムに関わるお話だからだ。
 いや、本来ならばコンピュータ同士の接続も、デジタル用の回線を使うべきだ。実際、コンピュータ単体としては、内部の接続はデジタルであるし、現在、インターネットやらなんやらで使われているのも、アナログ変換なんて面倒なことはしていない。
 だが考えてみて欲しい。たとえば世の中に自動車というものが出現した時に、自動車が専用道路を走らなければならないとしたら、自動車なんて誰が乗るだろう。そんな道路が最初からあるはずはなく、これからどう普及するかも分からないのに、いきなり全国に道路を敷く計画が認められるだろうか。だから、自動車は、これまで人が歩き、荷車が通っていたその道を、不便な面も受け入れて、通るしかないのだ。
 同じように、複数のコンピュータをつなぐことを考えた時、すでに存在していた電話の仕組みを使おうとするのは、必要な妥協だったわけだ。デジタルデータを、音であるかのようにごまかして電話線に乗せて、受け取った側で元のデジタルデータに戻すわけだ。
 大昔、私がSEだった頃、コンピュータの操作は現地まで行ってやるしかなかった。ほんの小さな作業、ちょっとしたプログラムを実行する、みたいなことでも、それなりの時間をかけて顧客のコンピュータ室に行って作業しなければならなかった。これは大変だし、無駄だ。
 そこへ、音響カプラという機械が登場する。電話の受話器に、マイク側にスピーカーを、スピーカー側にマイクを押しつけて周囲を防音する。この機械がデジタルを音に変えて(この機能については別途持つ必要がある)電話線で送るための(妥協した)仕組みだ。
 こいつを使って、片道一時間以上かかる顧客まで行くべき作業を(簡単なものなら)会社でやれるようになる。もちろん、受け取り手であるコンピュータには、電話線からコマンドを受け付けられるようにシステムが組んであるわけだが、そんなものを使うのはおおむね担当のSEだけなので、ちょっと贅沢だった。
 しかし、元はデジタルであるものを一度アナログの音にして、しかもマイクとスピーカーでやりとりするというのは無駄にノイズを乗せる原因となる。たしかカプラの通信速度は300bpsくらいだった。一秒に三百ビット、アルファベットなら8ビットで一文字だから、一秒に三十文字くらい。ノイズ対策などもするから実際はそれより遅くしかデータを送れない。もし漢字を送ろうとしたら、一文字に十六ビット必要なのでさらに半分。
 そんなわけで、ほとんど使い物にならなかった。
 けれど、せめてマイクとスピーカーの部分をなくして、直接電話線にアナログ化したデータを送ってやればどうだろう。
 というわけで、モデムという機械が登場する。モジュレーター・デモジュレーターの合体マシン。データをアナログにしてやって、アナログをデジタルデータに戻す。その両方ができるようにしたマシンである。
 こいつの登場で、しかもそこそこ安価に入手できるようになったおかげで、一般のパソコンやワープロにも、通信という機能を使える機運が高まるのである。
 そうして、パソコン通信と呼ばれるサービスが始まる。まだインターネットではない。まずは、サービスを提供する会社がメインマシンを持ち、利用者はモデムと電話線を通して自分のパソコンやワープロをマシンに接続する。そこには大きなホワイトボードのような領域が準備されていて、各人が勝手になにやらメッセージを書き込み、あるいはそれを読む。今で言うところのSNSみたいな、あるいは掲示板みたいなものだ。短い文章をその場かぎりでやりとりするチャットなども可能だ。
 それぞれはちょっとした機能に過ぎない。けれど新しく提供された機能は、その使い方を探り探りしながら、新しい文化が作り出されて行くことになる。
 現在、ネット、と呼ばれるのはインターネットのことだろうが、まだそんなものは一般的には登場していなかった時代である。
 パソコン通信というのは、大手がいくつか、あとは個人で運営している草の根ネットと呼ばれるようなものがある、という時代。それぞれは独立していて機能もまちまちだった。パソコン通信サービスを提供しているところが設けた電話番号に、モデムを使って自分のパソコンをつなげて、なにやら読み書きする。ただそれだけ。接続している間は電話料金と接続料金とが発生する。データ量ではなくてつないだ時間だけ青天井でお金がかかる。勝手に広告なんて入れたら怒られる、というのも当然だ。
 ある程度までそこにお金をかけられる、相応の覚悟と収入がなければやってられない、いわば道楽であった。
