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地名の由来、旧大宮市

大宮氷川神社は大きい、大いなるお宮、で、大宮!行ってみましょうっ

塚本

荒川の改修・流路変更等で随分減ってしまったと思うのですが古墳密集地帯。塚は古墳を指していると思われます(Googleマップで古墳で検索してみて下さい)

飯田(新田)

二十の村が力を合わせて開発した、とあるので、助け合うの意味を持つ「結」がイイになったと思われます。飯田新田は飯田村が開いた田、いわゆる村請新田ですね

湯木

分かりません。イイダがユイダなのでユイギだろうなとは思いますが分かりません

昭和

昭和の土地改良事業により成立した地名です。元は大宮市島根、浦和市在家五関宿の一部であったため浦和市(現桜区)昭和もあります

島根

桜区田島や深谷市血洗島の島と同じですね、荒川と鴨川が氾濫した際、水没しない高台に島の字を当てた、で問題ないと思います

三条

歴史の授業で習いました、条里制の条、碁盤の目のように区分けされた田んぼの縦の列の三番目のどこか、ということですね。大久保条里遺跡といいます。平安時代からずっと田んぼだった、ずっとこの景色だった、と考えるとグッとくるものがありますね

植田谷本

足立郡の中心(本)であったと考えられています。植田はそのまんま、苗を植えた田という意味ですね。埼玉の歴史において決してスルーすることの出来ない地域。改めて「埼玉の稲作」の回で触れたいと考えています

水判土

水の畑、田んぼ説と、ハタには崖という意味があるので水の端、川と崖的な説があるのですが、地形的に見て後者だと思います。田んぼがミズハタなら似た地名があちこちにあっても良いような気もします

植水

植田谷本の植、水判土の水と言ってしまえばそれまでですが、この地方は古くは水判土荘、植田谷郷と呼ばれていたので、荘と郷の合体地名ということが出来ますね

二ツ宮

氷川神社と八幡神社が並んで建つ、二つのお宮で二ツ宮。宮の字は神社を指すということを改めて意識させる大宮市ですね

西遊馬

お馬さん説もあるのですが、湿地を意味するアソに狭間のマ説に一票を投じたいと思います。東遊馬は草加市にありますね

馬宮

明治二十二年、西遊馬、土屋、二ツ宮、飯田新田、植田谷領本村新田が合併して成立しました。西遊馬の馬と二ツ宮の宮を重ねて馬宮ですね

土屋

土を塗った家屋、土蔵を指すようです。質屋のことを土蔵というので鎌倉期、質屋があったのだろうとのことでした

宝来

宝が来る、極端に良い字が当てられているので実際はその逆だったのでしょう。江戸時代以前は人の住まない水害の常習地帯だったようです。江戸時代に入り開発され、新村の前途に希望を託し宝来の名が与えられたと考えられます

プラザ

昭和五九年、指扇、西遊馬、土屋、二ツ宮、飯田、佐知川の一部が宅地化され成立しました。プラザ、人の集まる広場、前途に希望を託したネーミングという点で宝来と接点があるようにも感じました

指扇

由来ははっきりしていないようです。オギには湿地、サシには日当たりの良いところという意味があることから日当たりの良い傾斜地、と偉いせんせはおっしゃっておりました

佐知川

指扇のサシが訛ってサチ。カワは川ではなく縁側のガワ、つまりこの辺りまでは日当たりの良い傾斜地だよ、という解説を見ましたが、佐知川民の皆様、日当たりはいかがでしょうか

指扇領辻(別所)

辻には交差点という意味があるので指扇領の中にある交差点なのですが、辻は元々は単なる辻村でした。浦和にも辻村があったことから指扇領の辻。領家や別所、在家というあちこちにある地名の頭に区別をするために何々領の文字を付けることがあります。中世の地名を残す工夫の痕跡ですね、グッと来る地名だと思います

平方領々家

平方領の中の領家ですね。さいたま市と上尾市にまたがっているところが見どころ、下地中分の痕跡です。動画のテーマにしたことがありますが近いうちにリメイクしたいと考えております

