女嫌いという過剰な期待と諦め過ぎ
わたしを好きになる女性はこの世にいないので、わたしは好きに女嫌いを捲し立てられるが、思うに女嫌いというのはかねてからの過剰な期待説とは別に、というか、同時に存在する部分として、諦め過ぎでもあるのだろうという気もするのだ
過剰な期待の部分についてはかつて投稿したところなので割愛する
諦め過ぎというのは、これはまあこと女に限った話ではないが、まだ全人類と会ったこともないのに、決めてかかるのは諦めに他ならない、そんな話だ
しかしそれは虫が良い話である
進撃の巨人のアルミンのいい人についての持論、いい人という言葉が余りすぎではない何故ならそれは誰かにとって都合がいい人のことだから、みたいなのを思い出す
自分にとって都合のいい人を素晴らしい人と称賛し、都合が悪い人をクソカスボケタコゲロと口汚く罵ったりするのが、ボクやあなたなのであるだろうか
みんなそうなのだろうか
みんなそうであるというのも手っ取り早すぎる
99/100が真であっても1でも偽があれば命題は偽なのか?
該当する要素、女が男を推し量るステイタスのように、都合の良い要素を何個持っていたら素敵で、都合の悪い要素を何個持っていたら最悪なのか
いずれにせよ、頭でっかち
現実では、目の前相手を性別云々年齢如何に捉われず人として接する
そのたびに裏切られるのは人を知らないから?
期待し過ぎの話に戻ってきてしまった
諦めれば楽になるか?
その結果が数多の「女性差別」と呼ばれるシロモノだ
しかし現にこの最低な私の基準を満たさない女は実に多い
女からすれば「てめえの基準なんか満たしたかねーよボケが」案件であろうが、こっちもそっちの都合なんて知らないのだ
わたしはわたしにとって都合のいい人を探しているとでもいうのか?
そんなつもりはない
人が友や恋人と呼ぶもののどれだけが、自分にとって都合のいい人間との関係性のことなのだろう
別に友も恋人も欲しくないし、なんなら知り合いも増やしたくない
優しくしてということ?
それこそ気持ち悪い
自らからしても気持ち悪い
もっと平和であってほしいと?
人が苛烈であることが許せないのだろうか
冷たくすることがカッコいい文化、だるいだるい言いまくることがかっこいい年齢、うーんよくわからなくなってきた
結局何が言いたいの?
それってそんなに明らかにする必要ある?
現代人はすぐ結論や結果を急ぐ
短文で端的でわかりやすく共感しやすいことすら望む
商業的正解がそちらに向くので、恰もそれが全面的正解のように取り扱われている
いや取り扱ってる人がいる、というか、それが多数派
それは女が多い
またやっちゃった!
この記事にそれほど意味はないよ
いつも言ってる通り
強いて言えば
人を、女を、男を、大人を、子供を、老人を、若者を、日本人を、韓国人を、中国人を、アメリカ人を、イギリス人を、ドイツ人を、イタリア人を、フランス人を、オランダ人を、スイス人を、スペイン人を、カナダ人を、インド人を、ロシア人を、ケニア人を、タイ人を、ベトナム人を、オーストラリア人を、ペルー人を、ブラジル人を、ニカラグア人を、メキシコ人を、こうと決めつけれるほどにその接触母数は多いのだろうか
ぐらいな
女を嫌いと決めつけるのは、女を知らないから、という、誰かが嬉々として食いつきそうな釣り餌の如し着想
わたしが知ってる女というものを、わたしは嫌っており、それがどこまで現実の女に即しているかは不明
おまえは今まであってきた女の数を覚えているか?
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