2017_10_16_Hの字で寝る__2015_105授乳中のまなみ

Hの字で寝る

お産のあと、まなみと樹(いつき)さんは実家に里帰りしていた。
そのころのぼくは泊りがけの撮影が続いたり、出産報告のハガキづくりや、メールや、市役所に出す書類の準備やらで妙に忙しかったので、まなみの家族にはとても助けてもらっていた。

まなみの家族構成は「父、母、まなみ、弟」で、みんなろう者で日本手話を第一言語としている。このような家族構成を「デフファミリー」と言う。

ぼくのほうは「父(聴)、母(聴)、ぼく、長女(聴)、次女(難聴)」で、第一言語は、音声による日本語である。
父はぼくが20歳のときに離婚していて、年に2~3回くらい会うという感じ。

数時間おきにおっぱいをねだる樹さん。
昼間はみんな起きているからいいとして、問題は夜だった。
当時、昼夜逆転生活をしていた義弟が数時間おきに目視で確認したり、お義母さんが補聴器をつけて、感覚アンテナを張り巡らせたりで乗り切ったのだそうだ。

里帰りしているときの思い出としては、授乳しながらアメリカのテレビドラマ『ウォーキング・デッド』シリーズにらんらんと見入っていたまなみの姿がある。
片手でおっぱいを吸う樹さんの頭を支えながら、もう片方でiPhoneを握りしめる。

「生きる! なにがなんでも生きるッ! っていう本能がビンビン研ぎ澄まされるのよね。いいわあ~」と、ダリル(『ウォーキング・デッド』の登場人物。無頼漢でやさしくてチャーミングでたまらんのです)に見惚れながらそう言うまなみに、すっごい頼もしさを感じていた。

まなみの実家には、1週間のうちに2日はおじゃまをしていたものの、そうそう頻繁に来ることもできない。
自宅にひとりでいるのは寂しいので、テレビ電話で「早く帰ってきてよ。なんでもするからさあ~。ねえ~。ねえ~。ねえってば~」と、夜な夜なくねくね懇願していた。その甲斐があり、予定の半分である1か月半を過ぎたころに、ふたりは帰ってきた。

3人で過ごす初めての夜、けっこう緊張していたことをよく覚えている。
数時間おきにおっぱいをねだる樹さんのサインに、はたして気づけるのだろうかと心配があったためだった。

補聴器をつけて寝ることは、ぼくらにとっては最善ではなかった。
まなみは補聴器をつけてもまったく聞こえないと言うし、ぼくも10年以上つけていないというブランクもあった。

それでも一応……と試しに補聴器をつけて、スイッチをオンにしたとたん、いろんな音が一斉になだれこんできた。耳につっこまれた花火が、バチバチと炸裂したようなショックだった。
「うわあ」とのけぞりながらも、こらえて樹さんの声に耳をそばだてる。

わからなかった。

補聴器をつけたときのぼくの聞こえ具合は、低音は聞き取りやすいけれど、高音になるとほとんど理解できない。そのために少しでも距離をおくと、樹さんの泣き声は周囲の雑音に混じってわからなくなってしまっていた。

5分も補聴器をつけていると、頭がズキズキしてくる。心も常時ざわつく。めまいもしてきて、ものをしっかりと見ることができない。
久しぶりの音に脳が慣れていないということや、補聴器のチューニングがされていないなど理由はいろいろあるのだろうけれど、10年ぶりに降り立った音のある世界は、予想以上にうるさかった。
しばらく我慢して補聴器をつけていれば、やがて補聴器の音にも慣れるのだろうとは思う。だけど、それとは別に、心情的に補聴器にはあまりいい思いがないため、やっぱり日常的につけることはどうしてもできなかった。