 大手としては、NECが提供するPC-VAN(後のBIGLOBE)と富士通が提供するNIFTY-serve(後の@nifty)、アスキーネット、新聞社主導のASAHI-NET(筒井康隆が新作を連載して話題となった)等があった。最初はそれぞれに自社の製品やサービスを売るために作ったのだろうと思う。
 そのことが今にいたるネット社会の始まりなのだった、とかなんとか言ってもいいだろう。
 
 さて、ずいぶん前置きが長くなってしまった。
 ここから、パソコン通信というサービスを通して始まった、ある文化の始まりと終焉について軽く語ってゆこうと思うのだ。

 ただ小説を書いて、同人誌も作る、だからきれいに速く印刷したい。そういう目的で私がワープロを買い換えたのは、たしか一九八九年のことだ。ということは、平成元年である。
 もう会社は辞めていたはずだが、AんIを通じて元の同僚とのつながりがあった。『思い通りにエンドマーク』という初めての単行本はその前年、かろうじて昭和の、まだ消費税が導入されていなかった年の六月に発行されている(島田荘司、泡坂妻夫が同じ月に出たっけ)。
 ということはおそらく、私は初単行本の印税ってやつをあてこんで、ワープロを新機種に代えたのだ。
 あけすけに書くが、初版部数が、たしか一万八千部。バブルの名残かなにか知らないが(いや、綾辻ブームのおかげか)、十分以上に多く刷られたと思う。定価が七百円程度だったろうか。
 印税というのは確たる決まりがあるわけではなく、ちょっとした習慣みたいなもので、定価の十%掛ける刷り部数を、まとめてもらえる(大手出版社であればこそ、か)。
 このほとんどを、私はワープロ購入に投入した。そうして、この時にたしか三浦俊雄だったかに「パソコン通信やりなよ」とそそのかされて、そのための設備も同時購入していたのである。
 では、どこの会社につなぐかといえば、マシンがオアシスなのだから一択だろう。NIFTYだ。

 ニフティにおいては、やや独自のシステムのようなものがあった(いや、他は知らないのだった)。
 チャットや掲示板というサービスはたしかに存在する。ここは、会員になったら誰でも参加できる。つまり、すべての会員を対象にした広場だ。
 が、ここでなにかを発言しても、話し相手を見つけるのはけっこう難しい気がする。私などは臆して、ついに一度も参加しなかった。
 が、ニフティにはフォーラムと呼ばれたサービスが存在していた。これは、ニフティの小型版とでも言うべきもので、特定の趣味、興味によって分けられている。チャットや掲示板も設けられるが、その最大の特徴が、会議室と呼ばれる仕組みだった。それは、同じような興味を持つ参加者を、話題ごとに割り振ることができる 場 が作られている、ということなのである。
 さて、前述したように、パソコン通信に初めて参加した時の私は、単行本デビューの直後だった。つまり、それなりの場所に行けば、私のことを知っている人がいるかもしれない、ということを意味する。
 新しい場に参加する時、ついつい通行手形みたいなものを欲しがり、頼りにするというのは、今から考えるとみっともないことだ。が、そんなものでも、それがあることで活動をできるなら、あったっていいだろう。
 そこで行くことにしたのが、FMYS&FADV。ミステリと冒険小説のフォーラムだった。
 幸い、というべきか、そこに行ってみたって私がチヤホヤされるようなことはなかった。その頃、まだ新本格と呼ばれるムーブメントは、あまり力はなかった。とりわけ冒険小説を好んできたタイプのベテラン読者たちには、「なんだあんなもの」「人間が描けてないね」だったのだから(笑)、売れてもいない私なんぞ目くそ鼻くそだ。
 また、ジャンル内のプロ、と呼ばれるようなメンバーもすでに何人かいた。「闇を映す鏡」を下選考で読んだとのたまうミステリ評論家の関口苑生や、まだライターだったが後のベストセラー作家・馳星周、ハヤカワでSF系の文庫を上梓していた作家の松村光生といったところ。
 フォーラムのリーダーはSYSOPと呼ばれ、その場を仕切っている。この時、小城則子と名乗る(本名ではなかった)女性がその役目をになっていた。
 新しいコミュニティに参加して、和気藹々と楽しく、やってゆくはずだったのだが、ほどなく、内部でもめはじめるのである。
 まことにもって、もめ事というのは面倒くさい。小さいとはいえ、そこは政治の場でもあった。SYSOPはある意味で全権を持つ存在だ。一方、利用者は金を払ってサービスを受けに来ているのだから、不愉快な思いはしたくない。しかし実のところ、ニフティそのものを代表できるわけではないSYSOPはたかだか素人なので、なかなかにややっこしい関係が生じる。
