見出し画像

電気釜は世界を変えるか──エジソンを超えた日本独自の発明品(「神社新報」平成7年3月13日)

(画像は東芝が開発した自動電気釜。川崎市HPから拝借しました。ありがとうございます)


京都府八幡市・石清水八幡宮(田中弘清宮司)の境内の一角にスマートなデザインの「エジソンの碑」が置かれている。

エジソンの碑@石清水八幡宮HP


「発明王」トーマス・エジソンが7600種類の素材の中から男山の真竹を選び出し、竹の繊維をフィラメントにして白熱電球の実用化に成功したのは、100年以上も前の明治13(1880)年。八幡竹は“電気の時代”の幕開けをもたらすと同時に、以来、タングステン・フィラメントが開発されるまでの30余年間、世界の人々の暮らしを明るく照らし続けた。碑はその功績を称えて、男山に建立された。

エジソンの発明から10年後、日本ではじめて白熱社(現東芝)が同じ男山の真竹を使って白熱電球を製造した。川崎市幸区の東芝科学館のエントランスにはエジソンゆかりの八幡竹が植えられ、清楚な趣を与えている。

一新された東芝未来科学館


その東芝は40年前にエジソンにも思い及ばない日本独自の発明品を生み出した。それは自動電気炊飯器である。

▢戦後最大のヒット商品
▢台所に電化革命をもたらす


後年、「暮しの手帖」の花森安治氏が「政府がまっ先に勲章を与えるべきなのは、インスタントラーメンを考えた安藤百福さんと電気釜を開発したキミだ」と賞賛した山田正吾さん(78)が東芝に入社したのは、昭和16年のことである。

山田正吾さん


最初は人事部に配属された。戦中から戦後にかけての日本製品は外国の真似ごとが多く、品質も高くなかった。

「技術者は何をしている。技術のギは模擬の擬か、詐欺の欺か、といって恨まれ、新設された開発課長として新製品を担当することになった」

歯に衣着せぬ江戸っ子のベランメエが門外漢の山田さんを技術畑に引きずり込んだ。

昭和25年、東芝はあらゆる電気製品を開発して、街の電気店を東芝製品で埋め尽くす「全点供給」の方針を打ち出す。電気釜は新製品リストの25番目に載っていた。

電気釜の開発は大正年間に始まる。家庭用電熱が大正3年に許可されて以降、京都電灯(現関西電力)や三菱電機がこの難問に挑んだが、製品はいずれもお釜と同じように手間がかかり、成功とはいえなかった。業界には「釜は売れない」というジンクスさえ生まれた。

竈で薪を燃やし、羽釜でご飯を炊く──かつては当たり前の光景であったが、主婦たちにとってコゲやムラができないように炊くことは一苦労だった。

「誰でも失敗せずに美味しくご飯が炊けるような電気釜を開発すれば、女性の家事労働を軽減できる」

両親が高齢で、子供のころから母親の仕事を手伝ってきた親思いで、フェミニストの山田さんは意気込んだ。

まず考えたのは、これまでの開発がなぜ失敗したのかということだった。

「電気の技術者というのは、ご飯が炊けたら電気を切ることばかりに目を向けてきた。ご飯が炊けるというのは米の主成分のベータ・デンプンがアルファ化(糊化)することだという食品化学を知らなかった」

実験が始まった。文献によれば「米を摂氏55〜58度に保つとアルファ化が起こる」はずだが、当時、開発されたばかりの電子顕微鏡で見ると、糊化は一部にしか起こらない。実験を繰り返して、①98度で約20分保つとアルファ化が完了する、②73度にするとアルファ化が元に戻らない、③120〜125度で永久アルファ化が起きて、乾燥餅ができる──ことが確かめられた。

温度を100度近くまで上げて、20分で電気を切るだけなら、タイムスイッチを使えば良いのだが、外気温度や米の水分含量によっては上手くご飯が炊けない。しかも温度センサーの精度がいまほど高くはなかった。

そこで内釜と外釜との間に20分で蒸発する一定量の水を入れる方法を思いついた。水が蒸発すればサーモスタットが作動する。何百キロもの米を炊き損じた末に、間接三重構造の自動電気釜は完成する。

しかし会社は相手にしてくれなかった。

「タイム・スイッチを併用すれば、寝ているあいだにご飯が炊ける」と重役会で説明したところ、「キミは寝ていてご飯を炊くような女房をもらいたいのか」と叱られた。新製品の開発は古い社会常識との闘いでもあった。

