狭山市と入間市はなぜ名称が入れ替わったのか
入間市立狭山小学校
狭山市立入間小学校、跡地
狭山市と入間市はなぜ自治体名が入れ替わってしまったのか、今回はこの不思議に迫ります
昭和52年発行の書籍、狭山市の項にある記述です
この地方は万葉集では伊利麻路、和名抄では伊留未と書かれ入間の地名の発祥と言われた土地である。それが昭和29年、市政を施くに当り、なんと思ってか狭山市を名乗ってしまった
その後、狭山地方で狭山茶の産地が、やむを得ず入間市を名乗ったので、もう永久に市名が固定するであろう。入間市と狭山市は、おたがいに市名を交換すべきであるが、今となってはそれは困難なことであろう(抜粋)
私の思い込みではありません。狭山市と入間市は名称がアベコベに付いています
それでは!文字になっている歴史ではないので妄想も交えながらになりますがさほど外してはいないのではないかなと思います。どうぞ最後までお付き合い下さいませ
まず言ってしまいますが
狭山市は狭山ではありません
言い切っちゃいます。狭山市に狭山要素はほぼありません
狭山茶があるやんけ
ですね。しかし狭山茶の主産地はぶっちぎりで入間市、次いで所沢市。狭山市は3位です。狭山市が狭山を名乗る理由にするにはちっとんべえ弱いのかなと思います
西武狭山線ってなかったっけ?
ありますあります西武狭山線。ですがこの路線は西所沢駅と西武球場前駅を繋ぐ路線、狭山市はミリもかすっておりません
狭山ヶ丘駅があるやんけ
狭山ヶ丘駅は所沢市です。ついでに言うと狭山市駅は開業当初は入間川駅でした。住所も狭山市入間川です
そもそも狭山とはなんなのか。これは言うまでもありませんね
狭山とは狭山丘陵のことです
狭山丘陵を富士山や浅間山と同じ山、独立峰として捉えると分かりやすいかもしれません。狭山丘陵と狭山丘陵の麓、周辺が狭山
冒頭の入間市立狭山小学校は狭山丘陵を望む位置にあるので狭山
入間市博物館ALITのあたりに存在した飛行場は、太平洋戦争中ですね、狭山飛行場と呼ばれていました。住所も入間市狭山台入間市狭山ヶ原です。ほとんど狭山市にあるのに航空自衛隊入間基地、ここもおかしいですね。狭山小学校、狭山飛行場、いずれも狭山丘陵に接しておりますのでその名前に不思議な点はありません
ところが狭山市はこの位置
狭山丘陵にはかすってすらおりませんですね
以上の理由で「狭山市には狭山要素がない」言い切らせていただきました
ただ、こうなってしまったのは狭山市のせいでも入間市のせいでもまったくないような気がしていますので、経緯を見ていきますね
ちなみに狭山とは字のまんま、山に挟まれた地形という意味です。狭山湖と多摩湖は山に挟まれた谷を堰き止め作られている、西武ドームは山の上にありますね
先ずは昭和29年、入間市よりも先に狭山市が成立します
入間市はその2年後の昭和31年、豊岡村、金子村、宮寺村、藤沢村、西武町の一部が合併、武蔵町となり、その10年後の昭和41年に入間市として成立しました
さかのぼって狭山市は、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村
入間川町、入間村が合併。狭山市として成立しました
市名は狭山丘陵と市の特産物である狭山茶から採用したとあります
くっそややこしいです。狭山市の中に入間川町と入間村が存在する
狭山市の中の入間村にあった小学校だから狭山市立入間小学校。狭山要素の弱い現狭山市が狭山市を名乗り、入間要素が無いわけではないけれど(入間郡ですからね)入間川町も入間村も含まなない現入間市が入間市になった
くっそややこしいです
普通に考えれば入間川町入間村を含む現狭山市が入間市。狭山丘陵にあり、狭山茶の主産地である現入間市が狭山市ですからね
ナゼこんなややこしい市制がまかり通ってしまったのか
そのヒントが先ほどの
市名の由来は狭山丘陵と市の特産物である狭山茶から採用した
お茶の生産、狭山市は3位という話をしましたが、狭山市の狭山茶に対する執着、というよりも
狭山茶を県の特産品としてブランド化する
埼玉県の県としての野望が狭山市と入間市の後ろにあった、そんな気がするんですね。そうなると黒幕は埼玉県ですね
かつて狭山丘陵の中には、狭山市とも入間市とも何のカンケーもない
狭山村が存在しました。今の東大和市の一部ですね
狭山村は狭山市が狭山を名乗る79年も前の明治8年に成立しています。つまり狭山を自治体の名称として最初に採用したのは今の東京都
もう一度言います
狭山を最初に採用したのは東京都です
東大和市には狭山神社もあります
ちなみに住所も東大和市狭山です
狭山神社は東京都瑞穂町にもあります
瑞穂町にはさらに元狭山神社というのもあります
狭山丘陵の東京側には都立狭山公園(東大和市)もあれば、狭山池(瑞穂町)も、狭山平(瑞穂町)交差点もある
狭山を名のるべきは入間か狭山か、というような話でここまで来ましたが神社が三つもあるんじゃかないっこありませんね
狭山を名乗るべき自治体はどこか問題は
圧倒的に東京都に分がありそうです
しかも元狭山には
元という意味ありげな冠まで付いています
もともとの狭山はココじゃ!