 ああだこうだと文句ばかり言われて、時間や体力は取られて、しかも報酬もあまりない。そもそもが、好きなことを話すための場が欲しいという理由でニフティに届けを出しただけのSYSOPなのだ(最初の頃なんてそんなもんだ)。自ら世話役がやりたかったわけではない、ということになるのも必定。
 私ももめ事に加わってしまったが、メールなどいくつも書いて、出来るだけ穏便に済まそうと動いていた。
 なんとか出来る、と思っていた。
 だがそんなある日、一本の電話が来る。
 なぜ彼に電話番号を教えてあったのか定かではないが、いきなりかかってきた電話は関口苑生からだった。
「SYSOPやってくれない?」
 という、それは青天の霹靂ともいうべき内容。いや、まだ小城さんがやってくれるものと思いこんでいた私には、なにがなにやら分からない。
 つまり、小城さんは嫌気が差してSYSOPを辞めることにした、と。ついては、FADVのメンバーで、たしかサブシスだったシュンさんにSYSOPを引き受けてもらえないかと打診。ところがシュンさんは、冒険小説は良いけれどミステリは嫌だ、と。できればこの機会に分離させたい、ということになった。
 そこでプロであり、そのぶん権威のある関口さんにそっちを引き受けてもらえまいか、と話が行く。けれど関口さんは固辞。では、と松村さんに話を持っていったが、こちらも辞退。しかし、このままゆくとニフティから推理小説を語る場がなくなってしまう。
 で、まだニフティに参加して日も浅い私のところに依頼することになった、と。ほどよく売れてない、けれど一応プロの推理小説家であるから、ニフティだって嫌とは言うまい、と。
 軽く決めたのだとしても私はパニックであった。しかも「返事は夜まででよろしく」ときた。
 猶予は数時間。即座に断れば、まだ別の人にお願いする時間があるかもしれない。が、その場合、私より短い時間で決断せねばならない。しかも、そういう人が見つからなかった場合、推理小説フォーラムはなくなってしまうかもしれないのだ。
 迷って、「少し考えさせてください」と返事したわけだが、これは事実上の受諾に他ならなかった。考えた末に断ったら、それが最終結論、すなわち推理小説フォーラムの消滅だ。
 ただ、私としては、推理小説フォーラムをうまく差配できるのではないか、という自信はあった。そこまでのもめ事の展開で、なにをどうすればいいのか、というおおまかなビジョンはできていたからだ。AんIの運営経験も生かせるはずだった。問題は、そんな余裕が私にあるのか、という一点。
 まだAんIの、『せる』の編集長もある。さらに、デビューしたての作家など、吹けば飛ぶような存在で、この時期にヒットを飛ばさなければ作家生命は終わりである。なのに没連発だった。
(まったく関係ないが、この頃どこかのパーティで知り合った篠田節子さんと没自慢をしたことがある。何千枚ボツっただの、長編何本ボツっただのと、なんだか楽しかったように感じるのは、たぶん錯覚である)
 もちろん、生活するための収入だって必要で、その方策だって見えていなかった。
 キッチンの冷たい板の間に腰を下ろして、電話の子機を握りしめて、ドキドキしていたことを覚えている。
 そんなところに、思いがけなく早く、再び関口さんから電話があった。
「もう余裕がない。今すぐ引き受けてくれ」と。
 引き受けるしかなかったのだ。

 さてパソコン通信は、モデムを介してホストマシンに接続するサービスだ。私が利用開始しはじめた最初の頃、その速度は1200bpsだったかと思う。これは、接続して文章を表示してゆく時に、読書好きなら苦労せず、ほぼリアルタイムに読めてしまう速さだ。その時に、利用者は接続料金というのを取られる。これが1分十円だったと思う。たらたら流れる文字を読みながら、その時間はずっとお金を払っていたわけだ。
 この速度が速くなれば、利用者は読んでいない発言をまとめてダウンロードして、接続を切ってからゆっくり読むことが出来るようになる。
 モデムの速度は、すぐに2400bpsになり、やがて9600bps、14400bpsと速くなる。つまり、文書を読むために接続すべき時間は十分の一くらいになってゆくわけだ。それはひとりあたりの利用料金、および情報に関する単価が、どんどん安くなってゆくことを意味する。
