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宗教的多様性に積極的に関わるアメリカ国家。諸宗教の代表者が祈りを捧げた「同時多発テロ」から9年目の追悼式典──世界から取り残される日本の政教分離政策。価値多元性の容認は日本こそパイロットランナーであり、宗教的共存こそ天皇の原理なのに(2010年09月13日)

(画像はワシントン・ナショナル・カテドラル。同HPから拝借しました)


佐藤雉鳴氏の教育勅語論をめぐって、現代を代表する宗教学者、島薗進東大大学院教授と佐藤氏との静かな論争が終わりました。

穏やかながら、じつに内容の濃い、多くの示唆に富む議論だったと思いますが、読者の皆さんはどのようにお読みになったでしょうか? ご感想などあれば、お寄せください。

 ついでながら、ぜひお願いしたいのは、このようなテーマを一般のメディアも取り上げてほしいということです。以前は、朝日新聞発行の「論座」のように、地味でも、載せる価値があると判断すれば、意欲的に掲載してくれる媒体がありましたが、休刊してしまいました。残念なことです。


◇1 諸宗教の代表者が祈りを捧げた


 さて、9.11同時多発テロの犠牲者を悼む追悼式が行われました。グラウンド・ゼロ近くにモスクを建設する計画をめぐって激しい議論が行われる、厳戒態勢下の式典だったと伝えられます。

 フロリダ州のある牧師は追悼式当日にコーランを焼くことを宣言し、のちにこれを撤回しましたが、社会を翻弄したうえに、イスラム世界などから猛反発を買いました。

 日本のあるメディアは、イスラムを悪魔視する牧師夫婦を「特異な人物」のように報道しています。日本人の常識ではその通りですが、逆に、この夫婦こそ、「あなたには私のほかに神があってはならない」「全世界に行って福音を述べ伝えなさい」という一神教の教えを守る、忠実なキリスト教徒であるともいえます。

 むろん9年前の同時テロがイスラムの犯罪と単純化することはできませんが、一神教の熱心な信仰者であればこそ、異教を過度に意識し、布教というかたちで圧迫を加え、攻撃的、好戦的に排除しようとします。であればこそ、国民の信教の自由を保障するために、国家に宗教的中立性を求める政教分離政策も必要になります。

 しかしキリスト教世界も変わりました。かつては異教文明を侵略し、殺戮と破壊の限りを尽くした時代は過去になりました。同時多発テロの三日後、ワシントン・ナショナル・カテドラルでは、ホワイト・ハウスの依頼を受けて、追悼ミサが行われ、諸宗教の代表者が祈りを捧げたことはきわめて象徴的です。

 厳格な政教分離主義の御本家と目されるアメリカですが、同政府は国家の宗教的無色中立性を追求するのではなく、宗教的多様性の容認に積極的に関わろうとしています。

◇2 世界から取り残される日本の政教分離政策


 今回も、ブルームバーグ市長は「あの悲劇はこの町に深い傷を残したが、同時にこれだけの愛と連帯感に満ちた場所もない」と演説しました。オバマ大統領は「多様で寛容な国家」を強調したと伝えられます。

 キリスト教世界では、建国の理念ともなっている一神教原理を抑制し、諸宗教の対話と協力を国家的に推進することが当たり前の時代になってきました。

 いやキリスト教世界にとどまりません。オーストラリア政府が主催した、インドネシア・バリ島爆弾テロ一周年の追悼式でも各宗教の代表者が祈りを捧げています。

 このような宗教的多様性、価値多元性の容認は、日本こそパイロットランナーであって、古来、当たり前のこととして行われてきました。歴代天皇は各地の社寺に勅使を遣わし、供え物をささげてきました。宗教的共存こそ天皇の原理であり、日本そのものです。

 ところが、いまは逆に、世界の動きから取り残されつつあるように私には見えます。その典型例が空知太神社訴訟や白山比咩神社訴訟の最高裁判決だと考えます。天皇統治の原理、日本の宗教伝統、国家神道についての誤解、曲解がその背景にあることは間違いありません。

 二千年以上の歴史を持つ全国的な神社を観光資源におとしめ、式年大祭を観光イベントと言い張るのが白山比咩神社訴訟の最高裁判決でした。祖先たちが築いてきた多神教的、多宗教的文明を、最高裁は否定しようとしているかのようです。その姿勢こそ、憲法の政教分離原則に抵触するのではないか、信教の自由を侵すことになるのではないか、と恐れます。


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