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小説『政軍隷属:シビルミリタリーセルヴス<上>』




 

 

目次

プロローグ 狸穴(上巻)

起 出内機関(上巻)

承 訓練開始(上・中・下巻)

転 メディアかアレクトか(下巻)

結 SLAVE,SERVUS(下巻)

エピローグ 愛国心はならず者の最後の拠り所(下巻)

主要参考文献(下巻)



 


ウクライナ危機が去り、朝鮮半島統一後、世界的なポピュリズムが吹き荒れる時代——


 

プロローグ 狸穴



 一体、いつまで働かないといけないのか?
 夜に染まった東京湾から響いてくる、腹の底まで貫くような汽笛の音。境正義(さかいまさよし)はシートに沈み込みながら、それを聞いていた。暖房の効いた軽商用車の運転席で、左腕に巻いたリストバンドに装着されているスマートフォンの液晶をぼんやりと眺める。液晶の僅かなバックライトが、皺の刻まれた自分の顔を照らしていた。
 人類の半分は科学技術の発展により職を失い、労働からは解放されると様々な媒体で叫ばれてきたが……幸か不幸か、その余波は一向に感じられないな。
 人類史において人類が労働から解放された時がないか、境は真剣に調べた時があった。約六〇〇万年前、アフリカのケニアで二足歩行に適した大腿骨を持つ猿人の化石が発見され、約一六〇万年前には原人ホモ・エレクタスが存在し、約一三万年前にはドイツのネアンデルタール地方で旧人類が誕生した。それらは新人類ホモ・サピエンスへと繋がり、森に住む筋骨隆々な旧人類によって草原へと追い出された。代わりに脳の一番外側を覆う大脳新皮質が発展。直立歩行と道具を駆使し、生活を変更。その後、急激な乾燥という環境変化により旧人類は木の上で絶滅。直立歩行を得た一部の種と新人類が生き残り、現在にいたった。
 現在の生態系の頂点に君臨する現生人類は、遊ぶためではなく生きるために頭と脚を使い、ものづくりによって服や武器を生み出す「労働」で生き残ったのだ。つまり、「労働は生きるため」と割り切る必要がある。
 これらは仕事に悩んでいた時期に読んだ本の冒頭の一節であり、境はその哲学を実行に移した。二〇代は義憤に駆られ、三〇代で理想と現実のギャップから目を逸らし、その間に人類史の定説もひっくり返り、「最初から二足歩行していた」という説が現れた。四〇代では公私共々悩み、五〇代から退職と次の世代を考えた。
 しかし、還暦前に辿り着いた結論は、虚無。
 理想も理解も求めず、感情も張り合いもなく働く労働者。車の中を覗き込まれれば、人生に絶望し、死を希望する初老の自殺願望者だと認識されてもおかしくはない——そこで嫌気が差し、境は労働に戻ることにした。
 ある意味、慣れれば何も考えずに済む世界。毎日の繰り返しと組織内政治を覚えれば、相当楽だろう。ただ、俺の労働がルーチンワークでもなければ会社勤めでもないだけだ。
 スマートフォンの液晶に動きがあった。境は革手袋のまま液晶をタッチし、映像を拡大。映し出されている光景は、とあるコンクリート工場の空撮映像。荒川と砂町運河に挟まれている工業地帯を見下ろす視点となっている。全体的に薄く緑がかった映像だ。監視地点の一角には加工施設、その他は事務所である建屋、駐車場。敷地の大半は搬入されたセメント、砂利置き場だった。加工施設までの重機による運搬ルートを確保するため、一見すると空地のような外観になっている。本日は祝日なので工場は停止中。勤務員の姿もない——はずなのだが、工場上空のドローンは、ゲートから敷地内に侵入してきた一台の車両を捕捉する。
 ドローンは複数のビジョンモードを兼ね備えていた。熱源を捉える赤外線(サーマル)モードだけでなく、微光増幅式の暗視モードや、人間も含めた動物や物体の輪郭のみを漫画のように抽出し、白い外線としてはっきりと出力するアウトラインモードも併用していた。星などの僅かな光の反射を増幅し、昼間並みの明るさも再現している。その映像受信機であるリストバンドの端末はドローンのコントローラーでもあり、境はドローンが工場を中心にGPSで自動飛行するよう設定していた。
 現在時刻二一〇〇時、東京都、江東(こうとう)区。
 境は秘匿通話用に開発された端末をタッチし、相手を呼び出した。
 周波数を傍受されたところで、暗号化されているので心配はない。暗号化キーを共有していなければ、キュルキュルという雑音しか捉えられないだろう。
「確認できるか? 横浜港で積み下ろしをしていた連中だろう」
 端末と同期している骨伝導イヤホンマイクからは、底にある意志を静かに感じさせるような女性の声が届いた。境と同じくらいの歳で、疲労感も混じっていた。
《一度も経由せずに来たから、武器も積んである》
 手元の液晶では、一〇名以上の熱源が地上を這う白い虫のように動いていた。虫達は車両を降りて、工場の奥へと徒歩で向かう。そこでドローンが新たな反応を検知。工場の奥から現れた、多数の人型の熱源だった。そして、運河に面した水路に係留(けいりゅう)中の小型ボート二隻のエンジンに熱が入った。
「『アセット』の読みが外れた。ここで取引するつもりだ」
《そこからだと、応援は数分掛かる》
「突入しても投棄されて、返り討ちになるかもしれない。予定通り、後から来た見張りをやる」
 境は顔全体を覆うフェイスマスクを被った。
 自動小銃の場合、閑静な屋外で一発放てば三キロ先まで、空砲でも一・五キロ以上は銃声が届いてしまう。境は右の腰に下げたピストルのホルスターから半自動式拳銃を抜いた。銃声の減音装置(サプレッサー)を左の太腿にベルトで固定したダンプポーチから取り出す。ダンプポーチは大容量で、工場の現場作業員が使用するような口の広い袋状のポーチだった。細長い単管パイプのようなサプレッサーを銃口のネジ穴に合わせて回し、固定。弾倉から銃本体に弾を送り、スライドを引いて装填されていることを境は確認。弾のサイズはサプレッサーと相性の良い亜音速の四五口径。装弾数一五発。
 小銃にサプレッサーを付けても、巨大な鞭を叩き付けたような銃声が射手側には聞こえる。屋外では二〇メートルも離隔すると作動音だけになり、一〇〇メートル先ではそれすら聞こえない。しかし撃たれた側は、音速を突破した際に生じるソニックブームによって破裂音が聞こえる。屋外で拳銃にサプレッサーを付ければ、より静音。市販されているおもちゃのガスガンと音は変わらない。
 抗弾(こうだん)プレートが挿入されたベスト「プレートキャリア」と、背負い式の黒いバックパックを手に取り、境は静かに下車。
 二月の氷のような外気と海風に、境は思わずため息が出そうになった。工場で使用されている作業着の上には、フェイスマスクと同様、赤外線遮蔽機能を持った灰色のパーカーを羽織っていた。
 その上から、境はプレートキャリアを身に着ける。約二キロの抗弾プレートが一枚ずつ、胴体の前後に挿入されていた。脇腹の下にあるサイドパネルにも小型プレートがあり、多少の安心感と保温効果も得た。ただ、衰えた体力のせいで境は重さを余計に感じていた。サングラスタイプのアイウェアを着け、パーカーのフードも被る。境は工場のゲートへと歩を進めた。フードは頭と肩を日除けのように覆うことにより、人間の輪郭をぼかす効果もあった。
