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最強のワタナベと愉快な仲間たち【鴻巣市】

唐突ですが全国の渡辺さんに朗報です

渡辺さんは節分の日に豆まきをしなくてもいい-んです!

鬼は渡辺さんが大キライなので渡辺さんちにはやってきません。なので渡辺さんは豆まきをしなくてもいいーんです

え、またテキトーこいてんなって?

なら 渡辺 豆まき で検索してみて下さい

渡辺さんは豆まきをしなくても大丈夫なんです

ではなぜ鬼は渡辺さんが苦手なのか、ざっくりお話ししておきますね

酒呑童子率いる鬼の軍団が都で悪事を働いていた

源頼光率いる武士団がこれを退治した

酒呑童子の舎弟、茨木童子が復讐にやってきたが頼光四天王の筆頭渡辺綱が茨木童子の腕を切り落とし追い払った

渡辺には関わるな、茨木童子は仲間の鬼たちに伝えた

ワタナベはやべえ

以後、鬼は渡辺さんには近づかなくなった

もの凄い刀が登場したり、同僚に金太郎がいたり、鬼の生い立ちが切なかったり。渡辺綱 VS 茨木童子の戦いは見どころの多い話でもありますので、ぜひ一度、詳しく調べてみて下さいね(丸投げ)

さて、ここからが本題です

渡辺綱。現在の大阪市中央区、摂津国渡辺庄に住んだことから日本で初めて「渡辺姓」を名乗った男としても知られていますが

実は鴻巣市生まれ、のすっ子です

という訳で今回は、綱の悲運の幼少期と、父宛の最後を妄想も交えて見ていきます。どうぞ最後までお付き合い下さいませっ

鴻巣と言うと今は免許センターのイメージしかないのかもしれませんが、さきたま古墳群を見下ろす大宮台地の北の先端に位置していることもあり立地、特に地形が良かったのでしょう

鴻巣駅から免許センターに向かって土地が下がっているのは埼玉県民の多くの方がご存知かと思いますが、反対側も荒川に向かって、北も吹上に向かって下がっています。細い岬の形をしているんですね

明治43年の大洪水でもこの辺りではここだけがこんな感じで水没しませんでした。日本史に登場する初めての名前のある埼玉県民、笠原さんも、武蔵国国司源仕、そして源経基も鴻巣を選びお住まいになられました。おびただしい数の古墳から武蔵水路の時代まで、歴史的な見どころがたくさんあります

経基についてはこちらの回をご覧いただくとして

仕、宛、綱

3人の名前が出ましたね。それぞれ綱のおじいちゃん、パパ、綱、なのですが、一文字のお名前は嵯峨源氏の特徴です

直線を見たら秀吉を思え、とはブラタモリでよく耳にするフレーズですが

一文字の名前を見たら嵯峨源氏と思え

そう覚えておいて良いのかもしれません。まあ覚えたところで役に立つことはないと思いますけどね

綱のパパである宛は鴻巣市箕田に館を構え、箕田源氏を名乗り、この地一帯を治めていました、と言うと聞こえはいいのですが、様子はまるで違うものだったかもしれません。というのは

宛のパパである仕は武蔵国国司という高貴なお方、立場であったにもかかわらず、任期が満了、退任したのち

武蔵国府を襲撃!

前県知事が新任知事と埼玉県庁を襲撃するということですから絶対にダメなヤツですね。とんでもないことをやらかしてしまいました

この事件の結末は記録がないため分かりません。ただ私は

鴻巣に国府があった(暴力で奪った)

国府があったから経基は鴻巣に館を構えた

平将門が武蔵国にだけ国主を置かなかったのは、国府を襲撃出来るだけの軍事力を備えた箕田源氏、武蔵武芝もかなり計算高いオトコだったと思います、鴻巣と浦和の豪族二人の存在があったから

ここに繋がると面白いなくらいですけどね、考えています、が、やはり記録がないのであまりテキトーなことは言えません(もう言ってますが)政治の腐敗、大震災、虐げられた人びと、中央政府の管理下に置かれた蝦夷ですね、俘囚と言います、俘囚の反乱、時代背景がリアル北斗の拳の中の将門の乱からの、中央政府への反逆ですから仕の子、宛の青春時代はなかなかバイオレンスなものだったのではないかと想像します

ところが、すぐとなりの熊谷市村岡に平良文という方が越してくると

たぶん殺られてしまいました

今昔物語にはこうあります

二人の領地は元荒川を隔てて近いところにあったため、家来たちがたびたび小競り合いをしていた

いいかげん決着を付けようということになり、源宛と平良文の一騎打ちが行われることになった

はじめに宛は良文の放った矢を軽くかわした

良文も宛の矢を刀で打ち落とした

二人の素晴らしい技に敵味方関係なく喝采が送られた

二人は健闘をたたえ合い、今後は助け合って鴻巣熊谷の開発に尽くすと誓った

ずいぶんな美談ですよね。ただいくらなんでもこれは脚色されすぎではないかなと感じます

そもそも宛のパパ仕と良文の間には平将門の乱の時の遺恨がある

一騎打ちの後、良文は熊谷市村岡を子に託し藤沢か千葉に引っ越している

宛の享年は21歳

箕田源氏は3代で滅亡している

まだ赤ん坊だった後の綱は母方の実家である摂津国渡辺庄に落ち延びている。なので

俺たち今日からバディだぜ!