赤ちゃんの泣き声を感知して、枕の下に設置した機械がバイブレーションするという福祉機器もあるにはあって、友人が使用していたものを借りていた。

けれども実際に使ってみると、泣いているのに感知しなかったり、逆に、泣いてないのに感知したり(たぶん、別のところで鳴った高音の物音に反応したのだろう)、枕から頭がちょっとでも離れてしまうとバイブに気づけなかったりと、精度に不安を感じることが多々あって、頼りにすることはできなかった。

できないところを補ってくれる機器はいろいろあって、それらはこれからもっと良いものになっていくのだろう。だけど現状のぼくらの場合、自分の身体で気づけるようにすることが最善の方法だと考えた。

寝る前に、iPhoneの目覚ましバイブアラームを30分おきに鳴るように設定する。寝ているあいだどこかにiPhoneが行かないように、まなみは、おっぱいとブラジャーの間につっこむ。ぼくはパンツの中。ひやりと冷たいiPhone。
電気は全部消さないで、常夜灯をつけっぱなしにする。オレンジ色の明かりが、部屋をぼんやりと照らしだす。

そして樹さんを中心にして、両隣にぼくらが寝る。
いわゆる「川の字で寝る」という、あのかたち。
メガネがないのでまなみまでは見えないけれど、隣の樹さんの様子はなんとか見えるといった感じ。

おっぱいをねだる身じろぎに気づく確率を高めるために、一枚の毛布を共有したり、まなみとぼくふたりして樹さんのからだに手を置いたり、足の下に手を差し込んだり、手を握ったりと、からだをできるだけ密着させて寝ていた。

その寝方にも慣れてくると不思議なもので、からだが離れていたり、アラームが鳴っていなくても、「ふと」起きたつもりが、ちょうど起きたばかりの樹さんと目が合ったりするようになる。毛布が動く気配で気づいたのだと思うけれど、本当によく目が合った。

常夜灯のオレンジのなかで、ぱっちりと目が合うあの瞬間は忘れられない。
樹さんと深いところでリンクできたかのような、不思議な感覚だった。

3か月目を過ぎたころから、樹さんが自分から叩いて知らせるようになったので、それからはとても楽になった。
「ぺちぺちと叩くこともあれば、つねつねとつねることもあったよ。一回だけ、ひどく髪をひっぱられたことがあったけど、あれはたぶん、叩いてもつねっても気づかないわたしに怒ってたんだろうなあ」と、まなみ。

そんなふうにして寝る日々が続いていたころに、木村高一郎さんの写真集『ことば』を読んだ。

最初は立ち読みで済ませていたものの、写真がずーっと頭から離れずにいて、このブログを書く直前、ついに買ってしまった。

木村高一郎さんホームページ

この写真集、ものすごくおもしろいんです。

「自宅の天井にカメラを設置し、自動で10分毎に2年間撮影し続けた結果、約10万枚の膨大な作品が作り出されました。
そこには、偽りのない家族の肖像が写し出されています。仲睦まじく寝ている親子、昼寝する息子、読書する母親など、その光景はまるで会話をしているようでもあり、もはやそこには“ことば”は必要ないのかもしれません」(リブロアルテ ホームページより引用)

何年か前にたまたま訪れたグループ展で、この写真たちがスライドで上映されていたのをたまたま見ていたことがあった。変わらないけど変わっていく日常の図がおもしろくて、ずーっと見ていたのをまざまざと思い出した。
写真集になっても、その魅力は変わらなかった。
むしろ、ふとんに見立てたカバーや、ぱっくり開くきもちいい製本が、よりいっそう「変わらないけど、変わっていく日常」の魅力を引き立たせてくれている。

どのページを開いても、こども、おかあさん、おとうさんのだれかが必ずいて、みんなふとんに寝っころがっている。
寝相はほんとうにさまざまで、てんでばらばらに寝ていたり、「●」のようにみんなが団子みたいにくっついていたり、「ト」の字に似ていたり、さらに「一」「K」「い」「ハ」「si」や、家族の寝相をぼーーっと見ているうちに、いろんな文字の形が浮かんでくる。
とくに、象形文字で考えると、いくつかとてもそっくりなものがある。
「ことば」は「ことば」だけで独立しているのではなかった。その「ことば」のもととなった存在の姿かたちや性質、魂といったものを模倣してつくられているのだった。
まさに写真集のタイトルそのものだと思う。