三橋

鴨川に架かっている並木橋、内橋、藤橋、三つの橋で三橋と称しました。藤店うどんの藤は藤橋にちなむものなんですかね

峯岸

岸には崖に面した場所という意味があるので、峰と岸で高い場所であることが想像できますね

中釘

クギには少しだけ高いところという意味があります。久喜市のクキも同様、川島町の釘無は少しも高いところがないという意味ですね

清河寺

清河寺というお寺があるのでセイガジなのですが地名はセイガンジです

西新井

新しい井戸、と受け取っても問題ないのですが、人が住めるようにするために井戸を掘った、広く、開墾集落を指す地名であると考えたいです。東新井も同じなので省きます

奈良

ナラには平らな場所という意味があります。グラウンドを平らにすることをナラすと言いますよね

別所

蝦夷が関係しているという説があります。奥州から連れて来られた蝦夷、俘囚と言いますが、俘囚に開墾させた場所を別所、ということは平安時代にまで遡る地名ということになりますね。県内に相当数あります

今羽

アイヌ語説があるのですが私は採用しません。私は滑舌の悪い方がコマバ(馬の産地)がコンバと呼んでいたのではないかと思うのですが分かりません



太田道灌が古い塚を発掘したら金の砂が出た、という説があるのですが、単に芝川の砂地だろうと思われます。太田道灌が出てくるとみんな嘘っぽくなってしまう現象に名前を付けたい今日この頃です

加茂宮

加茂の宮、宮原4丁目にある加茂神社のことですね

吉野原

江戸時代の資料に吉野領原村というのがあるので略して吉野原なのかなとも考えたのですが、実は大きな合戦があったという伝承があるんですね。吉野原合戦です。上杉渋江北条などが衝突する、あるいはそれ以前にこの場所で合戦があり、古戦場を意味する原の字が当てられたと考えることも出来るかもしれません

本郷

吉野領の本郷、ここが吉野領の中心でした

宮原

加茂宮の宮と吉野原の原の合体地名ですね

土呂

古い資料に「土呂村、漁業を生業とす」とあるので芝川の水がこの辺りで滞りトロの状態、長瀞のトロと同じ意味ですね、トロトロゆったり流れていたのでその名が起きたようです

大砂土

明治二十二年、大和田の大、砂の砂、土呂の土の字が重り成立しました。さいたま市は郡区町村編制法からの町村制に対応させられた地名がとても多い印象がありますね、まあ大きいですからね



芝川と綾瀬川が氾濫した際、水没しなかった高台に島の字が当てられたのでしょう

春岡

深作、小深作、丸ヶ崎、宮ヶ谷塔の4村が合併し成立しました。ただ村名をどうするか、揉めに揉めたのでしょう。もう春の岡で良いだんべ、4村とは全く関係のない気持ちの良さそうな名前を選んだと伝わっています

七里

ここも揉めました。7つの村が合体して七里です。浦和の六辻は6村、土合は11村、深谷市には八基もありますね

丸ヶ崎

岩槻城の出丸の先に開かれた村、という説がありますが、多くの先生が丸には山という意味があるので単に台地の突き出た場所だろうと言っておられました。ただ村の始まりが天正二十年ぽい、岩槻城落城の二年後なので岩槻城とは何かしらの繋がりがあると感じます

深作(小)

サクには狭間という意味があるので、綾瀬川に面した深めの窪地という感じでしょうか。小深作の小には意味はないという開設を見ましたが、コには場所という意味があるので(ここどこそこあそこのコですね)この先生はただの場所なのであえて意味はないと表現したのかもしれません。義経の小川口なんかももしかしたらこっちのパターンなのかもしれませんね

卸町

昭和五十九年、県南卸売団地のスタートに伴い成立しました。水害の常習地帯だったんでしょうね、水の上に建物が建っていたりしました

宮ヶ谷塔

ピサの斜塔のような塔を連想してしまいますが、ヤトは湿地を意味する谷戸。宮は神社なので宮ヶ谷塔氷川神社のことだとは思いますが、ソレという文言は見つけられませんでした。バス停にまで触れるとキリがなくなるのでここだけにしておきますが五味貝戸のカイドも谷戸の当て字でしょうね

