愚かしいダイオキシン「過剰規制」──焚き火もできない「猛毒」扱い(雑誌「選択」平成15年11月号)
(画像は神社で行われる火祭り神事)
全国各地に約8万社ある神社の境内などで、おもに1月15日の小正月に「どんと焼き」「左義長(さぎちょう)」とよばれる火祭り神事が行われます。各家庭の神棚に1年間お祀りした伊勢神宮と氏神様のお札などをお宮にお返しし、お焚き上げするのです。
どんと焼きの火は年神様の送り火であり、空高く立ち上る白煙や灰は人々の災厄を祓い、浄化する、と信じられてきました。人々の健康と地域の安寧を祈りつつ、生命の循環・連鎖を確認する古きよき伝統行事です。
1、間違いだらけの「ダイオキシン法」
ところが、ここ数年、とくに昨年(平成14年)来、この神事が粛々と行えない事態が持ち上がっています。「どんと焼き」ばかりではありません。とくに市街地の神社では、鎮守の杜の落ち葉を焚き火で燃やすことすらできなくなっています。原因は、ものの燃焼にともなって発生するといわれる「史上最強の毒物」ダイオキシンに対するきびしい法規制にあります。
ダイオキシンによる環境汚染がにわかに社会問題化したのは、平成7年ごろです。「毒性はサリンの2培。青酸カリの千倍」「人工物質で、おもに塩素系プラスチックの焼却から生まれる」「強い発ガン性がある」などとする科学者たちの警告がきっかけでした。マスコミ報道で国民の恐怖心はいやが上にもあおり立てられ、9年秋、学校のゴミ焼却炉は文部省(当時)通達で使用禁止・廃止とされ、塩ビ業界は社会的に指弾されました。
11年には埼玉・所沢市のダイオキシン騒動と前後して、公明党や民主党がダイオキシン対策法案を国会に提出し、社民党議員の働きかけで与野党国会議員200余名からなる超党派の議員連盟が設立され、同年7月には「ダイオキシン類対策特別措置法」が制定されました。
同法第1条には「人の生命および健康に重大な影響を与えるおそれがある物質」と物々しく表現されています。「製鋼用電気炉、廃棄物焼却炉その他の施設」に規制の網がかけられ、自治体も民間処理業者も、違反者は懲役・禁固刑などの厳罰に処せられることになりました。
さらに12年6月には「廃棄物処理法」が一部改正され、16条の2「何人も廃棄物を焼却してはならない」が付け加えられ、13年4月に施行、昨年(14年)12月から本格適用されました。野外焼却は原則禁止とされたほか、ダイオキシンの発生をゼロに近づけるため燃焼ガスが800度以上になるよう燃やす、高温を保つための助燃装置がある、煙突から火炎や黒煙が出ない──などの法定基準を満たさない焼却炉は使用禁止とされました。
「耐容1日摂取量」が「体重1キロあたり4ピコグラム以下」(1ピコグラム=1兆分の1グラム)とされる「猛毒」への恐怖は、全国の自治体を最新鋭の清掃工場の建設・改修に駆り立てました。
大型焼却炉の新設には1基何十億、何百億という巨費を要し、これを全国展開させると国家予算の半分近い40兆円もの予算が必要になるとの試算もあります。他方、製品が「違法」になってしまった小型焼却炉メーカーは軒並み倒産しているといわれます。
むろん巷間流布されているように、ダイオキシンが「猛毒」だというのなら致し方はありません。ところがそうではないようなのです。驚いたことに、最近では「話題にするのもバカらしいほど、何でもない物質」と主張されるようになってきました。
今年(平成15年)1月に出版された、東大生産研の渡辺正教授と目白大学の林俊郎教授の共著『ダイオキシン──神話の終焉』は、ダイオキシンは「3億年前から存在する天然物」で、「山火事でも発生する」。「塩ビ主犯説」も誤りで、「ダイオキシンの源は過去に使われた未分解の農薬」だから、「焼却炉対策に意味はない」。「毒性はサリンの2培」は、モルモットの実験データを意図的に人間に当てはめた「数字いじり」。ダイオキシンに弱いモルモットのデータをかりに人間に当てはめたとしても、人生10回分の食べ物を「一気食い」しないかぎり、急性中毒で倒れることはない──とことごとく「常識」をくつがえしています。
