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浦和民には手を出すな!後編【さいたま市浦和区】

やるからには勝たなければ意味がない! 浦和民の負けず嫌いの歴史、後編ですっ

明治12年8月、現在の緑区中尾に激震が走ります

県が浦和宿でコレラ患者が出たので吉祥寺に収容したいと言ってきた、県庁から担当者が説明に来るからみんなも一緒に聞いてくれ

吉祥寺をコレラ病棟にするということですね

もちろんこれを中尾民が「はいそうですか」と素直に受け入れるはずはありません、命に関わることですからね、当たり前です

しかしやってきたのは県の担当者ではなく、なななんと! いきなり患者でした

中尾民は患者を山門の外に押し出すと、患者を護送してきた巡査らに罵声を浴びせ患者と共に追い返してしまいます。これを浦和警察署は暴行事件と断定、容疑者の逮捕に三人の巡査を出動させます、が

中尾民は巡査らを

ボコボコにしたあげく

村長宅の土蔵に監禁

警察が村民を逮捕する時は先に村長に連絡するのがしきたりである、と詰めより巡査らに一筆したためさせてしまいました

同じような話を少し前にしましたが、川口市の件も中尾のわちゃわちゃとほぼ同時進行で起きていた事件でした。逮捕者の中には川口市赤山・峯の方も含まれているので、中尾だけでなくこの辺り全体がシャレにならない騒ぎになっていたということですね

コレラに襲われた地域はどこも似たようなものだったんじゃないの?

ごもっとも。明治期のコレラは明治10年から20年にかけて大流行をするのですが、実は最も多くの犠牲者を出したのは、足立郡ではなく入間郡でした

その入間郡のとある場所に慰霊碑がひっそりと建てられていますので少しだけ触れておきますね

コレラ患者を出した家は、警察に踏み込まれ、家財道具を没収され、調子の悪そうな者がいれば罹患をしていなくても連行されるということがありました

この村民から見れば警察の横暴に、浦和・川口は反発し戦う道を選ぶのですが、入間郡は気質がまるで違うんでしょうね

警察に見つからないように、ご遺体を草むらでそっと焼いたそうです

蔓延するコレラの脅威に襲われて何十人もの命が失われた、焼き場と呼ばれたこの地では野天の侭に今日も人を焼いた

実際コレラは埼玉県全域に蔓延しました。各地にトラブルが起きたという記録もあります

ただ30人以上の逮捕者を出しているのはやはり浦和だけなんですね

浦和民は戦闘民族なのか

入間郡側から見ると、そう感じることはありますね

足立郡と入間郡の人の気質の違いといえば、所沢市の狭山湖と、見沼たんぼに計画された貯水池のエピソードもそうかもしれません

大正時代の終わり頃、人口の急増した東京市は、飲み水の確保をするため東大和市に村山貯水池、現在の多摩湖ですね、そちらを完成させると、第二の貯水池を所沢市に建設すると発表します

土地の買収に抵抗した東大和民が最後どうなったか、みんなもよく知っているであろう(強情島の爺さんな)あの爺さんは最後まで本当によく粘った、が、結局土地は国により強制的に接収された。我々は不当に低い買収金額のアップを目指し団結すべきだと思うがどうか

所沢市勝楽寺民は、東大和市と同じような抵抗をしても土地の接収はもう覆らないと判断、地主会を結成し土地の買収金額の増額を狙います、が、時代は昭和恐慌の真っ只中にありました

地元移転者を優先的に雇用することを約束します

未曾有の不況の中で「早く着工をしてもらい現金収入を得た方がいい」という流れが出来たのでしょう。間もなく多くの勝楽寺民が土地の買収に応じ始め、昭和4年、特に記録に残るような騒動もなく起工。同時に282戸の勝楽寺民が生まれ育った土地、所沢市勝楽寺を離れて行きました

そして東京市は、多摩湖、狭山湖に続く第三の貯水池として見沼田んぼにダムの建設を計画します

が、そうですね、ここには浦和民がお住まいになられてるんですね

神根、芝(共に川口市)野田、尾間木、大門の村民、約300名が

貯水池絶対反対

と大書きしたムシロ旗を押したて、計画について協議をしていた尾間木村役場に突撃!