 人気の無い通りを空けるように駐車された車列の陰。そこに隠れながら、境は工場唯一の出入口に向かう。付近で唯一の電柱街路灯がゲートの真上にあるおかげで、辺りは闇に包まれていた。五〇メートルほど先のゲート付近では、境と同じような作業服の大人二名が端にある樹木の陰で煙草を吸っていた。
 ……ドローンの映像からたまに消える理由が分かった。生い茂った樹冠が邪魔で、赤外線反応が鈍かったのだろう。
『ようこそ第1工場へ』と書かれたゲートの端まで低い姿勢で這い寄り、境は反対側の連中の隙を窺った。ゲート自体、老朽化のためか機能していない。申し訳程度にロープが張られているだけだった。境は拳銃に搭載した光学照準器のレンズに浮かぶ赤い光点を、立ち話に興じる警備に重ねる。
「——さみい、早く交替来ねえかな?」
「日本なんだからこんなにいらねえのに。あの人、心配性だよな」
「もうほとんど国外に行っちまったしな。替えの利く奴らしかいないだろ。そう言えば、思い出作りに良い店があったぜ?」
「それ、詳しく聞かせ——」
 二名が向き合った瞬間、片割れが境の存在に気付いた——同時に境は、奥の一名に二発射撃。勢い良く空気が抜けるような作動音と同時に、顔面中央と下腹部に命中。足元から崩れる。振り返りながら拳銃を抜こうとした相方には、下半身に速射。相手がたまらず路面に転がっても、撃ちながら接近。呻き声が大きくなる前に、今度は鼻先から頭の裏に突き抜けるように連射。声も動きも出ないことを確認したら、すぐに奥の男の顔面にとどめを撃ち込む。横向きなので、耳の穴を狙った。両名とも、鼻の穴から蛇口を捻ったような流血が始まった。周囲を警戒した後、弾倉交換をおこなう。
 他には居ないな……騒ぎにならなくて良かった。
 境は拳銃をホルスターにしまい、二名分の死体と武装を樹木の下に隠す。ついでに、死体の上着を剥いた。
 上着の下に防弾チョッキか……この厚さはせいぜい拳銃弾までだろう。
 ジャケットを手荒く戻し、見張り用の無線機を奪うと、リストの端末で時間を確認。
 二一一五時。
 通話用のPTT(プッシュ・トゥ・トーク)スイッチを三回押すと、《異常なし、了解》と、どこからか無線が入った。三〇分交替で、一五分ごとに無線でやり取りしているのを事前に確認していた。
 境が足早に車に戻ると、イヤホンから《連中が屋根の下に入った》という報告が届いた。
「ドローンの映像を切り替える。それと相手は最低でも、レベルⅢAの防弾チョッキを着ている」
 端末を手早く操作し、上空のMAV(マイクロ・エア・ビークル)から、MG(グラウンド)Vにコントロールを移す境。工場に潜ませておいたキャタピラ型ドローンのMGVが起動し、液晶に出力された映像が地面から見上げるような視点に切り替わる。人の動きを自動検知し、物陰から何かの作業に当たっている集団の撮影を始めた。映像は端末を介し、境を無線でサポートするオペレーターにも送信される。ただし遅延が含まれているため、リアルタイムではなかった。
 ヘッドライトは点けず、境はエンジンを掛けて白い商用車を緩やかに発進。アクセルの動きを最小限に抑え、夜目(よめ)で何とか対応する。
《そろそろチームで動いたら?》
 お互い歳なんだし。
 そう続けないだけ、境は優しさを感じた。
「もう体力勝負はしない、大丈夫だ」
《一人の方がやりやすいものね》
 正直、その通りだ。伊達に何十年も共に仕事をしてきた仲ではない。
 境はゲートの前でサイドブレーキを引いて、真面目に答えた。
「仕事は辞めたいが死にたくはない——それより、どうして中型じゃないんだ?」
 答えを聞く前に、助手席に置いた自動小銃を掴み、境は銃に初弾を装填。装弾数二〇発。サプレッサーの他に、六倍率まで可変できるショートスコープや、スコープ越しに視認できるガンマウント型の拡張式暗視ゴーグル(ENVG)もセットアップ済み。ENVGを通さなければ肉眼では見えない不可視のレーザー照準器や、側面に搭載された光量の強いウェポンライト、スコープが壊れた場合の予備照準器である照星を手でチェックする。
 かつてはこういう物を身に纏うたびに、充足感が満ちていった。一種の病だ。
《中型の件は、トラックでは目立ち過ぎると言われた》
「ここでは例外だろう。本当は?」
《年度末の予算不足》
 下車しようとした境は不安になり、ダッシュボートやドアの内側、運転席の下を覗いた。
 ……車両の製造番号(VINコード)が削り取られていない。輸入車ならまだしも、例えスクラップになったところでシャーシの番号が残れば最初のオーナーを割り出されてしまう。
「これは誰の仕事だ?」
《新しく入った子たち》
 境は胸騒ぎを感じた。「小さな失敗の連続は大きな失敗に繋がる」というハインリッヒの法則を忠実に信じているわけではなかった。しかし、不安は減らしたかった。
「定点監視に入る。動きがあったら教えてくれ」
 境は路上に降り立ちバックパックを背負うと、車両の鍵を閉める。自動小銃にくくり付けた背負い紐(スリング)を調節し、小銃を忍者のように背負った。安全装置の位置も手探りで再確認する。SUVから折り畳み式の梯子(はしご)と黒いアタッシュケースを降ろし、ケースの中から車両をパンクさせて逃走を防止する「スパイクシステム」を取り出すと、ゲートの前に敷く。空気が抜けやすいように中が空洞で出来た鋼の針山は、路面を這う大蛇のようだった。
 梯子は近場の建屋の前で展開し、そのまま建屋の屋上にあるふちに引っ掛ける。先端の鉤爪はゴムで覆われているので音はしない。ある程度の力を込めてもずれないことを確認すると、上を目指した。都心部の喧騒も、行き交う車の往来も、東京湾に面した工場までは届かない。屋上に到着すると、暗雲と僅かな星明りのせいで、煙突を含めた大小様々な建物群が不気味なオブジェに見えてきた。
 境は今でも時折、「仕事を真面目に考えすぎているのだろうか」という思考に陥る。もちろん、理想を追い求める歳でもない。ただ、今は多少の寂しさと諦めに近い懸念を抱いていた。そこに、潮を含んだ夜風が吹き荒ぶ。白い息を吐き出すと、脳が僅かにクリアになった。が、同時に今着ている対赤外線用の防寒パーカーとは別に、もう少し中に着込めば良かったと後悔した。
 姿勢と足音に注意しながら、辿り着いたふちの反対側に移動。そこからは夜の集会が行われている工場が一望できた。しゃがみ込み、バックパックを置いて対赤外線シートを取り出すと、目の前のコンクリートに被せて「置き台」を作る。そのまま小銃をシートに押し付けて、置き台に乗せる。頬付けする銃床部を延長し、スコープの接眼レンズを覗いて、照準点が視えるかアイリリーフを調節。不法侵入者達を確認後、スコープの左側面にあるダイヤルを回転させる。
