見出し画像

どこが皇室の伝統の尊重なのか──賢所の儀の途中で朝見の儀が行われる!?(平成30年3月15日)


 前回、言い尽くせなかったこと、正確でないことがありましたので、補足します。

 まず、陛下の退位(譲位)の式典に関する政府の基本的な姿勢です。

▽1 「何らかの儀式」を行う法的根拠


 陛下の退位の日取りが二転三転したのは、何らかの儀式が想定されていたからです。昨年12月の皇室会議で「国民生活への影響等を考慮」「静かな環境の中で、こぞって寿ぐにふさわしい日」「慌ただしい時期は避ける」などという意見が示されたのは、改元のためだけではあり得ません。

 元日は日程がたて込むとか、4月は人事異動や統一地方選挙があるとか、いっても、単に年号が変わるだけなら何の支障もありません。国民の代表者たちが参加する御代替わりの儀式が想定されるからこそ、「4月30日」が選ばれたはずです。

 そして「関連する式典の準備を総合的かつ計画的に進めるための基本方針を検討するため」(1月9日閣議決定)に、準備委員会が設置されたのです。

 ところが、政府の説明では、「何らかの儀式」の検討は、「政府の検討の当初から」が「式典準備委員会設置以後」に「書き換え」られています。ちょうど今回の退位(譲位)が「陛下のご意向で」から「国民の総意に基づいて」に、日本国憲法の国民主権主義的にリセットされたように、です。「書き換え」の悪癖は行政全体に蔓延しているのでしょうか。

 論より証拠、第2回式典準備委員会の冒頭、菅官房長官は次のように挨拶しています。

「(第1回の会議で)何らかの儀式を行うことが望ましいとの意見があったことなどを踏まえ、天皇陛下の御退位に伴う式典、天皇陛下御在位三十年記念式典、文仁親王殿下が皇嗣となられることに伴う式典について議論を行い、委員会としての考え方をまとめていきたい」

 なぜこんな矛盾した説明がなされなければならないのか、要するに、退位の式典を挙行するための法的根拠がないということのようです。皇室典範と一体のものとされる退位特例法は、陛下の退位と皇太子殿下の即位を実現し、その日付の法的根拠とはなり得ても、儀式の法源とはなり得ないのでしょう。

 なぜそうなのか。突き詰めていえば、明治人たちが作り上げた旧皇室典範を頂点とする宮務法の体系が日本国憲法施行とともに全廃されたのち、それらに代わる法体系がこの70年間、整備されてこなかった、そのツケがここに現れたということかと思われます。まして、退位(譲位)は近代以降、法的に認められてこなかったのです。

 とくに宮中祭祀は、敗戦後の占領期、いわゆる神道指令下ゆえに、日本政府は祭祀が「皇室の私事」とされることに強い疑義を覚えながらも、占領者に抵抗することができず、いずれきちんとした法整備を図るという方針を胸に秘めつつも、ついに実現することはできませんでした。

 それどころか、混乱期の一時凌ぎであったはずの依命通牒第3項「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理する」(昭和22年5月3日)が、昭和50年の夏、あろうことか側近中の側近たちによって人知れず解釈変更され、空文化されたのでした。

依命通牒起案書


 依命通牒は「現在まで廃止の手続はとっておりません」(平成3年4月25日、宮尾盤次長国会答弁)とのことですから、第3項を法的根拠とし、旧皇室令に準じて事務処理することも可能のはずですが、堂々と掲げるのはいまさらということでしょうか。

 依命通牒を「破棄」した宮内官僚たちがつくづく恨めしく思われます。無神論者を自任したという、のちの宮内庁長官はいったい何をしたかったのでしょうか。

▽2 賢所での儀式は3日間続く


 もう1点は、践祚の日程です。前回、私は、5月1日に退位の礼から剣璽等承継の儀(剣璽渡御)、即位(践祚)後朝見の儀まで、連続して挙行したらどうかという提案を試みましたが、じつはそうはいかないのです。

 それには御代替わりに伴う祭祀が関係しています。今回の政府・宮内庁による検討は、有識者のヒアリングも含めて、天皇の祭祀に対する配慮が皆無といえます。これで皇室の伝統の尊重などと胸を張れるでしょうか。

 旧登極令(明治42年2月11日)は附式に、践祚の式として、賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀、剣璽渡御の儀、践祚後朝見の儀を定め、このうち宝鏡が祀られる賢所での儀式は「3日間」とされています。

登極令枢密院御飯 下付案@アジア歴史資料センター


 過去の例では、前回、書いたように、昭和の御代替わりでは、『昭和天皇実録』によると、大正天皇が葉山御用邸で崩御されたのち、直ちに皇太子(昭和天皇)が践祚になり、その約2時間後、宮中三殿では賢所の儀が行われ、同じ時刻に葉山では剣璽渡御の儀が行われました。

 宮中三殿では続いて、皇霊殿神殿に奉告の儀があり、また賢所の儀は翌日、またその翌日と続き、践祚後朝見の儀は賢所の儀が終了した翌日でした。皇祖神ほか天神地祇へのご挨拶が優先されるのは「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄」)とする皇室の伝統精神ゆえでしょう。

禁秘抄@京都大学


 平成の御代替わりでは、『平成大礼記録』(宮内庁。平成6年9月)によると、昭和天皇崩御の1時間半後、賢所の儀、続いて皇霊殿神殿に奉告の儀が行われ、さらにその2時間後に、宮殿で剣璽等承継の儀が行われました。即位後朝見の儀は3日間の賢所の儀が終わったその当日でした。

 今回はどうなるのか、官邸も宮内庁も宮中祭祀を敬遠しているのか、関連する情報はまったく聞こえてきません。

 4月30日の午後12時をもって践祚とされるのなら、ひとつの考えとしては、それからなるべく早い時間に賢所の儀は行われるべきでしょう。その場合、諒闇中ではないのですから、親祭が望ましいということにもなります。

 というより、賢所でのご挨拶が済んでいない前日の4月30日に、人間の世界で退位の礼を挙行するのは「神事を先にす」の原則に反しませんか。退位の表明は5月1日に剣璽渡御の儀と合わせて行う方が、皇室の伝統に沿うのではないでしょうか。

 3日間の賢所の儀のあとに設定されるべき朝見の儀も同様ですが、今回の式典準備委員会のヒアリングでは、公表された資料によると、じつに驚くべきことに、「平成の式典は中1日を空けたが、今回は必要ない」(石原信雄氏)、「同日に行われることがふさわしい」(園部逸夫氏)、「5月2日の昼間がふさわしい」(所功氏)という意見が出されたようなのです。

 東大史料編纂所の本郷恵子教授だけが、「平成の儀式は、基本的に踏襲してよいものと思われる」と何とか踏ん張っています。

 有識者たちでさえこんなお寒い状況なのに、政府が皇室の伝統を尊重することなどあり得るでしょうか。保守長期政権よ、頑張れ、と謹んで申し上げます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?