両氏にしたがえば、「人の活動にともなって発生する化学物質」「本来環境中には存在しない」などと規定するダイオキシン法は間違いだらけ、ということになります。
それかあらぬか、たとえば環境省環境管理局総務課ダイオキシン対策室が発行する関係省庁共通パンフレット「ダイオキシン類2003」などでは、「ものの焼却の過程などで自然に生成してしまう」「通常の生活における摂取レベルでは健康に影響は生じません」、とこれまでとは表現が一変しています。
あれよあれよという間に、他国に例を見ないようながんじがらめの法規制が作られ、ダイオキシン対策に突き進んできたのは、いったい何だったのでしょうか。
愚かしいのは、神社のどんと焼きやお焚き上げ、さらには各家庭の焚き火までがほとんど不可能になっていることです。庭先で焼き芋すら焼けません。しかも、じつは廃棄物処理法および同施行令は「宗教上の行事」「焚き火」などを法規制の「例外」として、容認しています。にもかかわらず規制されるのは、ダイオキシン法が一部の「環境マニア」のいびつな「正義感」に火をつけたからのようです。
2、日本古来の火祭り神事まで封殺
京都市内のある神社では、「境内で落ち葉焚きをしないように」とたびたび強硬な行政指導を受けました。基準を満たす焼却炉で焼却するか、「事業系ごみ」として清掃工場に自己搬入するか、指定業者に処理を委託せよ、というのです。しかし最新鋭の焼却炉はきわめて高価だし、処理を業者に頼んだとしても無料ではありません。
神社側は「市は生け垣緑化など緑の町づくりを助成しながら、落ち葉の処理は有料だという。そもそも神聖な鎮守の杜の落ち葉を『ごみ』扱いするのは納得できない」と憤ります。
一方、京都市環境局は「周辺住民から『臭い』『洗濯物に灰がつく』という苦情がある。住民には『違法ではない』と説明している。神社仏閣には『周辺との調和を考慮して自主的に判断できないか』とお願いしている」と弁明します。
しかし行政に望まれるのは、国民の命と生活を守るために正しい情報を提供することであって、無用の不安をあおることではありません。まして結果として宗教活動に介入するかのような規制を行うことではないでしょう。
ダイオキシン騒動が起きた所沢の市議会で、「冷静になるように」と科学的根拠に基づいて訴えてきた深川隆元市議は語ります。「8年前に騒動が起きかけていたドイツのボン市を訪れ、行政担当者の話を聞いたところ、『ダイオキシンは騒ぎ過ぎ。バグフィルターを付け替えれば十分で、巨大焼却炉の新設は必要ない』といわれた」。
各地で進むごみ処理工場の建設には談合疑惑が絶えませんが、投じられる巨額の税金は、構造不況のただ中にあるゼネコンを延命させているというより、むしろアメリカの研究者や企業などに支払われる特許料に消えるともいわれます。
深川氏が怒り、また心を痛めるのは、ダイオキシン問題の背後に滅び行く日本の姿を見るからです。「お焚き上げには、清浄さを追求する日本古来のすばらしい哲学がある。そのお焚き上げで命を落とした人がいるだろうか。逆に清らかな気持ちになる。千年、二千年と続いてきた知恵を、他人の尻馬に乗って批判するのは愚かである」
環境行政が推進する循環型社会の理念は、自然を畏敬し、自然と共生する日本人の伝統的自然観そのものであり、だとすれば、今日の地球環境問題を解決する処方箋はわが祖先たちが大切に守ってきた鎮守の杜にこそある、ともいえますが、物質文明に飼い慣らされ、科学信仰に流れやすい現代人はなかなか思い至らないようです。
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