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『到達不能極』に到達するまでのお話④

江戸川乱歩賞をいただくまでをまとめておこうと書きはじめた時は、2、3回で終わるかなと思っていたのに、ずるずると4回目。
そんなに細かいとこまで書かなくてもよかったかな?と反省しつつ、僕が投稿していた頃はこういう話を知りたかったからなあ、なんて思いもあるので、引き続き書きますね。はたして今回で終わるでしょうかーー。

江戸川乱歩賞3次予選の結果、僕の『到達不能極』を含む4作品が最終選考に進んだことが、2018年5月下旬に発売された「小説現代」6月号で発表されました。
講談社の編集者さんによれば、最終選考の日は6月7日。当日の夕方は連絡が取れるようにしてくださいとのこと。
その日が近づくにつれ、なんだか落ち着かなくなってきます。前日にはいつもどおり川崎フロンターレの試合を観に行ったものの、やたらと劇的で、かえって心臓に悪い展開でした。(※1)
そして6月7日、木曜日。
朝は普通に会社へ出勤しましたが、午後はあらかじめ半休を申請していました。受賞した場合にそなえ翌8日は終日空けておいてください、と言われていたので、翌日も休みを取っています。休みの理由を聞かれるような職場ではなかったけれど、一応、上司とごく一部の人にだけ事情は話していました。昼に会社を出る時、がんばって、と言ってくれたのがありがたかったです。この段階で僕にできるのは、祈ることだけとはいえ。

家族はみんな仕事や学校のため、帰宅した家には僕一人。誰もいないリビングで本を読んだり、テレビを観たりしているうちに、だんだんと日が西に傾いていきます。今ごろ選考会やってるのかな、もう終わるころかな、と雑念ばかりが増えていき、テーブルの上のスマホをちらちらと見るばかりで本もテレビも頭に入ってきません。
鳴らない、電話。
そんな状況で1時間も2時間も過ごしたでしょうか。たしか、17時過ぎくらいだったかと思います。ついにスマホが震えました。相手先の表示は、あらかじめ登録してあった「講談社」。
大きく息を吸い、スマホをタップ。おめでとうございます、という言葉を聞いた瞬間、軽くめまいがしました。

翌日、6月8日。(※2)
地下鉄の護国寺駅を降りると、すぐ目の前にドーンと講談社の建物がそびえていました。つい、おのぼりさんのように見上げて写真を撮ってしまいます。(※3)
おずおずと受付で申し出て、初めて見る出版社の中を案内されていった先に、編集者の皆さんが待っていました。担当についてくれる方だけでなく、上司の方や、他にも大勢。新入社員のように緊張しつつ、次々に挨拶をかわします。(※4)
まずはスタジオに案内され、写真を撮りました。いわゆる著者近影というやつです。
カメラの前に立ち、ぎこちなく笑みを浮かべようとすると、「ミステリー作家なんだから笑ってはいけません」と言われました。そうすると今度は笑いたくなるのが人情。あとで写真を見た友人に「貫禄あるね」なんてことを言われたんですが、実際には「絶対に笑ってはいけない小説家24時」といった感じでぴくぴくと表情筋を震わせつつ納まった写真なのでした。
それから編集者さんに連れられ、ハイヤーというものに初めて乗って向かったホテルには、選考委員の先生の一人が待っておられました。
初めて会う、本物の小説家です。直立不動で挨拶した僕に、気さくに『到達不能極』の感想を話してくださいました。
そしてその先生と、講談社のえらい方々と会食。たぶん大変に美味しい食事だったのでしょうが、極度の緊張のあまりメニューや味については残念ながら記憶にございません。ただ、これからはうちの会社の社長とか役員とかに呼ばれても平気だな、なんて思ったのを覚えています。
その場で、選考委員の先生から僕のそれまでのペンネーム「齋藤詠月」についてアドバイスをいただきました。「詠月はミステリー作家としては風流すぎるなあ」ということで、この際変えようと。詠の字は活かしつつ、僕の本名に近い形で「詠一」とし、ついでにサイトウの齋の字も「書くのが大変。本屋さんが注文しづらいよ」とのことで簡単な「斉藤」となりました。
かくしてものの数分で、僕は齋藤詠月あらため斉藤詠一となったのです。これで決定ですね、と確認した編集者さんが、記者会見の資料を修正するためすっ飛んでいきました。

その記者会見は、講談社に戻って講堂のような場所でおこなわれました。そこで何を言ったのかも、もはや記憶にございません。(※5)
最後に、担当編集者さんと打ち合わせ。受賞した作品そのままを出版するわけではなく、選考委員の皆さんのご意見も踏まえ、改稿が必要になります。その方向性の確認と、スケジュールについてです。
選評にあるように、厳しい意見もありました。これもプロの洗礼でしょう。(※6)
スケジュールは通常よりかなり早めの進行になり、6月末までに改稿、7月から8月にかけて校閲や著者校正などゲラ作業、9月下旬刊行とのこと。
改稿は6月末までって……今月末じゃん!
これまでも原稿を直すことはあったけれど、〆切りのない(最終的に投稿という〆切りはあるけれど、それだって結局は自分の意思でやめることもできる)ものでした。
しかし、今度は絶対に守る必要があります。できません、は許されません。
帰り道、護国寺駅のホームで電車を待ちながら、この先だいじょうぶかな、と不安がわいてきます。夢から覚めたような気分になりつつ、切っていたスマホの電源を入れ直すと、今まで見たこともないほどの数のメッセージが届いていました。友人たちからでした。
ーー僕は、たぶん到達できないだろうと半ばあきらめかけていた場所に、なんとかたどり着けたのだ。そしてそれを、皆が祝ってくれている。
こうなったら、小説家として行けるところまで行ってみよう。それこそ、「到達不能極」まで。
トンネルの向こうからヘッドライトの光が近づき、有楽町線の電車がホームへ入ってきます。僕は、さぁ行くんだその顔を上げて、と999ならぬ10000系電車に乗り込んだのでした。


このあとは会社の仕事をしつつの怒濤の改稿、初めてのゲラ作業、そして出版、さらにはパーティにおける恐怖のスピーチ……と続いていくのですが、それはまた別の機会(あるのか?)に。
ずるずる書いてしまった江戸川乱歩賞受賞の顛末、ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました。

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※1 天皇杯2回戦、ソニー仙台FC戦。雨の中、前半で2点先行され、後半なんとか追いつき、89分に3点目を取ってギリギリ逆転勝利という展開でした。

※2 翌日には記者会見とかいろいろあるということで休みだけは取っていたものの、何の準備もしておらず、受賞の連絡をいただいた後「何を着ていけばいいんだ? 会社のスーツ、どれもくたびれてる……」と気づいたのでした。記者会見の画像や著者近影で着てるジャケットとネクタイは、そのとき慌ててお店へ走って買ったもの。

※3 この時に撮ったのがトップ画像。

※4 みなさん名刺をくださるのですが、当然作家としての名刺など持っていません。つい会社の名刺を渡したけど意味あったのかなあ。会社の名刺を使い切ってしまい、しれっと総務に発注したのは内緒だ。

※5 ネットを探せば当時の報道があるのでしょうが、本人としてはおそろしくてあまり見る気がしない……。それにしても僕の時はオンライン会見とかなかったけど、今はYoutubeで全世界に見られてしまうので大変ですね。

※6 第64回江戸川乱歩賞の選評などはこちら。
http://www.mystery.or.jp/prize/detail/20641


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