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当てはまらないカトリック司教の靖国批判。糸永司教にしてもなお(平成19年12月20日木曜日)


 この一年ほど、日本のキリスト教、とくにカトリックの指導者に対する批判もしくは問題提起を、一般のメディアで何度か書いてきました。この10年ほど、キリスト教について学んできて、靖国批判や歴史批判をする司教様方の政治的言動があまりにひどいものと映ったからです。(それらは私のサイトに掲載してありますので、ご関心のある方はどうぞご覧ください。)

 しかしけっして教会指導者すべてが左傾化し、異端化しているわけではないことは、オーソドックスな主張をなさる鹿児島の糸永真一司教のブログ「カトリック時評」が証明しています。そのことは、雑誌「正論」2月号掲載の拙文「教育基本法『改正』反対で揺れるカトリック教会」の冒頭に取り上げました。
http://homepage.mac.com/saito_sy/religion/H1902SRbishop.html

 けれども、まことに残念なことに、こと靖国問題となると、その糸永司教でさえ、まったく的外れの議論をされるようです。司教様のブログに載った「靖国神社参拝の是非について─みずから「宗教法人」になることによって靖国神社はどう変わったのか」と題する短いエッセイを拝見すると、そのことがよく分かります。
http://www.mr826.net:8080/psi/catholic/0611-0710/071001/

□1 神社宗教非宗教論からの深まり


 司教様のエッセイは、司教様のブログに対して、靖国神社の祭神にはカトリックの神に並ぶような神威・霊威はないし、戦没者合祀の目的も追悼・慰霊であるから、神の第一戒(唯一神の信仰)に反しないのではないか、という書き込みがあったことに対して、ご自身の見解を述べられたのでした。

 見解は、「神社非宗教論と国家神道」「教会による神社参拝容認」「靖国神社の宗教法人化による事情の変化」の3つの項目から成り立っています。

 まず、三土修平著『靖国問題の原点』を参照しつつ、司教様は、明治の初期に信教の自由とは抵触しないものとして「国家神道」が形成されていった。「しかし」昭和になり、皇民教育の一貫として神社参拝が義務づけられ、カトリック信者にとって良心上の重大な悩みが生じた、と歴史をふり返ります。

 「重大な悩み」とはいうまでもなく、「神の十戒が禁じる偶像崇拝を恐れた」ということです。キリスト教は一神教ですから、熱心な信徒であればあるほど異教の神を拝することは信仰上、許されません。

 となると、靖国参拝とはカトリック信徒にとって異教の神を拝する行為なのかどうか、が問われます。司教様はいわゆる神社宗教非宗教論と呼ばれた議論を一貫して展開していますが、問題の核心はそのようなことなのでしょうか。

 たとえば、カトリック新聞、昭和6年12月20日号に掲載された論説「神社参拝の問題」は、満州事変が契機となって、武運長久、戦勝祈願の名目で、神社のみならず、注目すべきことに、仏寺や公会堂などで祭典が行われるようになり、その「強要」について同信者のあいだで論議が起こっていることを説明し、神道形式による参拝の「強要」は信教の自由を保障する憲法に違反するではないのか、と問題提起し、曖昧な態度をとる政府を批判しています。

 「軍人万歳主義の復興は神社参拝問題の復興を伴い来たる。しかしてかの神社神道なるものはあたかも国教でもあるかの印象を新たならしめ……」とも書いているのですが、神社宗教非宗教論はその後、深まりを見せていきます。

 そのような議論の深まりは、かならずしも靖国神社の歴史の専門家ではない研究者の著書からはおそらく見えてこないものと思われます。

□2 昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件


 司教様は次に、昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件を取り上げています。事件は配属将校に引率されて靖国神社まで行軍した学生のうち、信者の学生が参拝しなかったことから大騒動に発展したのでした。

 これについて司教様は、当時、東京大司教の質疑に対して文部省は、「国の求める神社参拝は『宗教的』なものではなく、愛国心と忠誠心を表す『愛国的』なものである」と回答し、これに基づいて、日本の教区長たちは、「国家神道の神社で行われる国家神道的な儀礼に参加すること」を容認、バチカンも1936年の布教聖省指針でこれを追認した、と説明しています。

