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『到達不能極』に到達するまでのお話①

江戸川乱歩賞をいただいた当時、いろんなところで聞かれたり書いたりしたのですが、デビューまでのお話を一応このnoteでもまとめておこうかなと。

僕が小説家を目指しはじめたのは1990年代、大学生の頃でした。(※1)
入っていた旅行サークルで、旅行記のようなものを書いたらわりと皆にウケて気を良くしたのと(今思えば本当にウケていたのだろうか)、迫りくる就職活動から逃げ出したいというモラトリアムで(こちらのほうが大きい)、文章を書いて食っていけたらいいなあ、なんてぼんやり思ってしまったのがたぶんきっかけです。
で、どうせ書くなら小説だなと。
しかしまあ、当然ながらそんなに甘いものではなく、僕は皆とともに就職活動をし、会社員として社会に出ることになります。
それでも小説を書くということは楽しく、いつか小説家になるんだという思いは社会の荒波にもまれる若造にとって一種の心の支えのような部分もあり、年に1作くらいのペースでいろんな賞に投稿しては落ち、というのを繰り返していったわけです。(※2)

そうこうするうちに、転職したり結婚したり子どもができたりまた転職したり……と慌ただしく時は流れ、気がつけば30代後半。
箸にも棒にもかからない小説書いてる暇があるなら、会社の昇進試験とか資格の勉強でもしたほうがいいのでは、なんて常識的な考えが頭をかすめた頃、1次通過者の中に自分の名前を見つけてしまいます。
2010年の「第17回電撃小説大賞」でした。
結局2次であえなく散るわけですが、もしかしてこのまま続ければ行けるんじゃね?と、その時僕は考えてしまったのです。ここで1次落ちしてたら、それはそれでまっとうな会社員人生を歩んでいたかもしれません。

電撃大賞ということからお分かりいただけるように、ラノベにも手を出していた時期です。ただ、ラノベといってもミステリー色の強いお話で、今までずっとダメだったのが1次とはいえ通過したのだから、ミステリーを主戦場にしようと考えました。
それで、その後はミステリーの賞にシフトしたのですがまたしばらく箸棒の日々が続きます。やっぱ俺は真面目に会社員として生きるべきだったのか……なんて思いはじめた頃(すぐそう思っちゃう)、ダメ元で応募した江戸川乱歩賞がまさかの2次通過となったのです。
2014年、第60回江戸川乱歩賞。下村敦史さんが受賞された回でした。
2次通過からは「小説現代」に講評が載るのですが、わずか数行の講評を何度も何度も読み返したものです。(※3)
それにしても、やっぱ俺には無理かも……なんて絶望する度、思わせぶりに誘惑してくるあたり、小説の女神のなんと小悪魔的なことよ。

その後は乱歩賞狙いで、毎年1月末の〆切りに向け年間計画を立て執筆することにしました。
少しは相性がよかったのか、あるいは単に誘惑され遊ばれているだけなのか、第61回(呉勝浩さん受賞)、第62回(佐藤究さん受賞)、第63回(受賞者なし)……と、すべて1次通過。(※4)
最初に越えられた2次の壁がどうしても越えられないなあ、とまたまた弱気になってきます。僕はもう、40代半ばに差し掛かっていました。
そんな2017年、第63回乱歩賞に作品を投じた直後の2月のことです。
(つづく)


※1 実家が小さな書店だったこともあり、本そのものには子どもの頃から慣れ親しんでいて、小学生の頃は漫画家になりたいと思っていました。その辺のお話はまたあらためて。

※2 その間、2000年に早川書房がマイケル・クライトンの『タイムライン』出版を記念しておこなった、タイムトラベルをテーマにした作文コンクールで佳作をいただいています。「S-Fマガジン」に名前が載ったのが嬉しかったです。そういえば賞品の図書券は、いつかちゃんとデビューしたら使おうと思って、取っておいたのでした。どこに仕舞ったっけ……。

※3 この頃までは違う名前で投稿しています。「斉藤詠一」になる一歩手前、「齋藤詠月」としたのは2016年の第62回乱歩賞から。

※4 この間、乱歩賞に誘惑されっぱなしだったわけではなく、他にも浮気していました。2017年にはカクヨムの「働くヒト小説コンテスト」で中間選考を通過しています。作品はデビュー後に非公開としたため、Web上にある中間選考通過作のリストには残っていません。


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