_2015_262北原倫子さん府中の森1_のコピー

その傷のブルースを見せてくれ。(撮影被写体募集しています)

(2018/06/09、現在、新しいホームページの更新をしています。そのモデル募集の項目だけ、こちらでも公開します)。

撮影被写体募集について、ながらく更新をしてきていませんでした。
もう募集はやめようと思っていたけれど、やっぱり、と思ったので、
あらためて、今の思いのうえに、更新します。

長いので、5分くらい、時間をください。
べつにぜんぶをぜんぶ読まなくても、ちょっと下にある
「写真の被写体になってくれる方を募集しています」を読むだけでもおっけいです。

2018年の7月か8月ごろに、文字の本を二冊出します。
この本を書きあげるまで、実に5年かかりました。

そのあいだ、何十件か撮影被写体の希望を頂いていましたが、ぼく自身に迷いがあり、なにを撮りたいのか分からずにいたため、全部をお受けすることはできませんでした。
切実なものだとはわかりつつ、何を言いたいのかが今ひとつわからない長い言葉にたじろいで、返信しないままにしてしまったものもあります。ごめんなさい。
すべてはぼくのあいまいさのせいです。

本を書くことで自分のなかのあれやこれやをことばにすることができたことで、そのあいまいさがすこし晴れました。

ぼくがひっかかりを感じて返信できないままにしてしまった依頼には、
「障害がある自分を撮ってほしい、わたしはこういうことに苦しんで悩んで……(長文)」
「あの芸能人の写真のように、きれいに撮ってほしい」
「あなたなら私の本当の姿を撮ってくれるような気がする」というものがあります。
ここ最近は、ほとんどこれらしかありません。
それらのメールはどれも饒舌でした。ぼくが撮らなくてもだいじょうぶだろうと思ってしまうくらい、ことばでなんでも説明できるという確信が漂うメールでした。(ぼくの、一方的な、見方ですが)

ことばで表現できることなんてたかがしれている、ことばの表面に大事なものはないとは思いつつ、長文のメールから、真意を探るように何十通もメールのやりとりをすることに、疲れました。

ぼくにカウンセリングのようなことを期待して、どっと、もたれかかってくるような依頼にも困りました。
ことばを見ただけで、ちょっと会っただけで「本当の自分」なんて、撮れるはずがないんだけれども。
もしも「本当の自分」が撮れたと思ってくれたとしたら、それは、ぼくの写真に対してあらかじめ持っていたイメージのなかに、自分の姿があることに安心するだけで、ただの確認作業でしかないのです。
あいまいなまま撮っていたときは、よくわからないままに、その願望だけは忠実に読み取っていて、
「その人のなかのぼくの写真のイメージに応えよう」としていたことに、今になって、気づきます。疲れました。

逆に、一も二もなく撮影が始まる、そうして、写真もこれまでにない新しいものが写る方からのメールにあることばは、短くてあいまいで、でも直感的な力強い切実さに支えられたものでした。
短いことばなのに、自分のからだや生きづらさについての端的な事実と、
そのからだを見つめ直したい、という切実さと覚悟がありました。

ことばではないことばを求めての写真だ ということが、よくわかるものでした。

そんな方とは、お会いしても、撮影するにあたっても、ごく自然でいながら、共同作業としての撮影で、写真も、おのずと新しいものになっていました。

ここで今あらためて、
その傷のブルースを見せてくれ
という一文をもとに、撮影被写体の募集をします。

2014年に行った、荒井裕樹さんとの対談で、ふと浮かんだフレーズなのですが、いまあらためてやっぱりこれだなあと思いました。

ブルースの意味は「哀調を帯びた歌曲」だそうです。
ぼくはブルースを聞いたことがありませんが、ブルースというものがどういうことかを教わったのは花村萬月さんの小説です。花村萬月さん大好きだなあ。

ひとりの人間として誰もが抱えるままならない野蛮性やエゴイズムに苦しみ悩みつつ、その中につつまれている、それでも手放すことのできない、いのちの底で通底するやさしいもの。
それを、覚悟とともに、自分の外へと出す行為がブルースだと思っています。

たこ八郎の「めいわくかけて、ありがとう」が、ぼくの思うもっとも美しいブルースなフレーズです。

傷といっても、暴力的なものだけではありません。
忘れられないこと、忘れたくないこと、原風景、といった、
ある種のエクスタシーや感動とともに、こころにきざまれたものも「傷」だと思っています。