 ただし、パソコン通信自体の利用者はどんどん増えてゆく。そうなれば、ダウンロードされるべきコンテンツの量も増えてゆき、トータルではニフティ自体に入る利用料金は、増えていったはずだ。だからおそらく、なにかを見誤った。
 つまり、長くこの調子ではいられない。
 パソコン通信の魅力はあれこれあるが、その最大の長所は好きな話を語る、ということそのものにある。それは、語る相手が見えている、ということでもある。
 けれど利用者が増えれば、発信者と読者は徐々に分離してゆく。すると、全体的にその魅力はどうしたって薄れてしまうし、たとえば情報の質にしたって、平均的には徐々に低下して、価値のある情報にたどりつきにくくなる。
 また、情報発信者にしても、うれしいレスポンスが受け取りにくくなる。
 こういう問題をいかに処理するのか、というのが、実はSYSOPがやっている作業と密接に関わっていたのである。
 コンテンツを整理して、話題に参加しやすくする。参加者同士が仲良くできるように、それぞれの個性を可視化してゆく。参加者が、自ら楽しみをクリエイトして、それをみんなで(かつやりたい人だけ)楽しめるようにする。さらには、まとめてみたりする。
 当然ながら初めて訪れた人へのフォローも大切だ。フォーラムに入会したら自己紹介してください、と促す。自己紹介されたら私は必ず、すぐに歓迎メッセージを書いてアップした(たしか全部で五千人くらい)。手を抜いた定型文ではない。自己紹介の内容に即して、どんな短い自己紹介にも、逆に長い自己紹介にも、同じくらいの長さの(ワープロの通信画面でスクロールがいらない程度。一画面ぶん)歓迎レスをつけて、フォーラムの案内をした。また、それをきっかけに会話が続いていっても良いようにと、自己紹介と歓迎の場(会議室)はフリートークにしてあり、会員の中で同好の人がコメントできるようにしていた。
 発言のメインは本の感想となる。これも、肩肘張らなくていい。軽く書いて、同じ本を読んだ人がコメントする。そのやりとりが大切なのだ。感想というのは主観にすぎない。だが、それこそが最も大切だと認識した。原稿料もらっている身分を保証するみたいな権威はいらない。ただ、見通しをよくする必要はあるので、作者名や出版社名を入れてもらえるように、という注意はした。翻訳もの好きと国内もの好きは分かれるので、別の場所にした。
(現在インターネット上に本の感想をアップする場所はたくさんあるが、どれもが自己主張としての感想をアップするばかり、と見える。そういう孤独な感想って、いちばん楽しいところを失ったみたいだ。一方、ツイッターなどでやりとりする感想は、人との関わりばかりで、本をきっかけに知り合いが増えるあの頃のFSUIRIとは別のものに思える。たいていの人は、別に自分がスターになりたいわけじゃなかろうと思うのだ)
 さらに、参加者が増えてきたらフォーラム全部に参加せずとも楽しめるようにと、クラブ活動と称して自由にファン活動ができるようにする。この時、クラブの数だけ会議室を用意することはできないから、発言タイトルにアルファベット2文字のクラブ別キーワードを入れてもらい検索できるようにした。あえて説明はしないがZPとかね。
(場合によってはフォーラム外にニフティの機能を使った場を設けることも奨励した)
 要するに、本を通じてつながり合うことを、いかに楽しい現実にしてゆくか、という考えだ。
 こういった配慮が、結局はうまくフォーラムを運営するためのノウハウだった。
 ただ、こうした作業はそれなりに手間と時間がかかる。ちゃんと目配りしなきゃならない。だから、きっちりやってゆこうとしても、規模が拡大するならずっと続けることはできなかったはずだ。どのみちなんらかのブレイクスルーが必要だった。
 ところがやがて、インターネットという黒船がやってくる。なし崩しに。なにより、ニフティという会社自体が、その大波をくらうことになる。

 話は戻る。ニフティに新たな推理小説フォーラムFSUIRIが発足したのが、一九九〇年、秋(自信ない)。
 バタバタはしたはずだがおおむね順調にスタートした。
 フォーラムにおいて、SYSOPはニフティと契約して、報酬を得る。接続料金はもちろん無料とし、フォーラムを訪れた利用者の滞留時間に発生する接続料金の十%が支払われた。
 最初のうち、それは大した金額ではなかった。接続料金とは別に発生する電話料金(当時、市外通話だったので少し高額だった)程度だったと思う。
 だがやがて利用者が増えてゆく。最大でおよそ三十万円ほどが、私の月収ということになった。フォーラムに登録したメンバーは、私の在任中に二万人を越えたので、その一割が熱心に参加したとして、ひとりあたり百五十円。月あたりおよそ百五十分ほど滞留していたことになるだろうか。
