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"知事擁護派の矛盾" 「表現の不自由展・その後」の問題 ~あいちトリエンナーレ~

「表現の不自由展・その後」に係る問題は、偏に愛知県知事に責任があると考えています。知事を擁護なさる方の矛盾点について考えを整理しました。

以下、知事擁護派の発言の矛盾と感じる点について述べていきます。

1.「トリカエナハーレ」2019に於ける二重基準

「表現の不自由展・その後」への風刺も含んだ「トリカエナハーレ」が2019年に開催されました(2020年にも開催)。
同催しは民間により県施設を借りる形で行われました。

これに関し
大村知事は、”当日に施設側が催しを中止させなかった対応を『不適切だった』と述べた" と報道されています。
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/191102/dom1911020002-n1.html

…???
知事を擁護なさる方は、知事は「表現の不自由展・その後」で『憲法、法律を遵守しただけ』であり、『公は『芸術』に一切容喙してはならないのだ』という趣旨で擁護しておられる方が多い様に思われますが、さて、トリカエナハーレに関しては何故、知事を批判なさらないのでしょうか?

知事擁護派の主張する「憲法、法律」を寡聞にして存じませんが、万一その様なモノがあるならば、憲法の平等原則によりトリカエナハーレに関しても適用されなくてはなりません。むしろ「公主催である『表現の不自由展・その後』よりも、民間主催であるトリカエナハーレへの規制の方が問題視されて然るべき」です。

知事の『内容からして明確にヘイトに当たると言わざるを得ない』という発言も、「公からの芸術作品への一方的容喙」に過ぎません。
『芸術であれば、その自主性を尊重し、公は芸術内容に容喙してはならない』という、恰も「文化芸術基本法」を無理に拡大解釈したかの様な知事擁護派の主張と相容れません

また、「ヘイト」と言うと、「ヘイトスピーチ解消法」を彷彿とさせますが、同法はヘイトスピーチにあたる言動に関し各自治体に『施策を講ずる』ことを求めただけで、県条例等を定めることなく、同法のみを根拠に罰や不利益処分を行うことは適切ではないと考えられます。
また、擁護派は『公の芸術への不介入』は「『憲法』、法律」による要請であるとご主張ですので、憲法に勝る法、条例は存在し得ません。

上記より、知事擁護派の主張する「憲法、法律」による要請は、トリカエナハーレに対する知事の言動にも適応されざるを得ないでしょう。

ですが、トリカエナハーレに係る知事の対応について批判している知事擁護派の方を私は見たことがありません。

トリカエナハーレ2019に関して知事を批判しない知事擁護派の宣う「憲法、法律」とは、
単に「『表現の不自由展・その後』及び知事を無理やり擁護せんが為の方便」でしかないと考えざるを得ません。

2.「トリカエナハーレ」2020に於ける二重基準

2020年9月に開催された「トリカエナハーレ」は、『当初県施設(愛知芸術文化センター)使用許可を得ていたにも関わらず、県から許可を取り消』されています(結果、名古屋市施設で開催)。

許可取り消しの理由は警備員の配置不足が原因であったと報道されています

抑々同施設のギャラリー及びアートスペースの両方の利用不可条件に「警備が不十分」等の記載はありません(館長の付した条件に従う規定は存在)。

加えて、「表現の不自由展・その後」では事前に警察からも指摘を受け、予期できたはずの事態への対策等が不十分であった結果、大問題となり『安全上の理由』で展示を中止しています。

許可を取り消すのであれば、当然「表現の不自由展・その後」の方、又は「表現の不自由展・その後」とトリカエナハーレ両方であるべきだったのではないでしょうか。

「表現の不自由展・その後」に関しては、あいちトリエンナーレ全体で使用許可を出していたからであるとも考えられますが、それであれば問題が予期された「表現の不自由展・その後」を当該会場に盛り込んだ主催者である愛知県側の責任でしょう

結果として、ただ場所を提供しただけの公施設である愛知県美術館が「検閲」という汚名を負う事となり、また世界的にも批判された点で、愛知県の責任は計り知れないものがあるかと思われます

よって、この責任に言及せず、二重基準を許容する様な知事擁護派の発言は、
『表現の不自由展・その後』及び知事を無理やり擁護せんが為の方便」でしかないと考えざるを得ません。