みたいな話ではなかったと思います

良文は殺る気マンマンで村岡に館を構え、事が済んだらさっさと撤収。きっとそんな感じだっただろうと思います。ちなみに平良文、畠山氏、上総氏、千葉氏、土肥氏など、いわゆる坂東八平氏の基になる人です

埼玉県でしか行われていないらしい北辰テストの北辰、またの名を妙見も良文が戦いの中でもはやこれまでと覚悟を決めた折、妙見菩薩が現れ導いてくれたことから妙見宮を秩父地方に誘致(秩父神社は江戸時代まで妙見宮と呼ばれていました)

妙見北辰と秩父埼玉を結び付けたのは良文ですので、北辰テストのルーツもこの人ということになりますね。妙見とはよく見えるという意味、だから驚異的な視力を持つフクロウなのですが、そういえばさっき矢が止まって見えるとか言ってましたよね。きっと妙見様が降臨し激的に視力がアップしてたんでしょう分かんないですけどw

箕田周辺のあちこちげ見かけるこちらの紋を渡辺星といいます。星というのはオリオン座がモチーフになっているからです。渡辺さんちはだいたいこの紋を選んでいると思います

ひっくり返すと毛利家の家紋になります。ガチもんの毛利紋は所沢の狭山不動尊で見ることが出来ますが、なぜここにあるのか、話すと長くなるので今日は触れません

渡辺庄に落ち延びた幼き綱は、そこで清和源氏、源満仲の子、源頼光の姉か妹を嫁にもらった源敦に養育され、頼光四天王の筆頭に。そして酒呑童子、茨木童子との闘いに勝利、日本史にその名を残しました


その後、綱の子孫は渡辺党という武士団を形成し、歴史の表舞台にちょこちょこと、脇役というよりも

渡辺党のゆかいな仲間たち

てな感じで登場しますwww

平家物語にある彼らのおもしろエピソードを紹介しますね

まずは治承4年!

頼朝が立ち上がる少し前に以仁王という方が京都で兵をあげます

その際、敵である平宗盛に投降したふりをし、宗盛の愛馬を盗み、毛をそり、尻に「バカ(超約)」と焼き印し突き返した男

渡辺競(きそう)

義経と梶原景時が、船に後退用の櫓を付けるか否かで言い争いをする場面がありますね。逆櫓論争です

義経の運命を決定付けるきっかけともなったこの現場は

渡辺の津

綱が鴻巣より移り住んだ渡辺党の本拠地でした。水軍の能力も備えていた渡辺党が船を提供し、屋島、そして壇之浦へと歴史が動いていくんですね

その壇ノ浦のラストシーン

海の底にも都はある

敗北を悟った平家一門が次々に海へ沈んでいく場面

生き残った方がいらっしゃいましたよね?

宗盛?

そうですねwww 泳ぎが上手すぎて泳いでるうちに死にたくなくなった人ですねwww

平家のトップ宗盛も生き延びたと言っていいのか、壇ノ浦では死に切れませんでした

もう一人、平家のビッグネームが生き残ります

清盛の娘にして安徳天皇の母

建礼門院平徳子です

この方も入水はしたものの、その長く美しい髪があだとなってしまったのでしょう

源氏方の兵に

熊手で髪をからめとられ

助けられてしまいました

熊手をぐりぐりやった男

渡辺昵(むつる)

平家物語の中にこのような一文があります

渡辺の一文字名ども

綱から始まる渡辺党が歴史の表舞台でどれほどの躍動をしていたのか。それを言い表すのにこれ以上のセリフはありますまい

渡、清、番、緩、与、続、進、烈、覚、遥、至、早、授、省、配

みんなまとめて、この渡辺の一文字名どもが!!

歴史とは小さな点と点が繋がり線になったもの、と言う人がいます。日本という国の大きな大きな転換点となった壇ノ浦の戦いも、小さな点と点が繋がり何万本もの線になり束になり絡み合ったもの。800年読み継がれる大ベストセラー平家物語の最終章を飾る建礼門院もやはりひとつの小さな点だったのかもしれません

その小さな点と偶然にも絡み合った渡辺党という線を辿っていくと、そこには確実に宛と良文の一騎打ちがある訳ですから、壇ノ浦と免許センターの裏は一本の歴史の線で繋がっているということになりますよね

あの、佐谷田ってどっちですか?

佐谷田はあっちだけど…え、佐谷田なの!?

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