 スコープのレンズ中央に映っているのは、一般的な狙撃用の十字線(クロスヘア)ではなく、シェブロン(紋章)と呼ばれるV字を逆にしたような照準点だった。その周りを囲むようにホースシュー(馬蹄)と呼ばれるU字型の蹄鉄(ていてつ)を引っくり返したような照準マークも付いていた。それらレティクルがダイヤルを回すことにより、適度に赤く発光。スコープの前部に取り付けたENVGを起動すると白っぽい視界にはなるが、アウトラインモードも併用すると人の輪郭が鮮明に見えた。視界の中では、建物の近くに植生している背の高い樹木の葉が揺れている。
 邪魔にもなるが、遮蔽にもなる。あちら側からも簡単には発見できない。
 境は手前のダイヤルを回し、倍率を最大の六倍まで引き上げ、レティクルの中心で荷物の搬出をおこなう作業員達を見据える。遠方からの視認性を抑えるため、作業員達は赤色のライトを使用しながら行動していた。
 手慣れた人物がいるらしい。六倍率で人間の背の高さがシェブロンと同じなら、距離は約三〇〇メートル弱。隠れていれば昼間でもこっちの居場所が見付かることはないだろう。ただこちらも夜間の六倍率では相手の表情どころか性別、年齢さえ分からない。
 サーマルモードに境が切り替えると、熱源を持っている者は白く発光、それ以外は暗く表示された。視界の中央には赤いレティクルが強く輝いている。倍率と連動して拡大されたレティクル内の様子からは、車からボートへと荷物の積み替えの最中だと判断できた。荷物の点検をおこなっているグループもいた。その中で、作業員の一人が細長い何かを取り出す。メーカーや型式は判別できない。が、恐らくはライフル。境は銃身の長い長射程用のライフルを探した。
 人間の背丈並みの長物があったらまずい。
 プレートキャリアの抗弾プレートは、拳銃弾はもちろん境が撃ち出すようなライフル弾も貫通しない。ただ、徹甲弾や強力な長距離狙撃銃で運用される弾となると貫徹されてしまう。機動性とサイズの問題で、防弾性を上げれば良いというわけでもない。境は現在身に付けているレベルⅢダブル++以上の防弾性能を持つプレートは、重さの問題からなるべく避けていた。
 スコープで境が索敵すると、何人かが簡易的な屋根の下で話し合っていた。
 恐らく、作業終了を待つリーダー格の人物達だろう。
 遮蔽物や屋根が邪魔で、境の場所からは作業員の様子が窺えなかった。それでもスコープ越しに境は監視を続ける。
 ……目標までは三〇〇メートル。スコープの照準規正(ゼロイン)は、一〇〇メートル先でレティクルの中央に着弾するよう調整済み。シェブロンに刻まれている三〇〇ヤード狙点の目盛りより、少し下に目標を合わせて引き金を絞れば、スコープのダイヤルをいじらずとも命中する。クロスヘアにいくつかの黒点を設けて、距離の計算に生かすタイプもあるが、見え方を覚えればこちらの方が早い。レティクルにいくつかの横線を設けて、狙いながら調整できるBDC(ブレット・ドロップ・コンペンセイション)レティクルがひと昔前から普及したおかげだ。馴染みのないヤードポンド法をメートル換算する必要もあるが、この場合は三〇〇ヤードなので約二七〇メートル。ヤードから常に一〇パーセントをマイナスすれば、だいたいのメートルに換算できる。一般的な狙撃で許容される距離測定誤差と同じだ。サーマルとアウトラインのサポートもある。胴体に当てるくらいなら難しくはない。
 銃を構えながら、境はイヤホンの音声受信先をMGVに変更。搭載されている指向性集音マイクに切り替わる。端末の映像を確認しながら、液晶を指でスライドさせ、MGVを僅かに前進させる。一〇メートルほど先で、屋根の下でたむろしている人間達に接近する。バッテリー駆動なので電力消費は激しい。が、ガソリン駆動の騒音に比べれば潜入向きだった。
 壁のようにそびえ立つゴミ箱の陰から出ないようにしつつ、境はマイク感度のボリュームを上げる。すると、雑音と共に作業音が聞こえてきた。何やら怯えるような動きのスーツを着た人物が、場を取り仕切るリーダーのような人間と揉めている。搬出作業に従事している他の人間と同様、その人物も市販されているような作業服と安全用ヘルメットを装着していた。
 一般人に見られた場合の言い訳か。
《——早くしてくれ、社内のセキュリティに勘付かれる》
《本物かな?》
 リーダー格の人物が訊ねると、視界の端から作業員の一人が現れ、話し掛ける。
《工場のコンクリートで確認しました。検知距離は二〇メートル、厚さ五〇センチでも反応します。間違いなく日米共同開発中の壁通過型感知装置です》
《凄いね、どれどれ——》
 映像の中でリーダー格は、握りこぶし大の装置をあらゆる方向から調べ、実際に付近の壁に当て始めた。満足したのか、ある程度調べると装置を作業員に渡し、手を後ろに組む。
《ありがとう、対価を渡してくれ》
 この声——
 一瞬、境は心臓が握られたかのような感覚に襲われた。
 イヤホンの受信先を変えて、思わず確認。
「今の聞こえたか?」
《ええ、後で声紋分析もする。新井重工の社員と、敵の『アセット』——》
「いや、懐かしい方の声だ」
 音声遅延分の時間が過ぎて、《……ええ》という台詞が届いた。境は既に受信先を変更してMGVの音声に神経を尖らせていた。
 覚えのある体格、歩き方、眼鏡……
 境は思わずスコープで直接確認を取りたくなった。が、冷静に考えれば見たところで人物は特定できない。境は端末上でMGVを慎重に前進させる。次第にマイクで拾える音声が鮮明になってきた。しかしMGVの方を向かないので、人相を正面から割り出すのは困難だった。
《それと、ゲートの見張りに無線が繋がりません》
《そろそろかな》
《え?》
 作業員が釈然としないまま報告を終えると、リーダー格の隣に異様な出で立ちの人物が現れた。まるで陰から黒い物体がぬるりと這い出てきたような雰囲気であり、境は思わず液晶を凝視する。
 自分と同じように、赤外線を遮断する衣服に身を包んでいるのか。
 その人物は境と同じように、頭部を何かで覆っていた。ただそれだけではない。身体全体が亡霊のように周囲の闇と同化していた。人間らしさを感じられない所作。肉食獣が虎視眈々と、足の裏で地面を探りながら進むような歩き方。そんな空気を醸し出しながら、リーダーの男に随伴している。周囲の足音もマイクで拾ってはいる。だが、本人は発していなかった。映像だけに映り込んだ亡霊のように佇んでいる。
 何か特殊なブーツでも履いているのかも知れない。背格好もかなり大きい。明らかに日本人の平均身長を大きく上回っている。
 別の作業員が登山で使うようなバックパックをどこからか運んできた。それを国内有数の重工業の社員であるスーツの男に投げ渡す。男はバックパックを開き、長方形の物体を何個か数え始めた。
 恐らく梱包された札束か、何らかの報酬なのだろう。
《暗号資産や送金は信用できないからな——まあ、高飛びの準備はしてきた。船か、航空機か?》
 やはり亡命か。装置を手土産に、第三国へと渡るつもりか。確かに情報では独身者なので、家族の心配は必要ないのだろう。しかし、彼は開発に携わった技術者ではなく、施設管理を任されている身分のはずだが……
《ありがとう。まずは休憩してくれ》