3.「公不介入原則」という謎

上記1.でも述べましたが、擁護派には「『憲法、法』より導かれた、『芸術であればその自主性を尊重し、公は芸術内容に容喙してはならない』原則」により、「知事の行動は何ら問題無かった」と仰る方が少なくない印象です。

憲法第何条なのか、何法の第何条なのか迄はご教授くださいませんが、曰く「『憲法、法』により、そうなっている」模様です。

さて、地方公共団体は『地域における行政を自主的かつ総合的に実施する』と定められており(地自法第2条の2第1項)、
法定受託事務とそれ以外全ての地方公共団体の事務(=自治事務)を行うこととされています(憲法第94条、地自法第2条)。
また憲法に『地方自治の本旨に基いて』とある様に(憲法第94条)、住民自治の原則により、地方の政治はその地方に住む住民の意思に基づいて行われるべきであると解されています。

では、あいちトリエンナーレ及びその一部である「表現の不自由展・その後」はどうだったのか?
文化芸術活動に係る法律(文化芸術基本法等)は、法定受託事務に規定されておりませんので、自治事務として行われていると考えられます。
(そうでなければ他府県でも常に芸術展を開いている必要があります)

即ち、地域の実情に応じ、自主的かつ総合的に、住民の意思に沿って行っている事業となります。
(なお、後述しますが、事前に記者発表で住民等に、大変デリケートな問題を孕んでいる「表現の不自由展・その後」出品作品を説明して理解を得る機会を設けていたにも関わらず、結局それを行なわず、住民の理解を得ようとしないまま、あいちトリエンナーレを開催した点も大きな問題だと考えます)

愛知県は、正に『憲法と法』の規定により、『自主的に』あいちトリエンナーレの実施を決め、『自主的に』「表現の不自由展・その後」の実施を決定しました。

事業内容も当然同様に『自主的に』決定される筈です。
公事業である以上、内容、目的、効果等に関し、公が物申せない等ということはあってはなりません
万一その様な事態になれば、それは公主体の事業ではなく、単に不正に税金を投入しただけに過ぎません。

道路工事を例に挙げれば、何の為にどの様にどんな道路を作るかは、当然公が決定する事です。
土木事業者に全てを一任し、且つ内容も把握していないしようとしない結果に責任も負わない公事業など、存在し得る筈も無いのです。
公事業として税金を使用する以上、必ず説明責任は生じるからです。

道路工事では当然と思われる事象ですが、知事擁護派によれば、こと「芸術」と銘打たれると全く別次元になるらしいのですが、その理由は何でしょうか?
「文化芸術基本法」は存在しますが、『憲法に規定された』地方自治や住民自治の原則に超越して存在するものではありません。

『文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない』(文芸法第2条第1項)は、「芸術及び芸術活動者は一切の制約を受けない」事の根拠にはなりません。
もし一切の制約を受けないという趣旨ならば『芸術活動者は国及び地方公共団体の予算を自由に使用し、一切の干渉を受けずに自己の目的に於いて展示活動を行うことができるものとする』という規定だけで十分でしょう。

また、公の『自主性』に関して示唆的であるのは、各種の補助金です。

他ならぬ愛知県の文化活動事業費補助金で『政治的又は宗教的意図を有する事業』が対象外とされています。
加えてあいちトリエンナーレ2019パートナシップ事業に於いても『宗教活動や政治活動を目的とする事業』は対象外とされています

加工後_愛知県文化活動事業費補助金_対象外事業

加工後_20200929_あいトリ2019パートナーシップ事業案内

補助事業ですら公の『自主性』が反映され、「政治活動」に関し対象外としている(=内容に容喙している)のです。
公は芸術とは何か、という判断はできずとも、政治的活動及びそれを目的としたものであるか否か判断し、己の意思で除外できるということです。

余談ですが、「表現の不自由展・その後」調査報告書に於いて、今後「アーツカウンシル」の導入も検討されていますが、
既にアーツカウンシルを導入している浜松市でも『政治、宗教若しくは選挙活動を目的とする事業』を補助対象外事業としています

補助事業ですらも発揮できる公の『自主性』(=内容への容喙)が、何故、自主事業に於いて奪われなければならないのか?
もし万一「芸術への公不介入原則」があるならば、上記補助事業に於ける対象外規定は、知事擁護派の宣うところの「憲法、法」違反です。