ぼくがこれまで撮ってきてなによりもうつくしいと思う人は、自分の弱さや悲しみをことばでごまかさず、すでにその全身で差しだしている存在でした。
そのとき、その全身は、路傍の石のように、路上を歩く犬のように、
森の一部として盛える樹のように、ただそこにあるだけでブルースでした。

「その傷のブルースを見せてくれ」
もとい、その傷がブルースに昇華する瞬間を撮らせてください。


美醜とか、種族が違うとか、障害があるとかないとか、男だとか女だとか、

老いているとか若さとか、そういうことで考慮したことは、ぼくは少なくともこれまでにありません。
メール全体から漂う、ことばの饒舌さに、参っていたのでした。
とはいえ、ぼくがあいまいなまま募集していたから長文にもなるよなとも思ったので、反省です。

そして、金銭的なことで揉めたこともあります。
へとへとになります。これもまたぼくのあいまいさのせいです。これも反省です。

ながーくなりましたが、そんな反省をもとに、これからは下記の条件を見ていただいたうえで、もしも「この傷を、ブルースとして撮ってほしい」と思っていただけたらメールをください。

写真の被写体になってくれる方を募集しています。

▼ 自薦でも他薦でもおっけいです。
障害の有無も、おとこやおんなLGBTといった性別も、いのちが迫っていても、産まれたばかりのこどもでもその対極といっていい高齢者でも、なんも問いません。
動物や、植物、鉱石といった他種族でも、おっけいです。
あなたにとっての、そのものにとっての、わすれられない傷を教えてください。

どんなにつたないことばでも、だいじょうぶです。
つたないのに、ことばにならないのに、それでも力強く書きたくなることばなら、なんか……、いいです。すてきです。

▼ 関東内の、その者にとって地元やゆかりのあるところで撮影をしたいと思います。もしくは、話をしていくなかで、見えてきた場所。

関東以外の地方にお住まいの方は、、、できることなら行きたいのですが、そんなお金はありません。
この点もぼくの反省です。以前、お金もないのに、遠方の人の撮影に行きまくって、おしりに火がついたことから、撮影全般にすっかり消極的になってしまったときがありました。
(基本、フィルムでの撮影なので、PENTAX67なら1カット100円になってしまう今の時期、また辛い)
無理ない範囲でもいいので交通費や謝礼をいただけるなら、すぐさまに飛んでいくのですが、ううむ。

このあたりは、、、やっぱり、一応、メールをください。
とても切実なものであったら、ぼくにとってただならぬ直感がおちたなら、
どこでも、遠くても、自費でも、それでも参ります。そうでなかったら、ごめんなさい。

▼ 撮影した写真は、齋藤陽道の作品として使用することを了承ください。
 (雑誌、写真集、作品販売、スライドなど)

▼ 撮影のあと、肖像権使用許諾書にサインを書いてもらいます。
20歳にならない方は、撮影のまえに、親権者の同意書にもサインを書いてもらいます。
撮影後の作品掲載のとりやめについては、できません。撮るからには、全力なので、したくありません。
よくお考えのうえ、深い直感のうえ、ご連絡ください。

▼ どんな条件のヌードでも、ずっと抱えているビジョンを再現する演出の上で撮りたいでも、遺影でも、なんでもおっけいです。
まずは、話をきかせてください。
だれかを傷つけるようなこと以外、だめなことは、ありません。
だめなときがあるとしたら、ぼくの技術不足と、金銭不足と、覚悟不足です。

▼ 謝礼はお出しできません。
が、撮影した写真でこれぞという写真の2L プリントと、フィルムスキャンしたデータをお渡しします。

※ 記念日の撮影は、お仕事としてお受けします。条件があえば、ぜひとも〜。金額については、「撮影データすべてお渡し、プリント6つ切り3枚という条件のうえ、関東内であれば、別途・交通費プラス3万円でお受けします。地方でも、一応、相談くださいませ。都合が合えば、ぜひとも〜。
もしもそのなかで作品と使いたいというものができたら、こちらから相談のうえ、謝礼をお支払いいたします。

▼メールには、下記の条項を埋めて、お送りください。
 info▲saitoharumichi.com  (▲を@にしてね)

 ◆ 名前:
 ◆メールアドレス:
 ◆住まい:
 ◆傷について:
 ◆ゆかりある場所:
 (納得できるものだったら、遠方でもゆきます。ゆきましょう)

過剰な挨拶も、お礼も、いりません。
ぼくも、しません。
鮮烈にふつうに、お会いしましょう。

2018.06



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