東宮下

古い資料に、当村、宮ヶ谷塔村氷川社の下にある地なれば、とあるので宮ヶ谷塔氷川神社の下で宮下なのですが、東宮下にも氷川神社があるのは気になるところです。西宮下は上尾市にあります

加田屋

加田屋助右衛門という方が沼地を田んぼにした、で、加田屋新田。個人が開発した新田を町人請負新田と言います

上山口新田

鯉屋藤左衛門という方が開発した地域です。鯉屋は屋号、お名前は山口さんでしたのでこちらも町人請負新田ですね

西山村新田

山村が中心となって開発した地域です。こちらは村単位、村請新田ですね



西山村新田を開発した山村の山です。周辺の田んぼから望むと確かに山のようにも見えるのですが不思議な地名だと思います

膝子

江戸時代の資料に、膝のような子、つまり重度の障害のある子が産まれた、と村人は言うのでそのまま記録に残す、とあるのですが、その方も、そんなん地名にするかなあ、というニュアンスで書いています。前方後円墳があった説もあります

染谷

染色業者がいたのだろうとあったのですが、江戸時代の初期の初期、慶長年間の検知長に染谷新田の文字がありました。戦国時代にはすでに片柳に市が開設されていましたので、この辺りは結構賑わいがあったのかもしれません

片柳

由緒ある双柳が片柳になったことに由来する、とあるのですが私には意味が分かりません

御蔵

浦和の三室が氷川女体神社そのものなので御蔵も氷川女体神社の蔵、と考えていたのですがどうも違うようです。単にこのエリアでブイブイいわせていた土豪の蔵なのかもしれません

見山

御蔵同様、氷川女体神社の神域の山であるに違いない、神の座す山〜とSNSでほざいたことがあるのですが、単に見沼と山の合体地名でした

見沼のミも氷川神社から連想される御であったり、三つの沼があったので三沼であったり、はっきりしないみたいですね

笹丸

丸には山、台地という意味があるので笹の生えた高台ということでよろしいでしょうか

蓮沼

南東部が悪水路に沿った低地、あるので蓮の花の咲く沼があったでよろしいでしょうか

地名を見る際は漢字から来る印象に引っ張られてはいけないのですが、さすがに笹と蓮を疑うのは性格悪すぎかなと思いました

南中丸

丸は台地なので、三つ並ぶ台地の真ん中という意味ではないかと思うのですが、分かりません。北中丸は北本市にあります

東門前

古い資料の風渡野村鷲明神社の項に、古門前村の地、当村に属せし頃は当社は彼地にあり、とあるので鷲明神社の門前町として発展した村のようです。西門前は上尾市にあります

大和田

川の曲流部に囲まれた平地をワダと呼ぶことがあるそうです。芝川、もしくは別の川にグルッと囲まれた大きめの平地ということですかね

風渡野

浦和の本太同様、女性のおまた説が有力です。地形の割れ目に女性のおまたを意味するフトホトが当てられた。風の渡る野、というイメージを壊してしまったかもしれませんね、私のせいじゃないですからね

大原

上木崎の小字大原にあった大原中学校が移転、学校についてくる形で大原という地名が現在の場所に成立した、とネット上にありました。珍しいケースですね。そういえば与野駅が開業する際、名前の候補に木崎駅と大原駅があがっていたような気がします

植竹

植田谷本と、どこか竹の字付く場所の合体地名だとつい考えてしまいますがはっきりしないようです。ただ植田谷本を中心とした植田郷がこの辺りまで広がっていたと考えることは出来そうです

天沼

続日本紀、平安時代初期に成立した書物に登場するアマヌマはここだ、と埼玉県史は言っているのですが(一般的には杉並区の天沼を指すことが多いようです)それはともかく天の字には高いところという意味があるので見沼の低地から見て高い位置にある沼、大宮台地の上には沼がたくさんあったそうですからここはなるほどなあという感じですかね

