宝珠花エレジー【庄和町】
女の敵! こんな男が新しい1万円札の顔なのか! 厳しい意見の飛び交う昨今ではありますが、時代の背景を見ていくとスケベの一言では片付けられない切ない事情もそこにはあることが分かります
という訳で今回は、渋沢栄一の生きた時代、埼玉県はスケベとどう向き合っていたのか、を見ていきたいと思います
栄一がスケベだったのは二番目の奥さんも
栄一さんも論語とはうまい物を見つけたよ、あれが聖書だったらてんで守れっこないものね(性道徳に厳しい聖書だったら身が持たなかっただろうということですね)
こう言っているので間違いないのですが、そればかりではなかった、かもしれません、どうぞ最後までお付き合い下さいませっ
大河ドラマ青天を衝けの中に、栄一が商業施設の女性を部屋に連れ込みチョメチョメしてしまうという場面がありました
この場面を見て「浮気だあ」と憤った方、考えてみて下さい
従業員の女性を強引に連れ込みチョメチョメする
完全に犯罪ですね
いくら明治時代の初期であっても、栄一が政府のどエライ高官であっても、当たり前ですが許される事ではありません。つまりこれはそもそもが
エッチなお店に居た
ということですね。たぶん遊廓と呼ばれるところであったろうと思います
旧埼玉県には、こっち側ですね、江戸時代より、中山道・日光街道・日光御成道の三街道に沿って多くの宿場があり、そのほとんどの宿場に飯盛女と呼ばれるスケベを担当する女性の存在がありました
このスケベな存在を旧埼玉県は不思議なくらいの情熱を持って廃絶させようと動くのですが、その前段として
マリヤ・ルーズ号事件
と呼ばれる出来事がありましたのでお話しておきますね
マリヤ・ルーズ号事件とは、ルーズ号が清にて231名の苦力(クーリー)労働者ですね、を購入し帰国する途中、船の故障で立ち寄った横浜にてクーリー一人が虐待に耐え切れず逃走、イギリス軍艦に逃げ込み、イギリスから明治政府に連絡があり「人身売買」としてルーズ号の船長を裁判にかけたという事件です。明治5年です
この時、ルーズ号の船長の弁護人が
日本にも芸娼妓という人身売買の事実が存在し、彼女らは奴隷同様自由を拘束されているではないか
この裁判の三か月後でした、明治政府は人身売買禁止の布告、いわゆる芸娼妓解放令を発布します、が、司法省省令の中にこのような文言があります
娼妓・芸妓は人身の権利を失う者にて牛馬と変わらない。人間が牛や馬に借金の返済を求めるのも変な話であろう
スケベに従事する女性は人間ではない、政府が言いきっていますね。つまり芸娼妓解放令は人権尊重の立場から出たものではなく、文明国を目指す明治政府が
日本の恥になるからやめるべき
外国の体面という政策上の都合から出したものでした
司法省といえば江藤新平ですが、何かと立派と称えられる彼であってもこの程度の認識だった、ということは時代の背景として強く注目しておきたいと思います
それはともかく芸娼妓たちは解放はされましたが、彼女たちは牛や馬と同じ物という扱いです。中には再出発を誓った方も居たとは思いますが、じゃあうちで働きなよ、とか、田舎に帰ってテキトーな男と結婚でもすっかなー、みたいな感じにはならない、望んでも叶うケースは稀でした
結局は受け入れる態勢が無く、解放令の趣旨とは反対に、かえって生活が苦しくなり自殺をするもの、個人的に売春を始めるものなどが続出したため政府は翌明治6年、娼妓制度は長年の伝統的風習であり全廃することは容易ではない、よって
その存続については県に任せる
マリア・ルーズ号事件から、芸娼妓解放令、別名「牛馬きりはなし令」、そして「やっぱりムリ県にまかせる」までわずかたったの一年。何もかもが振り出しに戻り、各府は、営業場所を限定する、免許制にするなどをして、エッチなお店を公認していくことになりました
しかし旧埼玉県だけは
断固としてエッチなお店の営業を認めず、モグリのお店についても厳しく取り締まっていきました
もちろん商売あがったりのエッチなお店からは「他の県はOKになのになぜ埼玉県だけが」訴えが続出しました
特に蕨
ちょっと説明しておくと大きな川沿いの宿場町は品川なんかもそうですけどスケベの規模が大きくなる傾向があるんですね。雨が続くと川が渡れない、旅人は時間を持て余す、スケベしたくなる
特に蕨は地形的なものがあり他にこれといった産業がなかったためスケベの廃止が大きな問題となりました、が、これらの訴えについても
論外である
白根県令がなぜここまで厳正にエッチなお店を廃絶しようとしたのか、彼の胸の内までは分かりかねるのですが、とにかく旧埼玉県はエッチなお店の無い全国初の廃娼県としてのスタートを颯爽と切ることになななな
ならないんですねwww
西宝珠花だと?
