理論のジレンマ 【想起】

 社会学や社会活動(運動?)から離れて、1年半ほど経つ。どのくらいのペースで肉体を形成する細胞が生まれ変わるのか知らないけど、おそらく社会学や社会活動に打ち込んでいた時から残っている細胞はもう1つもないだろう。まあ、よく知らないから、たぶんだけどね。

 でも、不思議なことに記憶とやらはいつまでも残っている。今日、なぜか知らないけど、「今ある社会」と「あるべき社会」について四六時中考えていたころに感じていた悲しみのようなものを思い出した。

 その悲しみとは、理論のジレンマに由来するものだ。なお、理論のジレンマというとなんか学術用語ぽいが、こういう専門用語があるわけではなく、僕が10分前に思いついた言葉なので、ググったりしないように。

 僕が思うに、いわゆる僕らが「社会」と呼んでいる存在は何かしらの理論がないと捉えられないものだ。ここで理論と呼んでいるものを思想や枠組みと言い換えてもらっても構わない。「社会ってこういうものだよね」という理屈の集合体が頭の中に入ってないと、「社会」のあり方、もっといえば「社会」の有無すらも捉えられない。
 しかし、理論がないとも捉えられないのにもかかわらず、理論があるせいで「社会」を見誤ってしまうという不幸が生じる。いや、見誤るぐらいならまだ救いがあるが、時には「見えているのに見えない」という事態が生じる。こちらになると、もはや悲惨だ。

 理論がないと捉えられないのに、理論を通じて捉えるがゆえに誤る。これが僕が理論のジレンマと呼んでみたものの正体だ。

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僕の日々の記録です。

日常生活、思い出、勉強したことなどを綴っていきます。

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