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『クメールの瞳』ハリウッド冒険映画の思い出のお話

『クメールの瞳』は、カンボジアにあったクメール王朝の遺した秘宝をめぐる冒険ミステリーの物語である。執筆中は常に、1980年代から90年代に好んで観たハリウッドの冒険映画をイメージしていた。
ハラハラドキドキのアクションと、ほのかなロマンス。時折挟み込まれるクスリとする笑い。
「ハリウッド映画みたいな」という表現には、どことなく揶揄のニュアンスが含まれていることもある。それでも、たしかにあの頃、スクリーンの向こう側はキラキラと輝いていて、僕はその世界に胸を躍らせていた。

1973年――スピルバーグの出世作『激突!』が公開された年、僕は東京の葛飾区で生まれた。
両親は、小さな書店を営んでいた。雑誌と新刊本が中心で、本をスーパーカブで配達して回るような(今ってそういうことしてる本屋さんあるのだろうか)、下町のこぢんまりとした本屋だ。
父は映画、特にアクションものの洋画が好きだった。レジ前の丸椅子に座り、広げた新聞のテレビ欄をみて「おっ、今日は金曜ロードショーで●●をやるぞ。早く風呂入ろう」なんて言っては、小学生の僕を誘っていたものだ。
時には店を母に任せ、僕を映画に連れていってくれることもあった(その他にも商店街のメンバーと草野球とか、やたらと店を母に任せて出かけていた気がする。まあ、昭和だったのだ)。
新聞か、店先の「ぴあ」で映画の時間を調べ、京成電車で出発。小さな頃は上野の映画館だったけれど、1984年に有楽町マリオンができた後はそちらに行くことが多かったと思う。
『E.T.』、『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』、『ゴーストバスターズ』、『ランボー 怒りの脱出』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『グーニーズ』、『ロッキー4』。他にも、数え切れぬほどの映画たち。
映画を観た後はラーメンを食べて帰るというのがいつものパターンだった。父はラーメンをすすりながら、「面白かったな」とか「まあまあだったな」などと簡単な感想を言っていたものだ。

中学へ進むと、映画は友達と観に行くことが多くなった。
『トップガン』の第1作は父と行ったが、『リーサル・ウェポン』、『ダイ・ハード』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2/3』あたりは友達と観た記憶がある。
父としても思春期の息子に多少の遠慮はしつつ、それでも映画は観たかったのだろう。僕に小遣いを渡しては、そのころ我が家の近所にできたレンタルビデオ店に走らせるようになった。
僕のほうでもそこまで熱心に反抗期的なふるまいをしていたわけではなく、借りてきた映画はおとなしく父と一緒に観た。
14型(!)のブラウン管テレビの中で、劇場から半年かそこら遅れてブルース・ウィリスがMP5サブマシンガンを撃ちまくる。
父はそれを、布団に寝転んで観るようになっていた。

僕が高校に入ってしばらくすると、父は本格的に体調を崩し、ビデオを一緒に観ることも次第に少なくなった。
高校2年から3年になる、1991年の春。入退院を繰り返していた父が、少し元気な時、急に「久しぶりに映画行くか」と言い出した。
その時に公開されていた中で一番の話題作は、『ゴッドファーザー PARTIII』。
なんとなく父はそれを選ぶような気がして、でもそうしてしまえばそれが何かの不吉なきっかけになってしまうような気がして、僕は心配したものだ。
ところが、父が選んだのは『アラクノフォビア』という映画だった。町を襲う新種の毒グモに、クモ恐怖症の主人公たちが立ち向かう……という内容。製作総指揮はいちおうスピルバーグだったけれど(父はスピルバーグに対して信仰のようなものを抱いていた)、内容的には正直B級感が否めなかったと思う。
いつものラーメン屋で、父は「まあまあだったな」と、前よりもずっとゆっくりしたペースで麺をすすっていた。

結局、それが父と観た最後の映画になった。『アラクノフォビア』。

その後大学生から社会人になる中で、小説家を志した僕はそれまでと異なる種類の映画も観るようになっていった。
それでもやはり、一番多く好んで観ていたのはハリウッドの冒険アクションものだった。父の影響であることは間違いない。
あの頃、80~90年代のハリウッド映画が放っていた、独特の光。それは単に僕が郷愁というフィルターを通して見ているからかもしれないけれど、それでもその輝きをイメージしながら、2021年、僕は『クメールの瞳』を書き上げた。

父は、どこかでラーメンをすすりながら「まあまあだったな」くらいは言ってくれているだろうか。



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