 リーダーの言葉に、不気味な人物が動いた。一瞬、映像が飛んでしまったのかと境は勘違いした。次の瞬間、社員は亡霊のような巨人に背後から後傾気味に首を絞められていた。完璧な裸絞め。スーツの男はほとんど暴れることなく、ぐったりとしてしまった。男の脚より太い巨人の上腕が巻き付き、頸動脈が締め付けられ、脳に酸素が行かずに失神してしまったのだろう。社員は低身長なのか、体格差があり過ぎて身体が浮いていた。
 まるで大人が子供を捻り潰しているような光景。
 近くで待機している作業員があっけらかんと言った。
《殺していいんすか?》
《味方になってもスパイは信用できないからね。一度疑われたら永遠にレッテルを貼られるんだ。事実かどうかは抜きにしてね》
 そこからは作業のように進行した。どこかで処分するのか、作業員二名が人形のようになった男を奥の方まで運び始める。境はそこで気が付いた。社員が小さかったのではない。巨人の亡者が二メートル近くあったのだ。
 地面から見上げるような視点だから分からなかった。もし近距離で対処することになった場合、飛び道具なしではフィジカルで圧倒されてしまうだろう。
《重要な『アセット』は全て国外へと移した。『ゾーン』を新規層と一緒に拠点にできたのも、お前のおかげだ》
 リーダー格は不気味な人物に顔を向けた。境は液晶をタッチし、リーダー格の顔にピントを合わせる。
 そこには、同年代の見知った男の顔が映っていた。
 MGVの映像を通すと、被写界深度とコントラストは失われる。しかし、境には関係なかった。そして懐かしい感覚に襲われたからこそ、境は不思議と冷静さを保てた。
「篠原(しのはら)だ。相手は最低でも一五人はいる」
《そう……こっちでも確認するけど、後は任せる。チームを待たなくても、拘束のための突入許可が出ている》
 アセット——情報提供者や諜報に関する重要な要素を示す、「資産」という隠語。しかし、「ゾーン」とはどういう意味だろうか?
 境は聞き漏らさないように、MGVをジリジリと前進させる。
《俺のことは気にしなくて良い、好きにしてくれ。残っている彼らは、どのみち——》
 突然、巨人がMGVの方向に正対。液晶を覗く境を見据えるように凝視。境は思わず眉をひそめた。MGVに向かって何か投擲動作をおこない——
 一瞬で、映像が途切れた。
 あの得体の知れない怪人物が、MGVを破壊したのだ。
「バレた、始めるぞ」
《洋上のチームも向かっている。MAVも任せて》
 液晶の下端、『Exit』という赤いタブを境はタッチ。工場の奥から小気味良い破裂音が響いてきた。MGVは鹵獲を防ぐため、事前に自爆用の爆薬を搭載していた。遠隔制御で電気雷管に通電、起爆できる仕組みだ。同時進行で、境は奪った無線機にビニールテープを何重にも巻き付ける。PTTスイッチが常時、押された状態にした。
 本体に気付かれれば変更されてしまうが、電波が常に発射された状態なので、それまではこの警備用周波数には誰も介入できない。
 境は銃を引き寄せ、スコープを覗く。スコープで熱源が素早く動き回る様子を見ながら、引き金に指を掛ける。MGVの自爆と似た破裂音が再び鳴った。ENVGを通したスコープ内では、強烈な煙幕のようなものが取引現場を覆い始める。作業員も遮蔽物に上手く隠れたのか、見当たらなかった。通常の発煙ではない。赤外線による熱感知を遮蔽する赤燐(せきりん)発煙弾だった。
《MAVのコントロールを奪われた。自動操縦で別の場所に向かっている》
 MGVの爆破で上空も警戒されたのだろう……自動操縦はGPS誘導による飛行区域の識別が必要だ。その待機時間が長いほど、ドローンハックされる危険性がある。GPSを書き換えて帰投地点を誤認させ、鹵獲するつもりか。見積もり通り、ただの犯罪集団ではない。優れたメソッドを用いる人間がいる。
「煙でここからも識別できない——ヘリやUAV(飛行ドローン)は?」
《奴ら、通常の黄燐(おうりん)だけじゃなく赤燐発煙弾も撒いたみたい。赤外線で捉えられない》
 それはこっちも同じだ。
 そこでようやく、スコープの中で動きがあった。煙の中から包囲網を突破しようと、車両に乗り込もうとする人間が一名。アウトラインによって、くっきりと人型が浮かび上がる。
 境は上半身と下半身の境目を狙い、躊躇なく引き金を絞る。鞭のしなるような抑制された銃声と反動の後に、目標を確認。車の横で倒れ込む人間が一名。助けようと近寄った人間にも境は照準を合わせる。車の裏まで引き摺り始めた瞬間に、呼吸を吐き止め、発射。また一名倒れる。
 防弾チョッキやヘルメットの可能性を考え、なるべく下腹部や太腿(ふともも)を狙いたいが、六倍率では的が小さい。ただしその分、素早く狙える。銃口から出る発射炎もサプレッサーで九割抑制している。簡単に特定されないだろう。
 新たな一名が、携帯電話のような何かを耳に当てながら周囲を警戒していた。
 着弾音と銃弾のソニックブームで生じた騒音を、発射音だと誤認しているのだろう。応援を呼ぶのか。
 BDCレティクルで三〇〇ヤードまで有効なホースシューを使い、妙な方向へ駆け出し始めた一名に境は照準を合わせる。
 戦闘時の獲物は、平均時速一三・八キロ。小走り程度で駆ける。銃身長一六インチの小銃が撃ち出すブラックアウト弾なら、距離的にも大幅な弾のドリフトはない。
 境が射撃し、弾頭をギリギリまで見送ると、獲物は石に躓いたかのように倒れ込む。境の心の中は冷めていた。
 有能な人間を起用しても、集団が無能なら瓦解する……
《装置は恐らくボートだと思う。でもここからじゃ見えない。全員がバラバラに逃げ出したら——》
 突然、鉄の雨に降られたかのような衝撃を境は受けた。しかも横殴りの強風。空気を切り裂く間延びした飛翔音と共に、頭上を銃弾が掠めていく。工場からは散発的な銃声が届いた。銃の台座にしていたコンクリート塀に隠れるように、境はその場に伏せる。銃を見ると、スコープの側面に被弾。スコープは破裂したラッパのような形状になっていた。境は一旦、銃の安全装置を掛けてスコープを外し、バックパックに投げ入れる。ENVGをスコープのあった位置にマウントし直し、調整。あまりに早く正確な撃ち返しに、境の心臓が大きく脈打つ。
 負傷したとしても、医療品を詰めたポーチをウエストのベルトに着けている。が、そういう問題ではない。
 動悸を無視しつつ、境は報告。
「あいつら自動小銃を持っているぞ、スナイパー探知システムを使っているかも知れない……!」
《指示通り動いていたチームは一、二分で到着するらしい》
「なら五分は掛かるな。逃げられる」
《こっちも電波妨害(ジャミング)で上手く——》
 途切れた無線を無視し、フードを取り払い、境は弾倉を三〇発入りの物に交換。プレートキャリアの重みと緊張感で、全身が汗で湿ってきていた。
 これだと後続が撃たれる。
 通じているかは不明だったが、「直接回収してくる」とだけ境は無線に流した。伏せたまま、スコープを外して軽くコンパクトになった自動小銃の銃床部を縮め、再び背負う。コンクリートや周辺の屋根には嵐の如く弾痕が穿たれていく。境の心拍数は上がり、視野が狭くなり、呼吸は荒くなっていった。ほふく前進で来た道を戻り、梯子を掴み、頭から身を乗り出し、頭と足の位置を瞬時に入れ替える。消防士がやる要領で梯子の両端を両手足で挟み、ファスト・ラダー・スライドで境は滑り降りた。