寿能

地名ではまず見かけない寿という文字が特徴的な寿能ですが残念ながら由来ははっきりしていないようです。ただ私は個人的に超絶滑舌悪い系地名ではないかなと感じています。北沢甚之丞という方がこの地を開発するのですが、ジンノジョー、ジンジョー、ジュノー、異論反論罵詈雑言大歓迎です、コメント欄でお待ちしております

盆栽町

関東大震災、被災した東京の植木屋が良い環境と土を求め大宮に移転、開いた場所が今の大宮盆栽村周辺です

高鼻

高い鼻、思わず人の顔が浮かんでしまいますが、鼻は土へんに高いと書く塙だろうなと思います

北袋

袋は水の溜まるところ。北袋郵便局の裏、大きく窪んでますよね

大成

大成は金子駿河守の名乗りともいへり、とあるのでこの地に所領を持っていた金子氏の実名が大成だったということになるのですが、地形説もあります、が、大成という地名は県内に他にない。地形なら他に似た地名があっても良さそうなものなので、やはり大成さん、人の名前なのかもしれません、現在も居られますしね

日進

明治二十二年組ですね、内野、上加、下加、大成などが合併、成立しました。村名は、将来百般の事業日進を計るため日進村と称せん、と何を見ても書いてあるのでその通りなのだと思いますが、日進小学校の前身である上加学校のスローガン的なものだったのではないかという気もします。日進が未来志向なので、漠然と大成も「大器晩成からだろな」考えていたのですが、金子駿河守、この落差には驚きました

上加・下加

偶然見つけたので、嬉しかったので、紹介させていただきました

櫛引

日進から奈良に向かって地形が細く長く盛り上がっている、このような地形にクシの名を当てることがあります。南から北、さいたま市から上尾市に向かって流れる逆川がありますね、この辺りは起伏が複雑なんでしょうね

浅間町

浅間神社がありますね

桜木町

鐘塚公園にあった庚申神社に植えられた桜の木から来ているようです。大宮は鉄道の街ですが始まりはポジティブなものばかりではありませんでした

多くの方が工場内の事故などで亡くなりました、その方たちを祀っている庚申神社、すぐ近くに移転しています

鐘塚公園

庚申神社は鐘塚公園にありました。カネヅカを漢字変換してみて下さい、庚申塚と変換されますよね

今回改めて大宮は古い地名を残すためにさまざまな形で工夫をしてきたんだなあと感じました、日々更新され新しく大きくなっていく大宮だけにちょっと意外な感じもしました

土手・大門

土手と大きな門(鳥居)なのでしょうが、どこの土手と大きな門なのかがはっきりしませんでした

東町

氷川神社参道の東側ですね

宮町

氷川神社の門前町ですね

仲町

大宮宿の創立メンバー、宮、仲、下の宮と下の中間にあるので仲ですね

下町

下の字はあまり好かれないからなのかシタマチシモマチも含め下町の文字のまま残ることはとても稀、川越は志多町に置き換えましたよね。下町、絵面は地味ですけど歴史を重んじる大宮だからこその地名だと思います

錦町

鐘塚と鉄道に共通する金へんを使う文字の中から良い字を当てた、とウィキにはあるのですが、蕨の錦町と同じパターン。西町の西を錦に置き換えただけのような気もします

大宮宿

大宮といえば今回の大宮なのですが、昭和三十年代頃までの資料の中では大宮はナチュラルに秩父のことを指していたりします

皆野と横瀬の間に大宮郷

正丸峠を大宮東京道

大宮が二個ありますね

氷川神社が大いなるお宮であれば、秩父神社もまた大いなるお宮。今回の大宮は大宮宿、宿の字を付け区別されていたのかもしれません

ラスト!吉敷町

まったく分かりません。違和感を感じ調べたことがあるのですが「全く記録が残されていない」とおっしゃる先生に資料の中で出会えただけでした。新都心周辺は何かを隠しているような気がします

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