 さらに、「こうした教会の決定は、残酷な精神的拷問とも言える神社参拝の重荷から信者を解放し、その良心の平和を保証するものとなった」と解説し、ご自身のお姉さんたちが学校での神社参拝から逃れるためにいかに苦心したか、と回想しています。

 まず指摘しなければならないのは、何度も書いてきたことですが、上智大学生事件の本質は何だったのか、です。それが司教様の短いエッセイではかならずしも明らかではありません。

 靖国神社への行軍はいつものとおりの平穏な行軍だったことは当事者の学生が証言しています。このとき参拝を強制されたという事実もないようです(上智大学史資料集)。また行軍は春のできごとでしたが、新聞がかき立て、大事件に発展したのは秋になってからであり、事件の渦中の人である丹羽孝三幹事(学長補佐)によれば、文部省は軍に批判的で、支援者も少なくなかった。「軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのであって、大学はいい迷惑だった」と説明されています(上智大学60年史)。

 当時の上智大学は大学令に基づく大学であり、宗教学校ではありません。構内には祭壇すらなく、全学生300人のうち、信者は35人だったといいます。配属将校が引き揚げ、後任者が決まらない事態となり、卒業生は幹部候補生となる特典を失うなど、学生にとっては深刻で、志望者が減った大学も困難な状況に置かれましたが、宗教的な迫害問題ではないと見るべきです。

□3 非宗教的な国家儀礼として参拝を許可


 とはいえ、信徒にとって神社参拝を信仰的にどう考えるべきかという問題は残ります。前段との関連でいえば、司教様は、神社は宗教にあらず、という議論の延長上で解釈しようとしていますが、不十分です。

 なぜなら教会はこの前後、異教施設での儀礼参加について理論的な発展を見せているからです。

 たとえば、事件があった昭和7年の暮れに発行された田口芳五郎『カトリック的国家観』は「そもそも神社問題は、『神社は宗教なりや否や』という本質論をめぐるものであって」と書き、翌年12月に大学が在学学生諸子ご父兄各位にあてた文書で「(事件は)神社に対する学長の認識の不十分により……神社は宗教と同一視せられざることを了解し……」(上智大学史資料集)と説明しているように、日本側は神社宗教非宗教論に立って議論していたのですが、バチカンは違っていました。

 司教様が言及する1936年の布教聖省の指針「祖国に対する信者のつとめ」は、神社が宗教ではないから参拝してもいいと許可したのではありません。指針にはこう書かれています。

 「政府によって国家神道の神社として管理されている神社において通常行われる儀式は、国家当局者によって単なる愛国心の印、すなわち皇室や国の恩人に対する尊敬の印とみなされている。……これらの儀式が単なる社会的な意味しか持っていなかったものになったので、信者がそれに参加し、他の国民と同じように振る舞うことが許される」

 つまり、指針は、神社が宗教かどうか、という議論をしているのではなく、国家神道の神社での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝との区別を認め、そのうえで非宗教的な国民的儀礼としての靖国神社の儀礼に参加することを許したのです。

 司教様のいう「教会の決定は、残酷な精神的拷問とも言える神社参拝の重荷から信者を解放し、その良心の平和を保証するものとなった」との解説は的外れであり、「神社の祭神を拝む気持ちは毛頭なかった」というお姉さんたちが「苦心」した原因は、聖職者たちが信者にきちんと説明しなかったことにあるでしょう。

□4 みずから宗教法人化した事実はない


 最後に、司教様は、戦後の靖国神社の変化を取り上げ、文部省がGHQの神道指令に基づいて、神社側の同意を得た上で、同社を宗教法人とする方針を決定、改正宗教法人令に基づいて宗教法人として登記した、と解説しています。

 そのことによって、靖国神社は国家から切り離され、信教の自由を享受する一方で、信仰の対象となった。参拝は個人の良心の判断に委ねられるようになった。ただ、カトリック信者にとって、靖国参拝は偶像崇拝だから、唯一神信仰に違反すると考えられる、と述べています。

 これは歴史を歪めた議論といえるでしょう。というのは、司教様はブログのタイトルにも「みずから宗教法人になる」と書いてありますが、靖国神社がみずから進んで宗教法人になった事実はないからです。

 司教様の文章自体、宗教法人に登記したのは文部省であって、靖国神社は「同意」を与えただけのことで、それを「みずから」と解説するのは歪曲といわざるを得ません。ブログには当初、いかなる根拠にもとづいたものなのか、「靖国神社が神道指令に応じなかった」とありましたが、いつの間にか、その記述は消えてしまいました。