 安全装置を解いた小銃を構え、境は街路灯が消えたゲートに照準を合わせながら足早に向かう。僅かに息が切れ始め、油断すると目と口が開きっぱなしになり、喉が渇いてくる。体力的な問題もあるが、実弾を込めた武器を持ち、同じような相手も近くにいるという緊張のせいもあった。それらに加えて周囲の銃声。工場で立ち昇る白煙。さながらミニチュアの戦争を思わせる有り様だった。
 数名がゲートから飛び出してきた。
 境は小銃の前部に取り付けた感圧スイッチを指で押し、不可視レーザーを照射。ENVGを覗き、中で動く大きい蛍のような緑光点を敵に合わせ、遮蔽物に寄りながら何発か発砲。
 二名が倒れ、悲鳴が上がる。
 一帯に渇いた銃声が反響。が、イヤホンが周囲の環境に合わせて音量を自動調整。境の耳を音響外傷から守ってくれていた。
 もう一名が、死体を隠してある樹木の陰に隠れる。距離は三〇メートル以下。
 適当な撃ち返しがあり、身を寄せた乗用車のタイヤホイールやボディに何発か当たる。
 取引現場には少なくとも一〇名以上がいた。やるしかない。
 その時、境の視界にこぶし大の石が映った。それを拾い上げ、樹木まで放り投げて叫ぶ。
「手榴弾!」
 慌てて飛び出てきた人物に不可視レーザーを照射。二、三発撃発。相手が路面に転がる。そのまま射撃しながら接近。ウェポンライトをストロボ点灯させ、呻き、叫びながら這い回っている他の二名の頭部にも何発か当てる。頭部から、ピンク色の霧のような飛沫(しぶき)が舞う。うつ伏せの人間には、首の後ろに撃ち込む。
 動かなくなった後にも何発か撃ち込んだ境は、プレートキャリア前部のポーチから新たな弾倉を取り出しつつ、工場の壁際に寄って警戒しながら弾倉交換した。射殺目的ならば境は脳幹(のうかん)を砕きたかった。心臓を破壊しても、脳内の残留酸素で三〇秒近く走り回る可能性があった。鼻先や耳、目を弾丸の射入口にすれば、奥にあるレモン大の脳幹を骨に邪魔されず粉砕できる。脳幹は脊柱(せきちゅう)から伸びる神経と脳を繋ぐ部位。破壊されると肉体や臓器の損傷、出血とは別に電気信号のやり取り自体がストップし、指一本動かせずに即死する。
 境は冷静さを保ちながら、自分が停めた車両の横を抜け、素早くゲートに入った。伸縮式のトリップゲートが設置されていた痕跡を横目で確認しながら、薄暗い敷地内の奥に進む。家のように巨大な砂山の奥から、ヘリのローター音や銃声、喧騒が聞こえた。別の確保チームがボート組を押さえたのか。ただ銃撃を恐れてか、ヘリが暗雲垂れ込める上空から降下してくる様子はなかった。
 そんな矢先、人の気配を感じた。建屋沿いに曲がろうとした瞬間、振り返る。
 眼前に何かが迫った。鼻先を何かで斬られる。境はその場に仰向けになり、目の前の黒い動体に向かって速射。物体は横っ飛びで遮蔽物に隠れた。
 次の瞬間、境の視界に閃光が走った。
 インジェクションバイク特有のセルモータースタートの騒音。そして、二台分のライトがこちらに向かって猛突進。
 寸前で身体を回転させ、ゲートの方向に走り去ろうとするバイク目掛け、うつ伏せで射撃。ライダーに当たったらしく、一台はそのままバイクごと横滑りして付近の壁面に激突。
 さっきの奴は——
 立ち上がる暇も無く、頭上から巨大な影が接近。
 それを転がって回避。すると地面が振動。さきほどまでいた砂地には、車のタイヤほどあるコンクリート片がめり込んでいた。
 境は急いで立ち上がると、何かにフードを斬られた。ナイフか、もう少し長い刃物か。砂地に飛び込み、前転。距離を取り、膝立ちで小銃を構えながら索敵。
 いない!
 急激な重力からの解放。境は自分が背後から丸太のような片腕に締め上げられたことに気付く。しかし顎を引き、切り裂かれた首元のフードが緩衝材の役目を果たしており、意識は保っていた。
 顔面に鋭利な何かが迫る。境は小銃を放すと左腕で防御。何度も突き刺さる。痛みを無視し、拳銃を抜き、背後に手早く片手撃ち。しかし、相手は微動だにしない。
 小銃弾用の抗弾プレートか! 
 そこで境は拳銃下部に装着したLEDライトのストロボフラッシュを指で作動。顔面付近に浴びせ、速射した。
 すると、視界が反転。
 境は空中に投げ飛ばされ、近くに駐車していた車のフロントガラスに頭から突っ込んだ。両腕で顔面は守ったものの、一瞬、意識が飛び、酩酊状態となる。
 それに、この動き……
 蜘蛛の巣状のヒビが入ったガラスにもたれつつ、あやふやな視界のまま周囲を索敵。
 そこで、斧のような物を携えながら飛び掛かってくる巨人を発見。
 すぐに拳銃を向けた瞬間、境の背後から車のヘッドライトが徐々に差し、エンジン音と共に車両群が接近。巨人はその図体に似合わず、両手両足で熊のように駆けて行き、どこかへと消失。境は背後で味方の車列が止まるのを感じた。
 助かった……身長差があるから、下半身を刺してこなかったのか。
「途切れた無線を聞きました、荷物はどこですか?」
 ドライバーの言葉を無視しながら、停車した商用車に歩み寄り、境は咳き込む。商用車は工場で使われているものと同じだった。身体の痛みと覚束ない足取りを、アドレナリン分泌による興奮作用で黙らせる。左腕前腕部の表面からは出血していた。が、傷は深くなさそうだ。
 境は救急ポーチから圧迫止血用の包帯を取り出し、包装を剥いで腕に手早く巻いていく。拳銃の弾倉交換も済ますと、似たような作業服で偽装した人間達が次々と下車。工場内の捜索を行う確保チームで、慣れないサブマシンガンや拳銃を握り、何となく展開していった。敵の大半は既に洋上などに退避したのか、激しい銃声は聞こえてこない。
 短く刈り上がった頭を押さえながら拳銃をホルスターに戻し、境は疲労を抑えながら訊ねる。
「……さっき通り抜けていったバイクはどうした?」
 車内に残り、無線手を務めるドライバーが答えた。
「バリケードにしていた工場の商用車をすり抜けていきました。車で追跡していますが、離されているそうです」
 だからトラックを要求したんだ。
 境はフェイスマスクを脱ぎ、曇り始めたアイウェアを外した。いずれも汗で濡れていた。小銃とプレートキャリアも外して渡す。自身の身体から湯気が立ち、虚空に消えた。
「全チームがここに集まったのか?」
「そう聞いています」
「多分、バイクの奴が持っていったぞ」
「え?」
 相手がマスクを着けていても分かる。呆けた表情になっているのだろう。
「気にするな。四つの情報機関が競合すれば嫌でもこうなる。監視位置に俺のバックパックや梯子があるから回収しておいてくれ」
 元から期待していない。そう言わないだけマシだろう。
 境は拘束されているライダーの場所まで歩く。と、背後から声を掛けられた。
「上空のチームでロードブロックできるんじゃないですか?」
「都内の車道をヘリで封鎖するのは現実的じゃない」
「途中で降りれば?」
「どのみち車両が必要だ。このまま逃がせば、また公安につつかれるぞ」
 自分に言い聞かせるように返すと、境は両手を縛られたライダーを身体捜検(しんたいそうけん)していた仲間達を呼び止めた。