明治8年、千葉県に属していた松伏町や西宝珠花など42村が旧埼玉県に移管されることになったんですね。なぜこんなことになったのかを一言でいうと「江戸川の西側は埼玉県とする」なのですが、せっかくなのでもうちょっと詳しくお話ししておきます
江戸川は寛永年間、赤堀川のもろもろを改善するため関宿より開削された人工河川です
この時、江戸川が下総国に属していた宝珠花村をまっぷたつにしてしまったため、西と東に分かれる、で、明治期にこのようになりました
江戸川の開削は、東北からの船が銚子から関宿経由、江戸へ向かう航路を開く結果となり(房総沖の荒波を避けることが出来るんですね)治水のみならず、この地域の開発や発展に計り知れない恩恵をもたらすことになりました
中でも宝珠花は、一説に「船の帆を乾かす場、帆干し場、ほほしば、宝珠花」というくらいなので、江戸川水路のランドマークとしと栄えたのでしょう。多くの船が集まり、船乗りの疲れを癒す場として大いに繁盛します
となれば当然(ムフフ)
エッチなお店もたくさんあったということですね。つまり千葉県は~
公娼県!
なのに!
西宝珠花のエッチなお店の経営者たちは旧埼玉県に移管されたとたん「年内いっぱいで廃業するように」申し付けられてしまいます。当然彼らは困惑し、埼玉県庁を訪れこう訴えました
我々は自分の意思で埼玉県に来た訳ではない、政府によって成されたことである故、例外として認めてもらいたい。税金は千葉県同様に納める
この訴えを受けた旧埼玉県は「認めれば前例になる、かといってバッサリ処理するのもかわいそう」議論は重ねたようですが、結論は出ず
黙認、という形で営業を許可することになりました。そしてその翌年の
明治9年8月21日
荒川の西側に設置されていた熊谷県が廃止
旧埼玉県と合併、ほぼ今の埼玉県が成立します
この出来事は廃娼県を目指す埼玉県にとって大きな意味を持つものでした
熊谷県には中山道最大のスケベタウン、深谷の存在があります
熊谷県は合併一年前の明治8年の年末に「娼妓並貸座敷渡世規則」を設け、深谷と本庄のエッチなお店に正式に営業許可を出していました
貸座敷という文字が入っているのは、人身売買が禁止されたため、店はあくまでも「個人の意思で売春をする女性に座敷を貸すだけ」という業態を装ったからです
もちろん個人の意思とは言っても彼女たちからの搾取は解放令前と何ら変わってはいませんでした
このため埼玉県は明治10年1月、深谷・本庄に限りスケベの営業を許可
深谷・本庄の誇るスケベの規模の前に、敢えなく公娼県に後退してしまうのでした
栄一の話に戻ります
この業界に身を沈めた女性にとって、ここから逃れる方法は、自殺や心中、性病や過労による病死、または廃人化という悲劇以外にはありませんでした
栄一は深谷の人ですから、お千代と一緒になる前に深谷のエッチなお店にもちょこちょこ遊びに行っていたと思います。いや、行かないはずはありません
その中で馴染みの遊女が30歳前後で命を使い果たすという光景も、幾度となく目の当たりにしてきたことでしょう
栄一のしたことは確かに浮気です。けれど遊廓という苦界から一人の(この後もっともっと増えるけど)女性を救ったというのもまたひとつの側面
なので言いたくなる気持ちは分かるのですが、栄一は種馬とか、全自動種まき機とか、私はちょっと言い過ぎなんじゃないかなーと思ったりもするんですよねえ(そんなこと私しか言ってないですかねえ)
春日部市になった元庄和町西宝珠花に、当時の繁栄を偲ばせる遺物はほぼ何もありません。というか町の位置すらも、明治期の位置とは異なっています
今回の物語に登場した西宝珠花はこの位置、今の江戸川河川敷にありました
江戸川の堤防を整備する際に、街全体が移転の対象になってしまったんですね。現在の位置までは曳家く、建物をそのまま引っ張るという手法で移動をしたそうです
西宝珠花が衰退した理由は、ひとつは東武鉄道の開通でした
鉄道の開通によりトラックなどの陸運も発達、船運の利用が激減しました。これはどこの河岸場も同様ですね。もうひとつは、少し下流、流山市のこちらの運河です
深井新田に運河が作られたことで、銚子からの船が関宿を経由せずに東京に出られるようになってしまったんですね
店への客足はピタリと止まり、エッチなお店はほぼ自然消滅の形でその姿を消していきました
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