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調神社より旅立つ君に想いを馳せて【さいたま市浦和区】

もたもたしてるとあっという間に年が明けてしまいそうな年の瀬なので前置きなしで行きますね!

今回は初詣に赴く方も多いであろう埼玉屈指の人気神社

うさぎさんの出迎えてくれるこちらの神社について見ていきます!

あ、今しらべじんじゃって読んじゃいました?

そうですよね、正しく読める方なんてさいたま市周辺にしか居られないですよね

調の字は「つき」と読みます

つまり正しくは「つきじんじゃ」なのですが、浦和民につき神社と言ってもほぼほぼ通じないので、私も浦和民と同じように「つきのみやさま」と呼ばせていただきます。読みにくいとは思うのですがココはホントに通じないので

ではなぜ調の字を「つき」と読むのか

これは単純です、調の字は訓読みで「つき」と読むからです。お手元のスマートフォンで「つき」を漢字変換してみて下さい、うんなんか変換できなくなってますね、ちょっと前まで出来たんですけどね。厳密に言うと「つき」ではないことがGAFAにバレちゃったんですかね

つきのみやさまは神社にあるべきはずの鳥居がないことでも知られています

地域で採れた米や布はつきのみやさまに集められ、神宮とあるので伊勢なのでしょう、はるばる三重県まで運ばれていきました。その搬入搬出の妨げになるとの理由で、鳥居は取り払われたと由緒書きにあります

ただ米や布を搬入するのに鳥居って邪魔になりますかね?

ここは私の完全なる妄想なのですが、馬が多くいたんじゃないかなと思うんですね。米や布が主な税であったのは間違いないのですが、どの地域でも稲作が出来るわけではありませんし、布を織る、その前段階の繊維を糸にするという工程は誰にでも出来る簡単なものではないのだそうです。塩や魚、紙や鉄、染料、薬草、瓦、アカネ、ベニバナ、ムラサキ等に代替される場合もありました

浦和は駒場や大牧という地名から、古代、馬を生産していたと考えられていますので、足立郡は年貢として馬を納めていた。馬であれば鳥居が邪魔だった、なんとなくですけどね、理解できるような気もします。馬が年貢だと良いですよね、馬に荷物を運ばせてそのまま置いてきちゃえば良いんですからねw w w

つまり「つき」とは貢物のつき、年貢の貢

みつぎなら一発で調にも貢の字にも変換されますので、調神社を略してつきじんじゃ、それを親しみを込めつきのみやさまと呼んでいるということですね

うさぎさんがたくさんいるのでmoonの月に由来がある、そう信じている方も多いのかなと思うのですが、月もうさぎさんもどうも後付けのようですね

かわいいけど、けっこうでかいすよね www

うさぎ汁ブシャーーーーーーーーー!!!

以上が、調べ神社と書いて「つきのみやさま」と呼ぶ理由です。知らなきゃ読めない難読地名ですが知ってしまえばどうってことはないですよね。あースッキリした

え、スッキリしない!?

調の字のどこに貢物要素があるのかって!?

おっと、これは日本史の授業で習いましたよ~

調とは~

租庸調(So-Yo-Cho)の調ですYo!

それでは租庸調についてざっくり説明しますね

租庸調とは律令で定められた租税制度。租は主に米、郡の正倉に納められ国府や郡の財源、行政費にあてられた。今でいう県税、市町村税ですね

庸は都での労働。ただ埼玉から都へ赴き労働するのはちょっと無理なので労役に替えて物納、米や布で納められた。調はその地方の特産物、武蔵国は主に麻で作られた布だった。調の布と書いて調布、麻布なんて地名も残ってますよね。有名な防人はまた別の税、雑ように含まれます

防人というと、九州まで行って兵隊をやるなんて大変だー、という印象が強くあるのかなと思うのですが、九州の海岸警備は757年に九州の人たちのみとなり武蔵国から赴くことは無くなりました。が、前回の田村麻呂が関係するのですが、これは対蝦夷戦争が激しくなった事による兵員確保が理由だったようです

しかもこの戦争は中央政府が蝦夷の人たちの農地を目当てに仕掛けた征服戦争でしたから、征服した土地には新たに中央政府側の人間を入れます。この政策により多くの埼玉県民が東北へと移住していきました。記録に浮浪人とあることからウッキウキで移住していったのではないかという先生もおられます