 もっとも、熱心なチャット(フォーラムにおいてはリアルタイム会議、RTと呼んだ)メンバーは、その十倍くらいは滞留していただろうと思う。
 RT中に反応がなくなると、たぶん眠ってしまったのだろうと思われた。寝落ち、などと言われたものだが、接続料金青天井のシステムでは、ずいぶん気を揉んだものだ。「おーい」とか「起きろー」などと言ってはみても、文字が届くだけでは意味がない。私がその場にいる時には、なるべく待ったものだが、かといって誰もいなくなったらチャットにならない。何度かは見捨てた。
 もちろんSYSOPは接続無料ではあるが、電話代は別途なので、それなりに経費がかかった。
 接続無料ということでは、協力スタッフというのを選んでニフティに届けると、その人の接続料金は無料にできた。一般的にサブシスと呼ばれるシステムだが、フォーラムの規模によってひとり以上、数人を選定できた。しかしながら、接続料金無料というのは、さしたるメリットではない。電話料金もかかるし、大きな責任を背負わされてはやってられない。
 ということで私は、サブシスは自分でやりたいと思うような人に打診してなってもらっていた。あまり責任を負わず、自分で企画でき、RTは好き(それならメリットになる)で、なんらかの肩書き(たとえば大学のミステリ研出身とか)があったりすると頼みやすかった。
 ちなみに、フォーラム最初期のサブシスのひとりは、前のフォーラムのもめ事によく参加していた人を選んだ。どちらかというと積極的に不満を言う人だったが、だからこそ、その不満を自ら解消してもらえばいい、と思ったのだ。結果、まずまずうまくいったと思う。
 しかし、責任を負わないといっても、思わぬ形でそういうのが発生することだってある。
 あるサブシスが辞めたいと言うので理由を聞いたら、少し前に自己紹介した参加者が、実は以前からの知り合いだったのだが、最近自殺したのだという。もしも自分がもっと積極的に関わっていたら、と思ってしまったという。
 これをどう捉えるかは微妙な問題であると、私は思う。なにより、その話が本当であるかどうかを私は判定できない(ただし疑ったわけではない。辞めたい理由などなんでも良いと私は考えていたから、変な嘘をつく必要などないはずだった)。ネット上の出来事というのは、あやふやで、一方、妙に切実に強く結びついた独特のものだ。特に当時は、きわめて特別なものだったように思う。
 熱心な参加者であった人が、ある日、亡くなったという話を聞いたこともある。噂レベルでは、自殺だったとか孤独死だったとか。けれど私は、あえてその情報を無視した。ネットでのつき合いは、そういうものだと考えていた。もちろん、オフラインで会って意気投合することだってある。ネットの関係を越えるのも悪いことではない。けれど、ネットでの関係性は、つながらなくなったら終わり。その方がいいだろうと信じた。
(けれどここで、あえて亡くなったという人のハンドル名を書いておこうと思う。あの当時から、もう三十年ほど過ぎた。その人は、私よりずっと年上だったから、もしあの情報がガセだったとしても、もうご冥福をお祈りしたって良い時期だ。カナロさん、どういうわけだかあなたのハンドル名は忘れないのですよ)
 もちろん悪い話ばかりではない。フォーラムで知り合って結婚まで至った、というケースも少なくなかった。他ならぬ私自身がそうだ。メンバーの結婚式で、主賓のスピーチをさせられたこともある。
 もっとも、その後どうなったかまでは分からない。やがてフォーラムの時代は終わり、みんなそれぞれ生きていくことになったのだから(とりあえず私たち夫婦は、奇妙な形になって持続している)。いや、年賀状とツイッターでつながっている二組の夫婦は、とりあえず続いているようではある。
 閑話休題。
 ともあれ、FSUIRIはおおむね順調に発展し、私がSYSOPをしたおよそ十年、基本的には楽しくやれていたと思う。
 いろんな楽しいことがあったが、楽しいことというのはどうも忘れてしまいがちだ。
 FSUIRIがらみやその周辺に関する断片的な記憶については稿を改めたい。

 ではなぜ私がFSUIRIを離れたのか。
 つまりは、SYSOPという形で生計を支える、ということができなくなる、と分かったからだ。フォーラムには、かなりの時間を費やしていた。だが、それは早晩先細りになる活動だった。作家としての活動も、時間的な意味でかなり制限されてしまっていた(もちろん、人気がないので注文がなくなったのだが)。