「東京や大阪のインテリの“アパート族”にしか売れないようなものを作りおって。責任をとれ」。結局、普及課に移って、自分で売らされる羽目になる。

山田さんはふたたび考えた。電気釜が売れれば、電気の需要もあがる。電力会社と提携販売すれば……。

こうして実演販売が全国展開され、みずから各地をまわった。

発売の開始は30年12月。最初は3000台の限定生産のはずだった。ところが会社の予想に反して、神武景気という神風に乗って、都会でも地方でも飛ぶように売れた。月間15万台を生産しても需要に追いつかないほどで、「電気釜を置いていない電気店は商売にならなかった」。

38年までの生産台数は500万台に達した。電気炊飯器は戦後最初にして最大のヒット商品となり、日本の台所に電化革命をもたらした。

「嫁いで以来、ご飯の炊き方で文句を言われ続けてきましたが、これで小言を言われなくて済みます」。台所仕事のつらさから解放された主婦たちの喜びと感謝の声が殺到した。

▢世界で年間2000万台
▢パネルに韓国語、説明書はポルトガル語


電気釜はいまや世界の五大陸すべてに供給されている。『国際需給統計』(日本機械輸出組合)によれば、平成4年の電気釜の需要は世界全体で2093万4000台、市場規模は約12億ドルに上る。

群を抜くのは、中国(1000万台)、日本(620万8000台)、韓国(142万5000台)。3か国で全体の84パーセントを占める。次にタイ(90万台)、アメリカ(68万1000台)、台湾(42万7000台)、香港(41万2000台)が続く。オセアニア(4万3000台)、西ヨーロッパ(3万5000台)、中東(3万1000台)、中南米(1万台)にも一定の需要がある。

台湾では30年代から日本製品のコピーが生産されていたが、最近は中国、韓国、東南アジア各国で生産・輸出されている。松下電器は東南アジアのほかにイランやインドにも生産拠点を置く。

日本からは「かつてはビジネスマンが海外赴任のおりに国外に持ち出す」程度であったが、「ここ10年、保温機能を備えた、より付加価値の高い炊飯ジャーが年間30万台以上、各国に輸出されている」(タイガー魔法瓶貿易部)。

マイコン内蔵で「はじめチョロチョロ、なかパッパ……」の微妙な火加減も可能になり、おコゲ機能がついたり、おこわやお粥が炊けるように、格段の進歩を遂げた炊飯ジャーは「東南アジアの中産階級、アメリカやヨーロッパの東洋系住民を中心に利用されている」。

東京・秋葉原の免税店では、操作パネルに英語や中国語、ハングルが表記された炊飯ジャーがずらりと並ぶ。ブラジル向けにポルトガル語の使用説明書が用意され、ロシア語のパンフレットも備えられている。

アジアの稲作文化圏に属する人々の経済活動が世界的規模で盛んになるに従って、電気釜や炊飯ジャーは急速に普及し、日本人好みの白米のほか、中国では八宝飯や紅米飯、ロシアではカーシャ(お粥)の調理に使われているらしい。

▢「湯取り法」が姿を消す?
▢世界の食文化に変革の兆し


ご飯の炊き方には、日本のような「炊き干し法」のほかに、「湯取り法」「湯炊き法」などがある。

中国南部や東南アジア、南西アジアでは、たっぷりの水で米を煮たあと、重湯を捨てて水気をなくす「湯取り法」が伝統的な炊き方だが、メーカー側は「いずれこの地域では『湯取り法』が姿を消し、電気釜が取って代わる」と大胆に予測する。

バングラデシュで見た湯取り法


大妻女子大学の瀬川清子氏(民俗学)によると、以前は日本でも「湯取り法」が幅を効かせていたという。糊取り笊でくみ出した重湯は馬に与えたりした。しかし電気釜の普及で姿を消してしまったらしい。

とすると、やがてアジアの人々は、同じ釜の飯ならぬ同じ釜で飯を食うようになるのであろうか。

そして、インディカ米を「湯取り法」で炊き、トルカリ(カレー料理)にして食べるインド世界では、インド風の使い方がされ、おこげ料理の好きなイラン人にはおこげ機能が喜ばれる。

他方、アメリカ人は蒸したりなど、マルチ・クッカーとして利用しているようだが、パエリャのように米を油で炒めたあと、肉や魚介といっしょにオーブンで調理し、鍋(パエリャパン)ごとテーブルにセットするヨーロッパ人への普及はそれほどでもない。文化の壁を打ち破るのはやはり簡単ではない。

京大名誉教授の渡部忠世氏(作物学)によれば、日常的に米を食している人口はじつに56パーセント、小麦を食糧とする人口の3倍以上におよぶという。純然たる日本の発明品である電気釜が、もしも民族固有の伝統や文化を越えて、さらに世界的に普及していくとすれば、米を炊くという世界の食文化に一大変革が起こるかも知れない。ちょうど京都・男山の八幡竹が世界の暮らしを変えたように……。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?