故に、この点を批判せず、二重基準を許容する様な知事擁護派の発言もまた、
『表現の不自由展・その後』及び知事を無理やり擁護せんが為の方便」でしかないと考えざるを得ません。

4.「知事無謬原則」という謎

知事の責任論と関係が無い事例を基に「知事に問題がない」と主張する謎の言説も見受けられるため、それに関しても所感を述べたいと思います。

何故か文化庁補助金の交付決定を以って、「知事及び『表現の不自由展・その後』の正当性が認められた」とする意見を拝見することがあります。

「愛知県が『表現の不自由展・その後』に係る不手際を認め、『表現の不自由展・その後』に係る約1200万円分を減額申請したことで、文化庁が交付決定した」という事実は知っていますが、そこに知事の何を擁護する要素があるのか全く分かりません。

むしろ「知事の不手際により1200万円以上もの想定外の税支出が発生した」という事について問題視するべきではないでしょうか?

「あいちトリエンナーレ全体では黒字だった」という反論もあるかもしれませんが、地方自治体は予算制度を採用していますので、予算面から見た場合、事業自体がどれだけ黒字でも、文化庁補助金が減額された事や支出が増えた事に何ら影響を与えません
予定されていた補助金がマイナスになり支出が増えたことで、他の事業費の縮小等の悪影響を与えることになると思われます。

「表現の不自由展・その後」に関し、警察から事前に指摘を受け、問題が予期されていたにも関わらず十分な対策を行わなかった、行えなかったこと(なお、それを文化庁には伝えていなかったことが補助金の不交付決定の原因とされています)、
文化庁補助金の減額により、他事業(=本来住民が受けるはずだったサービス)に悪影響を及ぼしたこと、
事前に記者発表で住民等に、大変デリケートな問題を孕んでいる出品作品を説明して理解を得る機会を設けていたにも関わらず、結局それを行わず理解を得ようとしなかったこと、
一見して「芸術」の趣旨が分かり辛く、非常に政治性の高いデリケートな問題を孕んだ作品群に対し、予算的、時間的不足からその解説や事前説明等の対応を怠り、結果問題を拡大させたこと、
それにより更なる問題を引き起こし「『表現の不自由展・その後』の中止」に至ったこと、
それが原因で「表現の不自由展・その後」以外の出展作家からの批判やボイコットもあり、あいちトリエンナーレ全体にも悪影響を与えたこと、
会場だった公施設である愛知県美術館が「検閲」という汚名を負う事となり、また世界的にも批判される事となったこと、
これらは偏に、運営、即ち愛知県に責任があると考えます。

そして何より、「『表現の不自由展・その後』に係る問題を鑑賞者、批判者に責任転嫁したこと」及び「『表現の自由』や『検閲』という該当しない表現を並べ立てて正当化を図ったこと」は著しく誠実さを欠く行為です。

与えた悪影響の甚大さ、事前、事後の対応の不十分さ、不誠実さに鑑みて、責任者である知事に批判がなされるのは当然ではないかと思われます。

ですが、知事擁護派の
『知事は憲法と法を守った誠実な人物である。よって批判・解職請求される謂れは全く無い』という根拠不明の言説は、
上記知事の責任と思われる種々の問題に関して何ら言及しないまま「知事の無謬性」を主張しています。

従って、「知事の無謬性」の根拠を明確にし、又、上記種々の問題に関する責任の所在を明確にしない知事擁護派のご発言は、
『表現の不自由展・その後』及び知事を無理やり擁護せんが為の方便」でしかないと考えざるを得ません。

5.結論

上記1.から4.までより、私は現状、知事擁護派の発言は、
『表現の不自由展・その後』及び知事を無理やり擁護せんが為の方便」でしかないと考えざるを得ないと思っています。

「解職請求は不当である、間違っている」、「知事は正しい」と仰る際に、その根拠を明確にした上でご発言なさらないと「デマ」「プロパガンダ」の誹りを免れないのではないでしょうか。
無論、解職請求側、知事批判側にも同様の事が言えるかと思います。

事実誤認、誤り、不足等ございましたら、ご指摘賜りましたら追加、修正させていただきたく存じます。