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アンコール遺跡修復に明治の土木技術──発明した服部長七の敬神愛国(「神社新報」平成16年2月9日号から)


(画像は岩津天満宮HPから拝借しました。ありがとうございます)


 カンボジアのアンコール遺跡は、高い文化的価値が認められながらも、崩壊の危険が指摘されてきた。ユネスコが救済に乗り出したが、貴重な文化遺産の保護には日本をはじめ国際協力が欠かせない。

 しかし、遺跡修復に明治時代に発明された日本の土木技術が応用されてゐることはほとんど知られてゐない。発明者が母親譲りの熱心な敬神家であったことも……。

 日本政府の遺跡救済チームが遺跡修復に採用したのは、「長七たたき(人造石)」といふ技術だ。修復といふからにはもとの技術を再現したい。コンクリートでは空気に触れて劣化する。けれども「長七たたき」なら、逆に空気を吸って強度を増し、100年経っても壊れないからである。

「たたき」は古くからある左官技術で、消石灰とサバ土(花崗岩が土壌化したもの)を混ぜ、水で練って叩き固める。土間や床下などに広く使はれるこの技術を明治時代に改良し、コンクリート工法が普及するまでの過渡期に、大規模な土木工事に応用したのが愛知・碧南出身の服部長七だった。

▽1 天神さまのお告げ


 江戸末期に左官屋の3男に生まれた長七だが、維新後、上京して日本橋で饅頭屋を営んでゐたとき、水道水の濁りといふ現実に直面、「市民に悪水を飲ませてゐるのは、恐れながら東照公千慮の一失。私も三河人、過失を補ひたい」との思ひから濾過技術開発に取り組み、勝手知ったるたたきの有効性に思ひ至る。

 これをきっかけに「たたき屋」となり、皇居・御学問所の土間、赤坂、青山の御所、大久保利通邸、木戸孝允邸などを手掛けて、長七は社会的信用を高めていく。手間や賃金を顧みない熱心な仕事ぶりが公の目にとまったからだといふ。

 最初にたたきを土木工事に用ゐたのは明治11年、愛知・岡崎の旧東海道にかかる夫婦橋の架け替へだった。そのとき長七は生涯忘れ得ぬ宗教的体験をする。落成の1日前の朝、不思議にも天地は黄金にまばゆく輝き、目を見開くことすらできない。不思議なことがあるものだと、長七は予定してゐた「肩抜き」といふ最後の作業を取りやめ、以前から崇敬してゐた天神様に参籠し、一心に祈願する。

「3カ年、梅を断つので、1週間の間に夢中のお告げを賜りたい」

 満願の払暁、1人の老人が枕元に現れた。

「橋の空気の当たるところに欠陥がある。水中にも注意するがよい」

 現場に駆けつけ、いぶかる工夫たちを説得、虱つぶしに検査させると、果たして欠陥が見つかった。すぐさま修復し、堅牢強固な橋を完成させた長七は、敬神の念をますます深めていく。

 渡り初めの3日後、明治天皇御巡幸の御先発として通行になった宮内省の官吏は、この橋に注目し、技術の巧みなることを賞賛したといふ。「たたき屋長七」の名声はいよいよ高まり、品川弥次郎子爵の有力な後ろ盾も得て、堤防工事、築堤工事、築港など手掛ける事業は全国に、そしてアジアに拡大していった。なかでも特筆すべきは、17年の起工から5年余の歳月を費やした国家的事業、宇品(広島)港築港工事である。

宇品港@広島Web博物館


▽2 境内を終の棲家に


 長七は日本近代産業革命の卓越した担ひ手の1人であった。「自己の利益だけを求めず、公益を広めなさい」といふ母親の諭しに従ひ、ときに採算を度外視して事業に打ち込む姿勢は多くの信望を集めたが、国士的精神を貫いてゐたものは篤い信仰であった。

 65歳を機にいっさいの事業から手を引いた長七が終の棲家に選んだのは、崇敬する岡崎・岩津天満宮の境内である。大正8年に80年の生涯を閉じるまで、長七は天神様の境内整備に最後の情熱を傾けた。

岩津天満宮@同宮facebook

「天満宮中興の祖」が逝って100年、たたきはコンクリート・ジャングルといはれる現代都市に甦ってゐる。化石エネルギーを必要とせず、環境に負担を与へないことから再評価されたためで、公共施設などに積極的に採用されてゐる。

 明治といふ多難な時代には、長七のやうな敬神愛国を地でいく日本人がいくらでもゐたのであらう。未曾有の国難にあるはずの現代はどうか。

岩津天満宮境内にある長七庵@同宮HP


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