あ、今、こいつは相変わらずは口が悪いな思ったでしょ? 記録にあるんで、叩き潰せって

またも浦和警察署のお手を煩わせることになってしまいました

しかし東京市には切迫した事情があります(人口がどんどん増えてますから確実に水が足りなくなるんですね)

埼玉県に立入許可を申請、つまり「測量させろ」と言ってきました、が

県民感情を刺激するのみである

埼玉県は東京市の申し入れを拒絶

埼玉県のこの態度が見沼貯水池計画そのものを白紙撤回させるきっかけとなりました

県民感情を刺激するという理由は興味深いですよね。所沢のときは何も言ってませんからね

浦和にとって最も厳しい戦いだったかもしれない、旧制浦和高校、現埼玉大学を誘致するまでのエピソードです

大正7年、政府は東京の郊外に文部省直轄の高等学校を建設するという計画を立てました

文部省は東京近郊が望ましいと言っている、まだ公には出来ないが浦和に落ち着くだろうから土地の選定をしておいてくれ

ところがどこで聞きつけたのか、これ以上浦和の好きにさせるかと立ち上がった大宮、岩槻、川越、特に

熊谷がモーレツな勢いで浦和に襲いかかります

先ずは建設費80万円のうちの40万円は国から、残りは地元負担と寄付金によるものという算段があったのですが、熊谷はそのうちの30万円の耳を揃え文部省と直接交渉

浦和に30万の寄付金はムリだんべと、いきなり先手を打ってきました

高等学校誘致はまさに県北派と県南派の戦いそのものでした

埼玉県は明治9年、旧埼玉県と熊谷県が合併し、ほぼ今の埼玉県が成立しています。この時の県庁を奪われた恨みと、奪還への執念、浦和のくせにという想いもあったでしょうね

これあの最近はあまり聞かなくなりましたが、ご年配の方が、浦和なんて何もなかった、県庁所在地唯一の町(市になっていない)急行が止まらないなどとよくおっしゃっておりましたよね

浦和は小さな町でした

蕨市の歴史書にこうあります

蕨宿は浦和大宮上尾をはるかに凌ぐ繁盛ぶりだった

与野も言います

与野は大宮浦和を凌ぐ活気を見せていた

いずれにせよ熊谷の熾烈を極めた運動に、浦和も安閑としてはいられなくなりました

しかし熊谷は畳みかけます。大正8年のとある県会でのやりとりです

埼玉県からの提案でした。埼玉県には浦和の経済規模を踏まえ(浦和に30万はムリ)もし寄付金が目標額に達しない場合は県の予算から支出をするということを決めておく必要がありました

ところが熊谷が言います

熊谷がここまで強気に出られた理由は繰り返しになりますが、熊谷はすでに寄付金の目標額を達成していたからでした

埼玉県は慌てました

埼玉県は高等学校は浦和に作る腹づもりでいました。口にはしていませんが文部省も浦和推しです

もし採決の結果、熊谷の意見が可決されれば

事実上、浦和への設置は消滅

埼玉県は熊谷に対しこう切り返します

熊谷、浦和より30万円の寄付金があることは承知しているが、万が一集まらなかった場合、県費支出の必要がある。その件について審議をしておこうと言っているのだ

万が一と言っている。 万が一寄付金が指定の30万円に達しなかった場合は、県の予算を以て直ちに審議を願うことがある! 参考までに申し上げておきたいのだっ

知事の述べたことは全くの杞憂に終わる!!熊谷は県費に頼ることは絶対にしない(もうあるので)!!

熊谷の発した一言は、完全に浦和にトドメを刺すためのものでした

浦和にとって30万円はとてつもない金額です

頑張ってどうにかなるものではありません。しかし熊谷に高等学校を奪われたくはない

浦和の町長はとっさの独断で

とっさの独断で!!

