文庫君鉄オビあり

【75】君と夏が、鉄塔の上



 どちらが上下か分からない。それでも僕は無我夢中でもがいた。

 ようやく水面へ顔を出すと、風切音が耳の中に入り込んでくる。ついさっきまでの夕日が嘘みたいに、あたりはもう薄闇に包まれている。


 僕はとにかく川岸まで必死に泳いだ。川の流れは速く、息継ぎのたびに口の中に大量の水が入ってくる。やっとのことで荒川左岸へとたどり着き、息を切らせながら空を見上げる。

 荒川を渡る電線には、上と下の電線が風に煽られて接触しないよう、突っ張り棒のような相間スペーサーが取り付けられているのだけれど、それでも送電線は風に煽られ、うねるように揺れていた。

 帆月の姿はない。僕には何も見えない。

 まさか、本当に行ってしまったのか?

 もう、帰って来られないのか?

 焦燥感に襲われ、僕は帆月の名を叫んだ。声は風に跳ね返され、僕のすぐ側で消えてしまう。

 どうすれば─どうすればいい⁉

 何も分からない。僕には何の力もない。どうすることも出来ない。

 僕はその場に膝を突き、ただただ揺れる送電線を見上げていた。

「伊達!」

 吹き荒れる風の中を縫うように、声が聞こえる。

 振り返ると、こちらに駆けて来る比奈山の姿があった。

「比奈山……?」僕は縋るような思いで立ち上がり、比奈山の元へよろよろと歩み寄る。

「どうした。何があった?」

「比奈山、どうしてここに……?」

「二人とも公園に自転車置きっぱなしだっただろ。何かあったのかと思ってその辺を探してたんだけど……帆月はどうした?」

 帆月、という言葉を聞いて、僕はハッと我に返る。

「比奈山、あの送電線! 真ん中あたり!」

 僕は風に揺れる送電線を指差した。

「帆月が見える? 見えない?」

「いや……とくに何も……見えないぞ」

「そう……か」僕は力が抜けてしまい、膝から崩れそうになる。比奈山は咄嗟に腕を伸ばし、僕の体を支えた。

「何だよ。何があった? 帆月はどうした⁉」

「帆月が……行っちゃったんだ」

「何言ってんだ? ちゃんと説明しろ」

 僕は必死に頭を働かせ、ついさっき起こった出来事を話す。比奈山はギュッと眉を寄せて聞いていたが、話が進むにつれみるみるうちに色をなくしていった。

「あの女……馬鹿か!」

 比奈山は吐き捨てるように言う。

「これが全部あいつの頭の中の出来事だったとして…………いや、それでも結局、あいつが帰って来ないと駄目なのか? あいつの見たものが本当だったとしても……同じなのか?」

「そんなのどっちだっていい!」

 僕はとにかくありったけの力で叫んだ。

「どうしよう……比奈山! どうすればいい⁉」

「どうすればって……俺に何が見えるわけじゃないし……」

 比奈山は唇を噛んだ。送電線の中央にあった鳥居を比奈山が見えてさえいれば、あるいは帆月を連れ戻すことが出来たかもしれない。けれど、僕にも比奈山にもそんな力は─。

 ……いや、見える奴がいる。いるじゃないか。

「椚彦なら……!」

 僕は駆け出した。

「おい、どこ行くんだ」背後で比奈山が叫ぶ。

「椚彦なら見えるはずなんだ!」

 見えるなら、帆月を連れ戻せる!

 人気のないゴルフ練習場を駆け抜け、土手を上がり、京北線94号鉄塔を目指す。比奈山はすぐに僕の横に追いつき「どうするつもりなんだ!」と声を上げた。

「椚彦に頼むんだ。あの子は神様だから!」

 正確には神様に近い存在であって神様ではないのかも知れないけれど、この際それはどうでもよかった。

 やがていつもの公園へと辿り着く。川に落ちたから服はびしょ濡れで、その上かなりの距離を走ったので、僕は汗だくだった。しかし、そんな不快さを気にしている余裕はない。

 公園はいつにも増して暗く、木々が風に揺られてざわめいている。

「椚彦!」僕は鉄塔の天辺に向かって叫んだ。

「頼む! お願いだ! 助けてくれ!」

 今までこんなに大きな声を上げたことはないかもしれない。喉の奥がヒリヒリと痛む。それでも、僕は構わず声を上げた。

 しかし、しばらく待ってみても、何の反応もない。

「おい、椚彦!」比奈山も叫んだ。

 けれど、椚彦が顔を見せることはなく、灰色の空の下には鉄塔がぽつんと立っているだけだった。

「僕の声じゃ駄目なのか? 帆月でないと……」



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