ところで前回よりエミシエミシ連呼しておりますが、決して良い言い方ではありません。抵抗はありますが他に言い方がありませんので、この後も使わせていただきます

防人は簡単な警備でしたが蝦夷戦争は戦争です。789年に起きた戦いでは蝦夷側は100人、中央政府側は3000人の被害を出しています。蝦夷が強かったからこそ、それを倒した坂上田村麻呂は英雄として書かれ、私たちはその歴史を教わった

最近よく思うんですけど、私たちは一体どこの国の歴史を学んできたんですかね。あ、話が逸れました

調は足立郡郡役所の機能もあったつきのみやさまに集められ、もちろん徒歩で伊勢神宮に運ばれました。租は地方税、調は国税ですからね

伊勢神宮まで何日を要したのかは分かりません

けれど律令とはいろいろ事細かに決めているのが特徴で、武蔵国、府中から京都までの往路は29日、復路は15日と定めていました。なのでそれに近い日数をときには野宿で歩き続けたのは間違いありません

難産に苦しんでいるご婦人はどこか! そなたか!

いえ私じゃないです…

そうか、すまんがこの馬をその松の木に繋いでおいてくれ

え、あ、はい…

いやあ可愛らしい男の子であった、な、曼荼羅効くだろコレ

日蓮さん、なんで浦和にいるんですか?

わしか? わしは佐渡に流されるところじゃ

2回目だっけ?

知らないですよそんなん

無事、伊勢神宮に到着し調物を納めました

とっとと埼玉、浦和に帰りたいと思ったことでしょう。けれど帰りの食料はどう確保すれば良いのでしょうか。役人たちは「手弁当で勝手に帰れ」というスタンスです

皆さんだったらどうします?

え、お金を持ってきて宿や売店で買う?

そうですよねえ、売店があったかどうかは分かりませんが買えるならそれがベストですよねえ

私の手元にある参考文献、といってもマンガ日本の歴史なのですが、そちらを見てみましょう

銭で米をくれないか?

なるべく布にしてくださいよ

うーん、お金はまだ都でもしっかり普及はしていなかったようですねえ。しかも布とはつまり反物です。麻であれば幅80センチ、長さは庸なら5メートル、調なら10メートルなど、やはり律令で細かく決められていました。切って使うということが出来ないんですね、どうしてたんですかね

携帯食を持っていく? 一ヶ月半分をですか?ちょっと現実的ではない気もしますけど

さあ乾飯だ旅は長いから少しずつ食べよう

この分だと都についても帰りの飯がないぞ

確かに参考文献にも記述がありますね。乾飯とは炊いたお米を天日で干したもの。ほしいい、米へんに備えるの右側にも変換できますね(糒)現実問題、この方法しかないのかもしれません

幸いつきのみや様のそばには、焼いた米を出す店が数件あったので焼米坂という地名が残っています。焼米とは中山道を行く人のための携帯食、新米を籾のままいり、ついて米にしたもの。お湯をかけると膨らむというのですが、あんまり美味しそうじゃないですよねえ、あ、焼きおにぎりだと思ってました? 私はチャーハンみたいなものをイメージしてました

意を決し帰路についたところで野垂れ死ぬのは明白です。それなら都で物乞いでもしていたほうが余程まし、私でもそう考えてしまうかもしれません

初詣だけではなくインスタ映えでも評判の、浦和のつきのみやさまです

租庸調に思いを馳せることの出来る場所など埼玉では私の知る限りココだけですので、立ち寄る機会があれば、かつてこの場所から重い荷物を背負い旅立った人がいたことを、そして帰ってこれなかった人もきっと多かったということを想像してみて欲しいなと思います

伊勢を目指す人は社を出て右、中山道を大宮方面へ向かったと思います。根拠は律令の定めた往路29日、復路15日、往路は復路の約倍の日数がかかっていること(東海道と東山道では東山道の方が距離があります)

年貢として納める荷物を背負っていますので濡れたらアウト、川の多い東海道は使えないという理由もあったかもしれません

防人でお呼ばれした方は、万葉集に神奈川県の足柄峠が登場するので東海道、戸田方面へ向かったのかなと思います

そしてもう一つ、明治10年に起きた西南戦争。埼玉県からも多くの方が、浦和で徴兵検査を受け(玉蔵院だったと思います)ここつきのみや様で埼玉県知事の訓示を受け、九州へと出征していきました。碑にそのお名前が深く刻まれておりますが、やはり戻ってこれなかった方も多くあったようです

それでは今年一年、ご視聴いただきありがとうございました、良い初詣、良いお年を

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