人間が神をつくるのではない──国に一命を捧げたゆえに祀られる(2006年4月30日)
(画像は靖国神社)
◇毎日が伝えた「筑波宮司の側近の証言」
毎日新聞はきのう、靖国神社の元広報課長(81歳)らの証言をもとに、終戦直後からA級戦犯合祀の直前まで旧皇族の筑波氏が宮司の地位にあった時期、同社が「A級戦犯の合祀を意識的に避けていたことが明らかになった」ことを一面で伝えました。そして、きょうは「東京裁判」をテーマとする4ページにわたる特集面に、元広報課長のインタビューの詳報が載っています。
インタビューの中で、元広報課長は、A級戦犯の合祀について、筑波氏が「(いつか)おまつりする。だけど、僕たちが生きている間は無理だろう」と述べたこと、その理由については、「宮内庁の関係もあるし」と説明したこと、その後、神社の総代会で合祀の方針が決まったが、宮司預かりとなり、筑波宮司の死後、後任宮司のもとで合祀が急いで進められたこと、などを語っています。
「宮内庁の関係」をめぐっては、合祀の上奏簿を同社の権宮司が宮内庁に提出したとき、宮内庁の担当者が「こういうお祀り方をすると、お上(天皇)のお詣りはできませんよ」とはっきりいったそうです、とも述べています。
きのうの記事では、元広報課長の証言のほかに、筑波宮司の子息によると、筑波宮司は「BC級戦犯は一般兵士と同じ犠牲者だが、A級戦犯は責任者だ」と述べ、慎重姿勢を終生、変えなかった、と伝えられています。
◇中身に目新しさはない
筑波宮司がA級戦犯合祀に慎重だったことについての子息の証言は、毎日新聞のこれらの記事以外に、昨年11月2日付の東京新聞が報道しています。東京新聞の記事では、「戦争の犠牲者の合祀が終了してからあらためて考えたい」と語っていた、と伝えられています。
東京新聞の記事はまた、1966年に旧厚生省が東条元首相らの祭神名票を神社に送付し、70年の総代会で一部の総代が強硬に主張して合祀の方針が決まったものの、合祀の時期について、筑波宮司が「宮司預かりにしてほしい」と要望し、在任中の合祀は行われなかった、と伝えています。
したがって、今回の毎日新聞の記事は、「筑波宮司の側近の証言」を引き出した功績は大きいでしょうが、内容的にはとくに目新しいものはないといえます。A級戦犯合祀を昭和天皇の行幸が「途絶えた」ことと結びつける発言も含まれていますが、憶測に過ぎず、宮内庁担当者の発言もあくまで伝聞です。
合祀に慎重だったはずの靖国神社がなぜ一転して合祀に踏み切ったのか。A級戦犯合祀をめぐって靖国神社内で何があったか、については、いずれまとめて書きたいと思いますが、きょう、ここで申し上げたいのは、「神をまつる」ということの意味についてです。
◇「靖国の神」とは何か?
毎日新聞の記事がA級戦犯合祀の事務的経緯についてふれているように、靖国神社の合祀には創建以来の厳格な事務手続きがあります。けれども、事務手続きによって「神」がつくられるのではありません。人間が神をつくることなどできるはずもありません。
靖国神社の祭神は、国の非常時にかけがえのない一命を捧げたというただ一点において、まつられています。生前の位階勲等とは無関係に、男女の区別もなく、思想信条の区別もありません。祭神数は246万余柱ですが、「靖国の神」として、あたかも一柱の神のごとく、一座に鎮まっています。生前は生身の人間だった個々の祭神が、「靖国の神」なのではないということでしょう。
「靖国の神」とは、国家の危機に、私を去って、公に殉ずるという精神を指すのではないでしょうか。国のために命を捨てる、などということは簡単にはできません。であればこそ、その精神が神と称されるのであり、「靖国の神」は神社の創建以前から日本人の心の中に存在してきたのだと思います。
政府や神社の事務手続きによって神が生まれるのではないということは、人間による合祀の経緯を明らかにすることは大して意味がない、ということになります。神は神であり、人間が「合祀」したとしても、もともと「神」にあらざるものは「神」とはいえないからです。
A級戦犯の合祀は、前にも書きましたが、日本政府が戦争裁判による刑死を公務死と認めたことに端を発します。けれども、今回、毎日新聞が明らかにしたように、靖国神社自身は合祀に慎重でした。そして、合祀後も靖国神社が「戦争犯罪人」を神とあがめているのではありません。
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