浦和も県費には頼らない。必ず30万円用意して見せると啖呵を切ってしまいました

しかしこれを聞いた浦和の町議会は猛反発です

国家の公の機関に対し、極めて巨額の寄付金を約束するが如きは越権も甚だしい。もしこれを強要せらるるにおいては浦和は財政的に破綻せしむる恐れがあるっ

発言の責任を取り、浦和の町長はその座を辞任をすることになりました

そのすぐ後でした、文部省は正式に高等学校を浦和に設置することを決定

浦和は今に続く文教都市としての基盤をさらに強いものにしていくのですが、これただ学校を誘致したという話ではないんですね

さらにというのは少し戻って明治28年、浦和は尋常中学校、現浦高誘致の際、浦和に中学校を作ってくれるなら好きな場所を好きなだけ使ってください、とんでもないことを言い出し大宮を撃破、埼玉第一尋常中学校の設置に成功しています

浦和はなぜ高所得者が多いのか、この不思議に繋がります

この時代に高等教育が受けられる、華族士族豪農、裕福な家庭のご子息です。学校が作られたことで浦和に富裕層の子が集中しました。この子たちは卒業後、都内に出て官僚になる、あるいは大企業にお勤めになる、安定と高収入を得ます。そして関東大震災、ほぼノーダメだった浦和の地盤の良さが都民に知られ転入者が激増、この中には浦和に馴染みのある浦高埼大OBも含まれていたでしょう。都内、職場に出やすい浦和駅周辺が高級住宅街化しました。そんなご家庭は当然、次も、次の次の世代も進学率が高い、安定と高収入、伊勢丹でお買い物

同時期、大宮も大きくなります。鉄道、もう少し具体的に言うと鉄道の整備工場ですね

浦和と大宮の街のカラーがくっきりと別れるのはたぶんここ、ちょっと分かり合えない感じはしますよねwww

県庁所在地争奪戦(浦和と大宮はなぜ仲が悪いのか)この後やります!

昭和二十年代のある日のことでした。東都バス浦和保健所前停留所でバスから降りた埼玉大学附属小学校五年三組桜井くんは、走ってきたオート三輪に跳ねられ右足首に全治三ヶ月の重傷を受けてしまいます

ところが、この事故の調べにあたった浦和警察署の交通課は

これはあれだな、君がバスから勢いよく飛び降りた拍子に骨折した、そんな感じだな

オート三輪とは接触していない、これは事故ではないと断定、オート三輪を運転していた柴さんて言うんですけどね、柴さんに過失なしとサクッと片付けてしまいました

昭和あるあるですよね、唾でもつけときゃ治るとかよく言われましたよねw

しかしこの子たちは、小学生とはいえ浦和民です

承服できぬ

柴さんの雇い主である氷屋を相手に、浦和地裁に控訴!

11歳の少年が法廷に立ち証言など出来るのだろうかという大人の心配をよそに、赤尾くんは堂々と胸を張り証言、六年生の武田さんもオート三輪は警笛を鳴らさなかったと鋭い指摘

弁護士が話し合い、これ以上子供たちを煩わすのは教育上よくない、ということになり、柴さんが桜井くんを見舞うことで和解が成立したそうです

以上! 浦和民には手を出すな、7編のエピソードを紹介しましたが、いかがでしたでしょうか

県を代表する武将というと熊谷氏や河越氏などが思い浮かびますが、浦和氏、聞いたことないですよね? 浦和には著名な城趾もありません。浦和はホントに小さな町でした

しかし現在は埼玉県の県都として、その存在感を不動のものとしています

浦和は名もなき先人、彼ら彼女らがいたからこそここまで大きくなった町、見沼は守ったと言えるでしょうね

天保14年、幕末の戸数です(浦和宿273蕨宿430)

蕨の三分の二程度の規模しかなかった浦和はいかにして県庁所在地となったのか、やります。浦和民には手を出すな前後編は、その前フリでした


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