そう言わんばかりの村名ですね
さらに東京都東村山市駅出身、志村けんさんもこんなことをおっしゃっておりました
東村山 庭先きゃ多摩湖 狭山茶どころ 情けがあつい
東村山市のアピールをするのに「狭山茶どころ」というフレーズを使っていますね
瑞穂町の狭山神社には「狭山茶場の碑」なるものまでありました
狭山茶も
東京都が
主産地だった
可能性がある
後編へ続く
狭山市と入間市は過去に数度「合併」についての協議をしています
直近だと平成の大合併ですね。国の後押しを受け狭山市と入間市もついに合併。新市名も決定し、平成18年の元日に新たな市としてのスタートを切る
というところまで行きましたが、市民の反対多数によりご破算となってしまいました
ご破算はともかく気になるのは新市名ですよね? 長くなっているので言っちゃいますね
新市名は~
狭山市です
あれ?って感じですよね
そんなにすんなり入間市を吸収させる形にして良いものなのか、違和感がありますよね?
これも大きなヒントだなと感じました
前提として入間市と狭山市は名称が入れ替わっています。入間市が狭山市を名乗れば確かにねじれ問題は解消される
つまり両市にとって一つの狭山市になることは積年の悲願
ということで
狭山茶の再興から
平成の大合併まで
史実を妄想でつなぎひとつのストーリーを作ってみました。土地勘のない方にはちんぷんかんぷんな話になっているかもしれません、そこはごめんなさいしておきます
江戸時代
狭山茶の起源は中世に作られていた河越茶だと言われています。やがてそれは廃れてしまいましたが、江戸後期に二本木村の吉川温恭らによって再興されました (瑞穂町郷土資料館けやき館解説より引用)
狭山茶の起源は川越茶。再興したのは二本木村の吉川温恭さんらということですね
江戸時代ですので東京埼玉などの概念はありません
けれど二本木村は入間郡、吉川温恭は後の埼玉県に生まれている。つまり
狭山茶再興の重要人物は埼玉県民
まずはこの点のみを確認し、明治時代に進みたいと思います
明治時代
明治8年 今の東大和市に狭山村が、厳密に言うと東京都ではなく神奈川県に成立しました。何を言っているのか分からないと思いますが、当時の人にもきっと分からなかったと思います
この頃の所沢市日比田の住所です
神奈川県北多摩郡日比田村
ちなみに狭山村の狭山は地形由来。山に挟まれた場所にある村ということですね
明治11年、前半の最後に触れた狭山茶場の碑が、箱根ヶ崎と近隣の人々の寄付を得て狭山神社に建立されました、碑にはこうあります
近頃村民が狭山池周辺の古茶園の後に茶園をひらき狭山茶を興そうとしているのはすばらしいことだ。諸外国と貿易が交わされる中で努力を重ね海外でも最上といわれるような狭山茶を産出してもらいたい
東京都瑞穂町周辺の村々が本気でお茶作りに取り組んでいた、ということと、お茶が輸出商品であったことが読み取れますね
入間市の出雲祝神社にも同じような碑があります。瑞穂町よりもずっと早い天保三年に建てられています
重ねて開く、お茶作りを再開したという意味ですね
前編の最後に
狭山茶の主産地は東京!? みたいな思わせぶりなことを言ってしまいましたが、これはどちらの碑が早く建てられたからどうのではなく
狭山茶の主産地は狭山丘陵の、気持ち埼玉寄り(吉川さん効果)
そう捉えるべきなのかもしれません。そう考えると東村山音頭もこの位置ですから腹落ち出来ますよね
入間市新久にある碑に北狭山茶場の文字があったので南北に分け区別していた形跡はあるんですけどね
明治22年 元狭山村の成立
二本木村、高根村、駒形富士山村、富士山栗原新田が合併し入間郡元狭山村が成立しました。入間郡元狭山村、大事なことなので二回言いました
そして西武池袋線の狭山ケ丘駅。大正四年に開業をしているのですが、開業当初は元狭山駅という名称でした、元狭山村とは全然別のところです
私は元狭山という場所が埼玉県内に二か所誕生したこの史実を「埼玉県が狭山という地名を獲りにいった痕跡」なのではないかと考えているのですが(調べ始めて四年目なんですけど)未だ根拠になる資料にめぐり会えておりません
なので私のこの仮説は今回の物語には盛り込みません(臭わせ資料でもあればそこから盛りに盛るんですけどねえ)
狭山という地名を東京埼玉で奪い合った的な話がもしあるのであれば教えていただきたいです
昭和29年、激動の合併劇が始まります
先ずは3月31日。広島県に「府中市」が成立
翌4月1日、東京都にも同じ名称の「府中市」が成立します
ただ、きっとこんな感じになったのでしょう
広島と東京の府中市、受理しちゃったけどやっぱり問題あるな
したら次のダブり案件はちょっと工夫しますかね
ちなみに次のダブりはどこだ
埼玉県の松山市ですね
ちょうど申請中だった埼玉県松山市が愛媛県松山市とかぶるとの理由で却下
東、松山市にされてしまいます!