「待ってくれ」
 境はライダーのヘルメットを外し、自分で被った。骨伝導イヤホンが内装パッドに押されて耳を圧迫する。が、僅かな痛みなので無視。フルフェイスのレーシングスペックで、幸いにもフィットした。その際、ライダーが着ている作業服の上腕と胸部に目が留まる。胸には小さなディスプレイが付いたリモコンのような物体があり、腕には握り拳くらいの四角い装置がテープで巻かれていた。
 個人用のスナイパー探知センサーか。
 ライダーだった若年のアジア系外国人は顔を上げ、片言の日本語で話しかけてくる。
「運び屋。雇われただけ。関係ない。みんな警察?」
 あご紐をD環に通して緊張させる。すると、意図を察した仲間の一人が諦めを含んだ口調で教えてくれた。
「車で追っていますよ?」
「なら捕まらない」
 転倒した大型自動二輪を起こし、境はキーを捻る。ヘッドライトが点灯し、車両自身の自己診断プログラムが起動。デスクトップPCのファンのような機械音が鳴る。各種電子制御やデジタルメーターが作動するか、車両自身が自己点検を始める。
 損傷はミラーなどの外装だけで済んでいる。オイル漏れもない。燃料もある。これなら走れる。
 鮫の顔のようなフロントカウルをしたスーパースポーツにまたがり、ハンドルのセルスタートスイッチでエンジンを始動。しかし転倒の衝撃で内部に不具合があるのか、セルモーターが虚しく鳴るだけだった。
「境、命令もなしに動くな!」
 何回かトライしている最中、良く聞く声に怒鳴られる。手を動かしつつ、車から降りてきた男に視線を向けた。相変わらず恰幅(かっぷく)の良い体格をしていた。
「今は俺の方が立場は上だ、空気を読め! 洋上にもチームはいるんだ!」
「給料分の国益を守っているだけだ……お前達はどうだ?」
 無感情にそう伝えると、その場で見ている全員の思考が手に取るように分かった。
 やりたがり。
 暴走老人。
 周囲の輪を乱す存在。
 組織としては間違っていない上司が何かを言いかける前に、エンジンに熱が入った。
 二〇〇馬力のクロスプレーンエンジンが轟き始めた。新車で買えば二〇〇万円以上。かつてサーキット最速と謳われた一〇〇〇cc。犯罪者集団がこのリッターバイクに乗っている事実と、出力アップ用に高級マフラーへと換装していることに少し腹が立った。そして毎度のことながら向けられる視線に、境は空気を読んだ。
 メットのシールドを下げ、クラッチペダルを何回か踏み、軸足をコンクリートに下ろす。車体を傾け、そこから一気にクラッチレバーとアクセルを解放。後輪の空転を利用し、アクセルターンで砂塵を巻き上げ、ゲートの方向へ正対。そのまま急加速。軽くウィリーするほど一気にアクセルを捻る。
 急激なGが境に襲い掛かる。両膝で燃料タンクを締めて、セパレートハンドルを軽く握り、レーサーのように前傾姿勢を維持。事なかれ主義の輪から脱出するように、ゲートまで一気に加速。
 幸い、スパイクシステムは撤去されていた。
 付近にいたチームの数人が飛び退く。
 フロントカウルに頭を沈め、境は孤独を紛らわせた。
 いつからこうなってしまったのか。
 この言葉は所属組織に向けたものなのか自分自身なのか。境にはもうそれすらも分からなくなっていた。
 ゲートを抜け、工業地帯を一気に駆け抜ける。
 全身に寒風が叩き付けてくる。道路が淡いオレンジ色の街灯に照らされていた。腹の底で、エンジンの高鳴りが極まる。シフトチェンジし、三速まで入れる。市街地ではこれが限界だろう。オートシフターなので、クラッチレバーを介さなくとも爪先でペダルを上げるだけシフトアップできる。
 ブーツで良かった。クラッチ操作で足を痛めるところだった。
 境はジャミングで切断された無線と再交信を試みる。
「位置はリストフォンの自己位置(GPS)で捉えてくれ」
《——いつも通り、情報共有は関連するアセットだけ。パトカーには気を付けて。それと、連中はやっぱり『血盟団』(けつめいだん)のメンバーだった》
「本命は?」
《ボートは臨検部隊とヘリで確認している。恐らくはバイク。引き離された追跡車の連絡だと車種はスーパースポーツ、色は真っ赤。高速には乗らず、下道で都心部に向かっている。ヘリはもう出せない》
「ならメリットは一つだ」
《狸穴(まみあな)》
「港と空港は遠すぎる。あそこなら一二キロだ」
 コンクリート工場から「狸穴」までは混んでいれば約三〇分。しかし、それは一般車が道路交通法を守った場合だ。
 右カーブ、左カーブと加減速を繰り返し、境は直線で再び加速。ヘッドライトの白色LEDが、オレンジ色に染まっている路面を淡く照らしていく。先へ先へと行くほど、街灯の設置間隔が短くなった。
 視界良好だ。
《流石に狸穴周辺には近付けない。警官隊が常時警備している。それに首相は今、会談を控えている》
「追ってくれ。小型でもレーダー技術が詰まっている」
《ええ——けど、東京はあなたがいつも走っているレース場じゃないんだから、注意して。あなたの特徴は?》
「同じリッタースポーツで黒。いつも乗っているのと色違いだ」
 相手は「走る実験室」として有名だが、スペックは拮抗。いずれにせよ、公道でフルスロットルにできるようなマシンではない。
 かつて大手メーカーの威信をかけたフラッグシップモデル二台が公道で出揃うという事実に、境は目を細めた。
《結構なスピードだから、このままだと一〇分も掛からない。かなり速いみたい》
 ——平均時速七〇キロ程度か。
 境は風を切るメットの中で、思わず笑いをかみ殺した。
「なら分かる」
 カーブを曲がり、アクセルを開く。冬の冷気が、顎下から一気に鼻腔へと侵入。作業服とパーカーが最低限の防寒であり防備。
 路面の先を見詰めていると、単車の赤いテールライトを見つけた。工場が休暇中に、閑静な一帯を走る車両はない。
 そしてかなりの速度。ライダーの焦りが伝わってくる。
 あいつだ。
 先の方で左折し、テールライトが消失。路面の両サイドは白いガードレールと生い茂る街路樹。それをヘッドライトが濡らしていき、僅かに艶を魅せる。
 ここはほぼヘアピン、左折じゃない——
 コーナー進入前に、右手でフロントブレーキ、シフトダウンでエンジンブレーキもプラスして速度を落とす。エンジンが唸った。
 左膝を路面に擦る寸前まで、車体を左傾(バンク)。
 視線は先へ。視覚吸引効果で手前を見れば不安定になる。
 メットがガードレールに削られる手前まで接近。視界の上端では白いレールが軌跡を描く。地上では白線が延びていく。
 一八〇度のターンを脱出後、数十メートル先には右コーナー。
 相手は反対車線に飛び出しながら、テールライトの残り灯だけを覗かせた。
 スロットルワークで熱を噴き上げ、一気に右コーナーまで食い付き、脱出。視線は先へ。
 また数十メートル先にテールライト。左折寸前。左手には道路に飛び出した不法駐車群。右手には白壁の建造物。人はいなかった。
 風の音。抑揚を奏でる鉄の心拍数。それら不協和音のみの世界。
 右手を捻り、左足でシフトアップ。一時停止のラインまで突貫。車両群の脇を抜ける。道路表示は無視。T字路を前にスピードを下げ、シフトダウン、両膝でタンクを抱き締め、バンクして左折。