 歴史をふり返れば、宗教団体法に代わる宗教法人令が出されたのは昭和20年暮れであり、これが改正されたのは翌年2月です。その附則に「靖国神社は宗教法人令による法人とみなす」とあり、しかも「6カ月以内に地方長官に届出」なければ「解散したものとみなす」とされていました(渋川謙一「占領下の靖国神社」=「神道史研究」昭和46年)。

 つまり靖国神社はみずから進んで宗教法人になったのではなく、「選択の余地がなかった」と見るべきです。司教様の議論は前提が完全に誤っています。したがって、宗教法人になったのだから、偶像崇拝となる参拝を信者はすべきではない、という結論も正しくないということになります。

□5 世界宣教史の視点が欠けている


 結局のところ、司教様が間違った議論を展開しているのは、神社宗教非宗教論という古くさい議論から少しも進歩していないからです。それはとりもなおさず、バチカンの世界宣教の歴史と教学的な進展を学んでいないからではないでしょうか。

 1936年の指針が注目すべきなのは、何度も書いてきたように、その冒頭に「非常に賢明な次の原則を想起することは有益なことである」として、1659年の古い指針を引用していることです。300年前の指針はこう書いています。

 「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しない限り、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」

 「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでない限り、退けたり傷つけたりせずに、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」(『歴史から何を学ぶか』カトリック中央協議会福音宣教研究室編、1999年)

 この17世紀の指針は中国に布教する宣教団に与えられたものでした。中国宣教を開始したイエズス会は画期的な適応政策を編み出し、現地語を用い、現地の習俗・習慣を採り入れ、国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝をも認め、布教に成功し、1692年にはキリスト教は公許されました。

 適応政策をとらないほかの修道会とのあいだで典礼論争が生じ、イエズス会が敗北し、解散させられますが、20世紀になって、適応主義が復活し、日本では1936年に靖国参拝が許され、中国では39年に孔子廟での儀式参加が認められたのです(矢沢利彦『中国とキリスト教』)。同様の宣教方法はベトナムやインドでも採用されたようです(『新カトリック大事典』)。

 司教様は、1936年のバチカンの指針は「残酷な精神的拷問ともいえる神社参拝の重荷から信者を解放し、その良心の平和を保障するものとなった」決めつけていますが、世界宣教史の視点に欠けた議論です。

 異教の神を拝せず、という頑なな態度ならば、宗教間対話は成り立ちません。靖国神社が宗教か否かの議論はともかく、参拝や拝礼と表敬とは異なるのであり、国家儀礼としての敬礼は表敬に過ぎません。司教様のように、「偶像崇拝」としてそれをも拒むのだとすれば、トルコのブルー・モスクを表敬し、祈りを捧げた教皇様は異端分子になってしまいます。

□6 「靖国神社教」などない


 司教様が古くさい神社宗教非宗教論のレベルにとどまっていることは、最近の書き込みから明らかです。そこにはやはり3つのことが指摘されています。

 第1点は、「教会は宗教間対話を大切にしており、各宗教の教えや実践を正しく識別した上でこれを尊重し、その違いに立って対話に臨みます。従って、靖国神社の場合も、先方が自らを宗教と名乗る以上、わたしたちの信仰との違いを無視するわけにはいきません。たとえば、見学や表敬や対話ではなく、それが参拝となれば、それは靖国神社教に対する信仰告白となるでしょう。この場合、意図だけでなく行為自体が問われるからです」という議論です。

 この議論の誤りは、「宗教」とは何か、ということであり、靖国問題を問う場合、その「宗教」論を持ち出すことの妥当性です。

 最初のブログがそうでしたが、神社がみずから選んだかどうかは別にして、司教様は、靖国神社が宗教法人になったから「宗教」だという、じつに単純な論理を展開しています。「宗教」の定義は宗教学者の数ほどあるともいわれますから、その議論に立ち入るつもりはありませんが、少なくともいえることは、宗教法人になっている「宗教」もあれば、そうではない「宗教」もあり、同義ではないということでしょう。

 たしかに靖国神社は戦後、一民間の宗教法人となり、法制度上、それなりの体裁を整えてはいるのでしょうが、教祖・開祖がいるわけではないし、カトリックのカテキズムに比すべき宗教的教義があるわけでも、それを広める人的な宣教体制が備わっているわけでもありません。神社で日々、行われているもっとも重要なことは、あくまで戦没者追悼の祭祀の厳修です。

 司教様がいうような「靖国神社教」などがあるはずもなく、参拝=信仰告白ではありません。そのような曲解した表現は、「宗教間対話が大切」と表明することと完全に矛盾するでしょう。

□7 特定の戦没者だけ祀っている「差別」?