「日本語ではぴったりのことばはないけれど、きっとどこかの国の文字だったら似通うものがあるんだろうなあ」というふうに、写真集をめくっているうちにおのずと未知のことばの存在も感じさせてくれる。

「川の字で寝る」ということばがあまりにも定型的になっていて、家族で寝る姿をなんとなくそんなふうにイメージしてきていたけれど、ほんとうは決まった形なんてないんだよなあ。

「人生の3分の1は睡眠で占められている」という雑学をどこかで見聞きするたびに、「あっ、そうだった。そうよ。そうなんだよ」と、いつも驚いてしまう。
知識としてそのことを覚えてはいても、深く実感することはなかった。そして、そのことは、かなりもったいないことだなと思う。

寝ているあいだにも、息をすうすうすう吸っては吐いて呼吸していて、心臓はどっくんどっくんどっくん一生懸命に鼓動していて、筋肉はびくびくびくっと弾けていて……、生きているあいだ中、ずっとずっととめどなく揺れて動いているのが生きているってことなんだものね。

ふと「ぼくらはどんな『ことば』で寝ているんだろう?」と気になった。
いったん気になると、どうにもとまらない。ア~、とまらない♪
なので、真似をしてみることにしてみた。

深夜、寝ている樹さんとまなみを起こさないようにしながら、数十秒後に撮影するように設定したコンパクトデジカメを天井にテープでべたべた貼り付ける。寝ているあいだに落ちたらたまらないので、たくさんのテープを消費しながらカメラを固定する。
もっとスマートなやり方があるはずだよな~と思いながらも、機械オンチなのでしかたない。

設置を終えてシャッターボタンを押す。
そそくさとふとんに横たわって、いつものように樹さんに触れる。
パシャッ。
フラッシュの光がつむった瞼ごしに伝わった。
そのまま寝た。

翌朝、わくわくしながらテープをべりべりはがして、写真を見た。
樹さんに腕をまわしているまなみとぼくの姿が俯瞰で撮られている。
そのころの樹さんは1歳半ごろで、もうほっといてもひとりで寝られるようになってはいたけれど、習慣というものはなかなか抜けないものだ。
なんとなく想像していたとおりの形ではあった。だけど、こうしてはっきり目に見える形で証明されると、不思議な気持ちになった。

「ね、ね。これ、これ見て。ほら見て、これ」

自分の予想を越えたいい写真が撮れたときのぼくは、しつこい。デジカメをまなみの顔に押しつけんばかりに近づけながら、両手の指で『H』を形づくる。

「ぼくら『H』の字で寝てたんだよ」
「ほんとだ。うーん、でも、ほんとに『H』かな? ん?」
疑い深いまなみがデジカメのモニターをにらむ。
「『H』でしょ」
「……うん、『H』だね」
「な~。『H』だよな~。へー、『H』か~。ぼくらこうして寝てたんだな。いい『H』だな〜」
「『H』『H』ってうるさいなあ。『H』じゃ、どうも締まらない気がしない?」
「HUMANの『H』って思えばいいんじゃない? ぼくら人間だしさあ」

後日、また別の「ことば」を見ようとしてカメラを設置していたとき、テープの貼りつけが甘かったために、勢いよく落下したカメラが頭を直撃して以来もうやっていない。


【本文は、ここまでです。以下は、この最近の写真10枚と、日記的なちょっとの文章がついたものがあります。見ても見なくても変わりないですが、応援するかんじで、投げ銭的に、見てもらえたらうれしいです。
それがぼくの、のど飴代になります。あるいは、まなみの濃厚魚介つけめん代。またもやのあるいは、樹さんのほしいも代。 ありがとう。】


ここから先は

519字 / 10画像

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?