 待っていた視界は直線。
 温かみのある常夜灯に照らされた冬のドライ路面。両側の歩道を守る防護柵。それ以外は何もない。あるのは視線の遥か先。ちらつく赤い蛍。
 前輪が浮き上がる寸前まで急加速。ガソリンタンクを挟む両膝、肩関節が軋んだ。胸中と股下、二つのエンジンが早鐘を打つ。緩やかな右コーナーを脱出し、視線の先の蛍を追いかけ、今度は左コーナーに差し掛かりバンク、立ち上がり、脱出。
 右手にある公園。左に見える物流センター。それらが視界に入り、消え、蛍は右コーナーを抜ける。
 フロントブレーキで前輪へと伸びるフロントフォークを沈ませ、フロントカウルを潜らせ、頭から突っ込む。カーブのきっかけを作り、コマの要領で旋回を終える寸前、後輪が滑らない程度に加速し、脱出。
 一連の流れ。一連の動作。その流れ作業に無駄がなければ、先行車との差は縮む。
 右コーナーを抜けると、『止まれ』を止まらずに相手は左折。ついに大通りへと消えた。
 視界が徐々に開けていく。
 工業地帯を抜け、10号線の横っ腹が眼前に現れる。
 ここからは障害走だ……!
 右から来ないか、瞬時に確認。判断して左に飛び出し、アクセルを開ける。
 一気に世界が変わった。
 甲高く、それでいて獰猛な出力。街中に、高出力で濃密な排気音がブレンドされた咆哮が反響した。
 社外品マフラーで予想はしていたが、ABS(アンチロック・ブレーキシステム)もリミッターも恐らく解除済み。国内の一八〇キロ規制がなければ、時速三〇〇キロは出る。
 路肩に列をなして停車し、二車線の左側を占有しているトラック群を追い抜く。反対車線との境目には、白い柵が延々と続く。意識は常に約五〇メートル先を走るテールランプ。時々、脇道から出る車両にも向けた。デジタル速度計は『160』を表示している。
 当たり前のように信号無視。高速で通過していく自分を見るドライバーの顔なぞ見えないし、見ない。
 まだ車は少ない……!
 街中に、人工照明群に侵された夜分に、下品にそびえる高層建築物を前に、火炎のような車体を先頭に、黒い鮫が続く。四車線を抜け、巨大な十字路を炎は駆けていく。信号も同じ色。左には交番。
 バスが……!
 共犯意識を持つ前に、左車線へと身をきる。センターラインを割って突き出された大型車の顔面を、路肩に寄って避ける。後方にクラクションが置いてかれた。
 踏切を超え、都心部に接近。反対車線では交通量が増加。こちらの三車線は歩道側がトラックに埋められている。頭上の歩道橋を超えた頃、後方からサイレンが聞こえた。
 当たり前だ。
 薄暗い海上を走るような景観が変貌。昼間の白く光るアスファルトとまではいかないが、猥雑な白色灯の海に飛び込む。歩行者も増える。車線も一つ増えた。右側に列をなす対向車のヘッドライトは、夜の漁港のように玉の光を浴びせてくる。獲物の光を見失わないように、前傾姿勢とニーグリップを頑なに保持する。再びサイレンが反対車線から鳴り響く。速度は『182』。
 無理だ、止めとけ。
 公務員である以上、追跡者にも一定の理解は示す。しかし、境としてはそれだけだった。速度は『190』。
「速い……!」
 思ったのではなく、口に出た。それに驚いたのは境自身。
 都心部の市街地においてアベレージで時速一七〇キロ。これでも追いつかない……!
 借り物の装備とマシンが憎かった。ガレージに眠っているマシンが頭をよぎる。ドンつきの多いアクセルワークから見るに、グレードの低い安物のエンジンオイルか。それか漏れ始めているのか。しかし、見る余裕はない。クロスプレーンエンジンの滑らかさが相殺し、結果的にプラマイゼロになっている。
 燃料と点火マップ、カット調整、ETV、レブリミッター、排気デバイス、アフターファイア、ラジエターファン、各種O2センサーにエアインダクション——ECU調整を感じないのがもどかしい!
 ミラーで後続のパトカーを確認。遥か彼方。路面の下では東京メトロ東西線が張り巡らせている。そして前を行く蛍が下品に尻を振り——消えた。
 曲がった? いや有り得ない!
 接近して判明。十字路を前に信号待ちしている車群。その間を何もかも無視して通過したのだ。テールランプの間に挟まれたので誤認した。鮫もそれに続き、魚群を抜ける。
 永代(えいたい)通りは緩やかな直線が続く。歩道側車線が工事中。赤いコーンと虎柄を抜け、周囲のEVカーを抜き去る。既に何年も前から台頭し始めたモデル群。石油燃料のスタンド数もかなり減った。
 再び商店街に進入。空き続ける右側車線をラインに速度は『209』に到達。蛍との距離が一気に詰まった。
 違う!
 境は反対車線への飛び出しを防ぐ。右手を握り込み、フットペダルも踏む。時速一〇〇キロ台まで落とし、左へバンク。蛍は速度を復活させ、炎の軌跡を残し、永代橋を駆け抜ける。
 ここで半分……!
「狸穴」まで残り六キロ程度。隅田川を乗り越え、緩やかに左車線へと移行。蛍が消えた方向へとシフトダウンし、十字路を左斜め前へ突っ切る。
 片側二車線の鍛冶橋(かじばし)通りは、両サイドを街路樹に挟まれ圧迫感を演出していた。後方からサイレンと赤色灯が迫るが、クラッチなしのオートシフターにより絶え間なきシフトチェンジを実現。あっという間に過去へと追いやる。
 亀島川(かめじまがわ)を超える高橋までは一直線。
 蛍を追走し、信号待ち車両の間を抜ける。『150』まで持ち直す。ビルに囲まれているので、排気音が都市部にこだまする。高橋を抜け、緩やかな右カーブを済ませ、停車中のタクシーを追い越す。
 この一般道から昭和通りまでは、ほぼ一直線。
 二〇メートル近くまで接近した蛍も同じ認識なのか、急加速。通りに人や車両の往来が少なくなってきた。それを良いことに、巨大な十字路を赤信号で突撃する。
 クソ!
 続いて飛び出した境は、真横から来た車両が急ブレーキを掛けた事実を、渡り切ってから確認。鼓動が早まり、吐きそうなくらいの緊張が内臓を襲う。八丁堀駅の真上を時速一六〇キロで通過したのだ。しかし——
 一度や二度じゃあな……
 思わず冷笑が漏れた。こちらを見向きもしない蛍のライダーは、黒いバックパックを背負っているようだった。同じような作業服に身を包んでいる。
『よくやるよ』
 そんな言葉が伝わってきた。
 一気に交通量が増加。蛍は速度を落とし、左へバンク。一瞬、境は腰のホルスターに手が伸びそうになる。が、蛍にならった。拳銃弾では高速回転するコンパウンド(タイヤの素材)に弾かれるかもしれない。だからと言って、小銃があったとしてもこの速度域で構えることは不可能。
 接近して人体にぶち込む。それしかない。互いにアドレナリンが出ている。やはりメットや抗弾プレートのない大腿部か。
 再度エンジンに喝を入れ、チキンレースが始まる。路肩にはタクシーが並び、四車線の両サイドは高いビル群。今度は都道316号線、主要道路。一〇〇キロ未満で、右へ左へと車両を抜き去る。