東ってなんじゃい!
あっちは県庁所在地ですし温泉も立派なお城もありますしねえ
城ならうちにも松山城があるだんべよ!
ああ、あれ実は吉見なんですよ
あ、そうなんだ
埼玉県は震撼したはずです
埼玉県には県の特産品である狭山茶をブランド化するため、茶畑の広がる入間郡元狭山村、現入間市、現狭山市を合併「狭山市」にするという計画がありました
もし大阪府にある狭山村(現大阪狭山市)が先に狭山市を名乗ってしまったら
埼玉県東狭山市!
草加せんべいは草加市
深谷ねぎは深谷市
狭山茶は狭山市だ
このままでは東狭山茶になってしまう!
雑味がありますね…
埼玉県は一刻も早く狭山市を成立させねばならない状況に追い込まれました
ところが大大大事件が勃発します
元狭山村が東京都に編入!?
埼玉県のいったい何がイヤだったのか、元狭山村が東京都への編入を希望してきました
横田基地の拡張工事が関係しているという説がありますが確かなことは分かっておりません
埼玉県は東松山市の時以上に驚いたはずです。なぜならもし元狭山村を東京に取られてしまったら
元狭山村と現瑞穂町周辺が合併
東京都狭山市!!
もしそんなことになったら狭山茶を埼玉県の特産品としてブランド化するなどという構想はすべて水の泡。県の主要産業までもを持っていかれてしまう可能性が出てきます。狭山茶再興の父、吉川さんも都民
ここで埼玉県は
ねじれ問題の発端ともなる
恐るべき手段を思い付きます
入間を狭山にする以外に道はない
入間発祥の地である現狭山市は、いずれ現入間市と合併、狭山市になる予定。ならば! 先に入間村周辺を狭山市として成立させ、元狭山村問題が解決した後、改めて現入間市と合併、構想通りの狭山市にすれば良い!!
ということで昭和29年7月1日、狭山丘陵にはミリもかすっていない場所に入間村入間川村を内包した狭山市が成立、埼玉県は狭山という自治体名の確保に成功しました
9月1日、全会一致で元狭山村が東京都に編入
埼玉県は即「元狭山村問題対策協議会」を設置。奪還に向け動き出します
昭和31年 入間市の前身である武蔵町が発足
名前の由来は旧国名の「武蔵」からとったのだと思いますが、いずれ狭山市になることを見越してなのかモーレツにおざなりな感じがありますね
昭和33年 元狭山村の一部を奪還する
埼玉県は主に県道所沢青梅線の北側を取り返し武蔵町に編入させました。が、元狭山村の3分の2は東京都に編入されたまま。納得のいく結果ではなかったのかもしれません
元狭山村も同様だったでしょう
元狭山村は村の意思で東京都への編入を望みました。そんな元狭山村の一部を引っぺがすように埼玉県に編入させてしまいましたので、二本木地区には今も飛び地が多くあります
県道を走っている限りでは、飛び地が多くあることも、そんな歴史があったということもまるで分かりません
けれど県道179号線は、埼玉県、もしくは東京都の野望により元狭山村を南北に分断した、いわば元狭山の壁(ベルリンの壁みたいに言ってみました)
学区も別々になるなど大変なご苦労のあったエリアであるということを覚えておきたいと思います
昭和41年 武蔵町が入間市となる
旧郡名である入間郡からとった訳ですが、またしても若干おざなりですね
平成の大合併
平成18年の元日、狭山市と入間市は合併、新市名を「狭山市」とし新たな歴史を歩み始める、というところまで決まりましたが、結局は実現しませんでした
現狭山市は、いずれ入間市と合併、改めて「狭山市」を名乗ることを前提に狭山市を名乗っています
市の名称は狭山丘陵からとった、も合併が実現すれば伏線回収です。入間市にとっても狭山市と合併、狭山市を名乗ることは昭和29年以来の悲願
けれど月日が流れすぎてしまったのかもしれません
経緯を覚えている方もすでに現役をリタイアされているでしょうし
狭山市と入間市が逆さまになっていることに疑問をお持ちの方にも私は出会ったことがありません
狭山市の入間地区も平成21年、ややこしいとの理由から入曽地区に改められました。そして平成23年、狭山市立入間小学校も廃校となってしまいました
なのでまたもし合併話が出たとしても、令和の大合併は規模も大きくなるでしょう、すんなり「狭山市」に決まることはもうないのかもしれませんね
以上、狭山市と入間市はなぜ名称が入れ替わってしまったのか。長くなってしまいましたがご覧いただきありがとうございました。改めて私の妄想も多く含まれているということをお知りおきくださいませ。それではまた
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