 それなのにSYSOPという職業が成立しなくなる。もちろん、インターネットの普及が鍵だ。
 私はニフティに対して、自分たちにある種のアドバンテージがあることを言ったつもりだった。が、それを理解する力が会社にはなかった。結果、インターネットはなし崩しに広がり、フォーラムが育てた文化のようなものは消滅するしかなかった。
 一方、私自身にはインターネット文化についての理解が不足していた。コミュニティの良さを残したまま新たな活動を始めるには力不足でもあった。
 だから、そういう状況であることを踏まえて、だれでもいいから引き受けて欲しい、というアピールを行い、引き継ぎした。
 もしかしたら、どうにかできるかもしれない、と思わぬでもなかったが、結局はニフティがサービスをやめてしまえばどうすることもできなかっただろう。
 かくて私のFSUIRIは、二〇世紀に置いてきたことになるのである。

 アナログの電話線を介してコンピュータ同士を結び合わせる時代には、たいしたことなどできなかった。
 画像なんて送ろうものならたっぷり時間がかかって、下手したら送信ミスになったりする。なんとかデータ量を小さくしようとして圧縮ソフトなんてものが常識的に使われていた。
 それがまず、電話線がデジタル対応になり、さらには電波でなんでも送られるようになる。携帯電話からスマートフォンに、あるいは各種Wi-Fiの利用。次のガジェットはまだはっきり見えてはいないが、遠からず変わってゆくのだろう。
 それでもまだ今のところは、人は人とつながりたいのだろう。そこを基本として世の中が動いている。
 やがてAIが強力になって、人はそいつらに管理されるようになる、なんて心配している人もあるが、たぶんそっちはさほど心配する必要はない。それよりもむしろ、人は友達としてAIを選ぶようになるのではあるまいか。現実にそこにいる人間より、よほど自分のことを分かってくれて、気がきいて、なんでもしてくれるようなAI。きっと、どんな人間だって見劣りするようになる。
 経済活動だって、下手に人間が介入するよりうまくやってくれるようになるなら、任せてしまってどこが悪いだろう? 古くさいSFならこういう状況だって「支配されている」と警鐘を鳴らしたがるだろうが、本質的にどこがいけないのかは、なかなか見出せそうにない。
 ただ、最後にひとつ残るはずだ。
 人は、ただ「してもらいたい」だけではない。「してあげたい」があって、そこはAIやロボットが相手では、なかなか満たせない部分なのだ。
 人が不完全であることによって互いに満たされ合うなにか。それが、もしかしたら二十世紀に残してきたFSUIRIの中にあったのではないだろうか。

 なーんて。
 ちょこっと思いついて書いてみたが、そこまで偉そうに言える私ではない。

 最後に、FSUIRIがらみで思い出すたくさんのハンドル名を列挙してこの項の終わりとしたい。当時のメンバーの記憶を刺激できたらうれしい。
 田沢良子、ABAさん、crosswho、米丸、サーザ、G-PENGUIN、しろくま、未読王、潜行艇「鷹の城」、さびしんぼう、泡雪、M.J.、英理庵、おやすみ姫、1941、悪党ギミック、H32、あにゃ、emi、nzm、伊集院美影、青太郎、尾近るな、かずにゃ、カナロ、きゃれら、仰天の騎士、Guild Master、海月、くるみ、Q.バック、くろねこ、ケント、げろげろくろっぴ、JUN、Jue、汁美庵、Smiley、仙道康一郎、シロッコ、シュートVRF、酔眼、高橋勿来、たつなみ・けん、丹善人、TAKAKO、W-TON、ダイ、CHEEBOW、たこ、Toshi、のぐてつ、泣き虫、ねこにゃん、ねこりんご、PANDORA、鞭毛亭、藤阪康司、ふーやん、PAPA、べらぼう村正、袱紗、べべ、早見裕司、MEKALIN、ミセス・マープル、めんどり、ムンク叫美、木魚庵ひろしち、ヤスミン、山村まひろ、弓の的、ゆきみ、らいむ、ろびん、落花生・・・・
 途中で当時のID帳が出てきたので、かすかにでも関わった記憶のあるハンドルをピックアップしてみた。いつ時点のものかも不明なので、きっと大事な人を忘れているには違いないが、ご容赦ください。
 遠い忘却の果てに、名前だけでも残っていたら、そこはそれ、それはそれ。もちろん、良いことばかり、とはゆかないけれど。

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