 蛍は中央に現れた地下自動車道を回避し、素直に走り続ける。ここまで来れば、「狸穴」まで三分の一を切っている。「銀座ときめき橋」の下を潜り、右手に見える巨大な銀座ビルを尻目に、頭上の高速道路を右へバンクしながら潜る。
 国道に出る……!
 目的地は目と鼻の先。何をするかは定かではないが、もしバックパックを「敷地内」にでも投げ込まれたら回収できない。右ウインカーを出した車両を回避し、山手線と新幹線が走る頭上の線路を通過。後方からは再び警察車両が接近。が、完璧に無視。運良く、青信号で右折。膝をする勢いでバンクし、蛍を追い立てる。同時にクラクションの嵐にも見舞われる。
 虎ノ門ヒルズまで一直線。
 蛍は左車線の日比谷通り方面ではなく、右車線の溜池方面へと移行。坂を下り、「築地虎ノ門トンネル」へと進入。上り坂となる対向車線からのヘッドライトに目を細めながら、境も坂を落ちていく。
 ここしかない……!
 周囲を白いコンクリート壁に囲まれ、二車線の右側を飛ばす蛍を境は猛追。三速、時速一五〇キロを確認後、親指でクルーズコントロールシステム(自動航行モード)を起動し、速度を維持。ホルスターから拳銃を抜き、右手をウィンドウシールドに依託し、狙いを済ませ——
 ……駄目だ!
 一瞬、パーカーの懐に隠した武器を思い出す。しかし、蛍は嘲笑うかのように加速。境も銃をホルスターに戻し、スロットルを捻った。
 コンクリートの囲いを抜けると、四車線に躍り出る。蛍は迷いなく、左へと流れていく。境も追撃。赤信号で左折専用レーンに待機していたワゴンを後方からすり抜ける。境も続行。漏れなくクラクションが付いてくる。車体を持ち直すと、中央分離帯も歩道側も、工事中のためかコーンが敷かれていた。
 二国(国道一号)……!
 それは最後の直線を意味していた。通行車両は全くない。後方のパトカーもいつの間にか消えていた。
 スロットル全開。加速する世界。爪先を何度か上げて、『220』に到達して——『240』。車体の振動を感じ始め、境は五速に上げる。
 対向の右折車は、もう避けられない……!
 転回しようとするトラックの顔面に肘を擦りそうになる。
 路面の白線が延々に続く感覚。
 接触すれば宙を舞って終わり。
 何かが遠くなり、縮こまる。
 トンネルビジョンに——意識を——
 蛍が急減速し、激突しそうになる。境はフルブレーキで握り込んだ。シートから投げ出されそうになる。が、ニーグリップで耐える。
 ライダーが、こちらを肩越しに見た。
 最後のカーブだ……!
 互いに減速。一次旋回から二次旋回、コーナー脱出へと切り替える。緩やかな上り坂。
「狸穴」が見えた。左手をパーカーの脇下に伸ばす。拳銃を抜く。薬室には装填済み。後は——
 対向車のヘッドライトに、視界を奪われた。
 左——!
 瞬間、世界が反転。
 黒い空と淡いオレンジ路面を、何度も交錯。
 境は理性ではなく、経験と本能で首を丸めた。
 身体の右側面から、激烈な痛みを感じた。待っていたのは、冷たく固いアスファルトの衝撃。マシンの破片が頭上から降り掛かり、拳銃が路面を滑って、ゴムの焼ける臭いが僅かに漂った。
 あばらと肘の痛みに顔を歪めながら、境は左手でメットのシールドを上げる。
 あいつは……
 焔のような車体は、「狸穴」の正面ゲート付近に佇んでいた。降りないまま、こちらを見ている。近くを警備していた警官隊が駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
「救急車呼べ!」
「ありゃ、外ナンか——一人で立てますか?」
 呼吸ができない……肺、か?
 息を僅かに吸うだけでも、胸が激しく痛む。アドレナリンで鎮痛はされている。が、とてもではないが返事ができない。無線機でやり取りを始めた警察官達を無視し、境は体勢を少しずらす。ホルスターを隠せば、ライダーの装備に見えなくもない。苦痛をこらえながら、後ろを向いた。
 脇道から黒塗りのセダンが出てきた。激突したらしい。ナンバープレートは青地に『外』の白文字、『79』から始まる国番号。そしてブルーのライセンスプレート。運転手が降りて、近くの警官に運転免許証と身分証明票を求められていたが、日本人でもないし、日本語を使うわけでもない。
『外』の文字が『〇』に囲まれていない……大使の車両じゃない。
「負けず嫌いが出ちゃったよ」
 ……篠原。
 前方に視線を戻す。するとバックパック以外は似た格好の男が、シールドを上げながら歩いてきた。付き添っていた警官が「友人ですか?」と訪ねる。
「同僚です。会社の帰りでして……」
「そうですか、車両規制するので、ここをお願いしても良いですか?」
「もちろん、任せて下さい——」
 ふざけるな……
 何か言おうとする度に咳き込む。脇の下がべっとりと濡れていた。作業服が赤黒く染まり始める。吐血しなかった。
 内臓は無事か……
 地べたを這う境を見下ろしながら、篠原は手元に隠し持っていた拳銃をちらりと見せてきた。それは、境が落とした予備の拳銃。
「まだこんな骨董品使ってたのか」
 既製品から付け替えられた木製グリップを指でなぞりながら、篠原が呟いた。半世紀前に日本の軍事組織である「旧自衛隊」で制式採用された拳銃。もう製造はしていないので、後は使い潰して不要決定、破棄するだけだった。
「とっくに耐用年数は切れているよ」
 ……それはどちらを指して言ったのか。
 篠原はシールドを下げて、隣接した建物の敷地内にバックパックを投げ入れた。
 警官は何をやっている、回収しろ、不審人物だぞ……
 境は粉塵を吸ったようにむせながら、目線で周囲の警官に訴える。しかし、誰も動かない。誰もそれを見ようとせず、見なかったことにしていた。青いバスのような警察の人員輸送車の搭乗口が開き、中から休憩中の警官達が出現。篠原を一瞥し、境を見る。そして、何事もなかったかのように路面に散らばった異物を除去。カラーコーンの設置に加わった。ロシア語の大男と警察官は、警視庁の通訳センターにリモート翻訳を依頼しながら、何らかの会話に興じている。
 血盟団、か……
 警察内部にアセットがいるなら、ロシア大使館の固く閉ざされたゲートを開ける必要も、飛び越えることもない。背後からはサイレンが迫ってくる。
 言い訳を、用意する必要がある——
 バイクで六本木方面へと走り去る篠原を、境は思考のまとまらない脳を働かせながら、路上から虚ろに眺めることしかできなかった。

 ◆

 二月末。
 学生も社会人も一つの節目を迎えるこの時期。青年はスーツ姿で立ち尽くしていた。
「煙草行ってくるから、よろしく頼むわ」
 そんな台詞を残し、青年の「一応」の上司はかれこれ三〇分以上戻ってこない。
 あの人の性格上、就活生の女子をナンパでもしているのかな……
 ため息を吐きながらそんな予想をする青年。それだけならまだ良かった。座る物が一切用意されていなかったせいで、運動とは無縁の人生を送ってきた青年のふくらはぎは張り詰めていた。何度目の気晴らしか分からなかったが、青年は自社ブース以外の様子を探った。
 東京ビッグサイト。東展示棟、国内外電気機器展示会。
 国内最大の国際展示場は、世界各国の半導体メーカーによる見本市と化していた。

(ここからは本編でお楽しみ下さい)