 次に司教様はこう書いています。

 「社会的に見れば、靖国神社に対する内外の評価には互いに対立する多様な意見があり、一致していません。たとえば、1、靖国神社にはすべての戦没者が記念されているわけではありません。千鳥ヶ淵戦没者墓苑には国のために死んだ35万柱の遺骨が納められています。戦争ゆえに国に命を捧げた者は他にもたくさんいます。その意味で、特定の戦没者だけを記念する靖国は差別の象徴とも言えます。2、靖国神社にはかつての国家神道が分離されないまま皇国史観とともに温存されており、先の戦争の負の部分についての反省もなく、その理念は戦争肯定そのもののように見受けられます。国の内外に分裂や対立を生むそんな靖国神社への参拝は、果たして真の平和祈願となり得るかどうか疑問です」

 日本は言論の自由な国ですが、責任あるお立場ならば、十分な根拠をもってものをいうべきです。司教様は「多様な意見」といいつつ、2つの誤解に満ちた意見を紹介するばかりで、検証もしていないのは、どうしたことでしょう。

 靖国神社にはすべての戦没者が記念されているわけではない、という場合の「すべての戦没者」とは誰を指すのでしょうか。千鳥ヶ淵墓苑との比較をなさっていることからすれば、同墓苑の方が多くの戦没者を対象としているとでは仰りたいのでしょうか。同墓苑に納められているのは引き取り手のない遺骨であり、時代的にも「支那事変以降」という限定的な戦没者が対象であることは、少し調べれば分かるはずです。

 特定の戦没者だけを記念するのは「差別」だという発想も、宗教者として相応しいものとは思えません。

 戦前、30年にわたって靖国神社の宮司をつとめた賀茂百樹が昭和7年にラジオ講演をしたことがあります。賀茂宮司が講演することになったのは、この当時、司教様の批判によく似た、神社に対する誤解に基づく批判があったからでした。それは、警察官や鉄道員など、命を危険にさらす職業がほかにもあるのに、靖国神社はこれらの殉職者は対象とせず、軍人ばかり祀っている。偏狭な制度だという誤解でした。

 これに対して、賀茂宮司は「軍人であろうとも、靖国神社には平時の殉職者はまつられていない」と説明しています。八甲田の雪中行軍をはじめ、おびただしい数の殉職者がいるが、いっさい祀られてはいない。日本国民にして国難に殉じたもの、国家危急のときに自分の命を国家の命に継ぎ足したものがまつられるのだ、と説明するのでした。

 戦時の戦死も平時の殉職も同じ死に変わりはないけれども、戦時の戦死や負傷は不意の怪我ではない。覚悟の上の結果であり、その覚悟と結果が合祀の資格となる、というように賀茂宮司は語っているのですが、これは「差別」でしょうか。

□8 陳腐な結論


 靖国神社が「国家神道」「皇国史観」をひきずり、戦争の反省をしていない、という批判も当たりません。司教様がいうように戦後になって「国家神道が解体」し、神社は「宗教法人化」したのであれば、引きずってはいないのであり、逆に、いまさら「皇国史観」を引きずっているとすれば、そのような神社を多くの国民が参拝するはずもありません。また歴史の批判は大いにあるべきですが、それは歴史家の仕事であり、靖国神社の使命は戦没者の慰霊・追悼であって、次元が異なります。

 最後に、司教様は、「ですから、特定の宗教やイデオロギーと結びつかず、万人がすべての戦没者を等しく偲ぶことのできる公的な施設ができることを多くの国民が望んでいると思います」と結論を書いているのですが、じつに陳腐です。

 つまり、靖国神社は特定の宗教なのか、神道は特定のイデオロギーなのか、ということです。靖国神社は日本の宗教伝統から生まれてきたことはたしかで、殉国者を神として祀っているのは近世の義人信仰を引き継ぐものです。幕末になって長州藩は他藩に先駆け、古来の忠臣の氏名などを幕末になって長州藩は他藩に先駆け、古来の忠臣の氏名などを記録し、祭祀を行い、招魂場を建設します。これが国事に殉じた志士を祀る招魂社、さらに靖国神社の源流といわれます(小林健三、照沼好文『招魂社成立史の研究』)。

 だとすれば、靖国神社は特定の宗教の流れをくむ特定の宗教なのでしょうか。神社神道ということでいえば、皇室の祖神をまつる私幣禁断の社である伊勢神宮と自然崇拝の神社ではまるで違います。信長を祀っている神社もあれば、家康の神社もあります。稲作信仰の神社もあります。本殿のない拝殿のみの神社もあります。神社という点では共通しますが、信仰の内容は特定の宗教というには多宗教的、多神教的であって、あくまで他の信仰体系と区別する意味で神道と呼ばれているにすぎないと見るべきなのでしょう。

 靖国神社でいえば、信仰の対象とし、さまざまな祈願を行う熱心な信者もいるでしょうが、神社が行っているのはあくまで国家的な祭祀であり、その祭祀の形式が神道祭祀に依拠していると見るべきではないのでしょうか。それは神道が日本の民族宗教だからに過ぎません。

□9 キリスト教世界の方が遅れている


 一方、キリスト教の教義は死者の慰霊・鎮魂とは元来、無縁のはずです。たとえば、亡父の葬儀に出席しようとした弟子に、イエス・キリストは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(マタイ8/22)と語っています。信仰をもたないものは「死人」同然だという発想です。

 カトリック信徒でもある渡部昇一教授の『アングロサクソンと日本人』には、次のような逸話が載っています。のちに聖ボニファチウスと呼ばれるようになる宣教師が8世紀初頭、いまのオランダ周辺でキリスト教を布教したときのこと、教えに共鳴して受洗したラードボードという酋長がこう尋ねたのでした。

 「われわれは死んだら天国に行くが、入信せずに死んだ親はどうなるのか?」

 宣教師が答えます。「洗礼を受けなければ天国には行けません」。酋長は憤然として「乞食坊主の話を聞いて損をした。地獄だろうと何だろうと、オレは先祖のいるところに行く」と語り、宣教師を追放したのです。

 司教様は注意深く「戦没者を記念」と書いていますが、祖先崇拝を拒否してきたキリスト教では、受洗者の場合も、「記念会」は故人の神の恵みを称え、神の栄光を仰ぐことが目的であり、故人を拝礼することはあり得ません。当然、遺影などを拝することは認められません。ましてキリスト者が異教徒の死者を慰霊することは唯一信徒への信仰とはまったく次元が異なることといわなければなりません。

 遺骸の埋葬地に墓碑を置き、拝礼の対象とするという発想のないキリスト教ですが、靖国神社の創建から遅れること約半世紀、イギリスでは多くの人命を失った第一次大戦後、「The Glorious Dead」と刻まれた石造りの戦没者追悼記念碑セノタフが完成し、翌年にはアメリカのアーリントン墓地に無名戦士の墓が築かれました。そして、このころからイギリスやアメリカ、さらに国際機関で行われるようになった黙祷は、明治天皇の御大葬で、交通機関を停止させ、市民が捧げた静かな祈りときわめてよく似た儀礼でした。

 それぞれ宗教的背景は異なるのに、同様に記念碑を建て、たとえばイギリスでは戦没者追悼式典でカンタベリー大主教による短い宗教儀式も行われます。司教様が主張するように、特定の宗教やイデオロギーと結びつかないことが望ましいなら、イギリスもそのようにすべきでしょうか。

 いや、実際、イギリスでも、アメリカでも、多宗教化が進み、たとえばアメリカの同時多発テロの直後、ワシントン・ナショナル・カテドラルで行われた追悼式典では、キリスト教だけではない、諸宗教の祈りが捧げられました。このような現象は一神教世界ではつい最近のできごとですが、多神教的、多宗教的文明を形成してきた日本では100年以上も前から行われてきました。日本の宗教伝統を「特定の宗教・イデオロギー」と決めつける人には、悲しいかな、それが見えないだけのことです。

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