文庫君鉄オビあり

【73】君と夏が、鉄塔の上



「みんな、忘れられるために歩いてるの」

「忘れられるって、どういうこと?」

 彼女の顔は逆光で影になってしまい、その表情が窺えない。

 帆月は続けた。

「記憶は、一杯になると、古い物、大事じゃない物は忘れていかなきゃいけないでしょ? そうしないと、頭の中が溢れちゃうから」

「それは……」

 確かに、そういうものかも知れない。僕らはただ生きているだけで、常に新しい物が頭の中に入ってくるわけだけれど、同時に、いらない物をどこかに捨てていっているのかも知れない。

「あれは……もういらないって判断された物たちなんだ」

「もう、いらない?」

「うん。神様なのか、人間なのか、誰が決めたのかは分からないけど……覚えておく必要はないって判断された物たちなんだよ。それをこうして川に流して、海に返して、忘れさせるってことなんじゃないかな」

 僕は再び、次々と川へ飛び込んでいく物たちに目を向けた。

 帆月の言葉が正しければ─彼らは忘れられる。もう、誰も彼らを必要とはしていない。

 彼女の言っていることは正しい気がした。

 そして、彼らにもそれが分かっている─ような気がしてしまう。自分たちが忘れられていくことを良しとしているのか、それとも本当は嫌なのか、それは僕には分からない。そもそも物に感情なんて無い─そんなことは分かっているはずなのに、僕は彼らの思いを探らずにはいられなかった。

「すごいね」

 隣に座る帆月が小さく呟いた。心なしかその声が震えているような気がして、僕は思わず彼女の顔を見る。

 夕日に染まる帆月の頬に、一筋、涙が流れている。

 しかし、悲しむというよりは、どこか笑っているような、不思議な表情だった。

 綺麗だな─と、僕は思った。心臓の鼓動が少し早く脈打ち始める。

「私ね」と帆月は言った。

「私ね、忘れられたくないと思ってた。でもみんな、私のことを忘れちゃう。私はそれが……嫌だったの」

 帆月はもう笑っていなかった。眉を寄せ、時折口をキュッと閉じ、今にも崩れ出しそうな、溢れ出てしまいそうなものを、グッと堪えている。

「……でもね、あの人たちのことを見てたら、やっぱりそれは仕方ないんだなって思えちゃった。忘れるものなんだね。忘れられるのが、普通なんだね」

 彼女が頬を拭う。そして、無理やり笑みを作ってみせるのだった。

 帆月はさっき、スッキリしたと言っていた。でも、ちっともスッキリなんてしていなかったんだ。もうずっと前から、ぐちゃぐちゃになっていたんだ。

 帆月が様々な部活を転々としていたのは、多くの人に出会って、少しでも自分のことを覚えて貰おうとしたからなのか。彼女の破天荒な行動も、もしかしたら、誰かの記憶に残るようにと思ったからなのだろうか。

 ─いや、多分、答えは一つだけなんかじゃない。色々な思いが重なり合って、絡み合って、それが帆月という人間を形成しているんだ。

 当たり前のことなのに。僕は帆月が思い悩んでいるなんて、この間まで考えもしていなかった。

 日が街の向こうへ沈むにつれて、暗い色の雲が、空を侵食するように広がり始めている。88号鉄塔に赤いランプが灯り始め、送電線や川を歩く物たちは影のように黒味を帯び始めている。

 いつまでも続くかと思われた列の行進だったけれど、お祭りが必ず終わるように、夏休みにも必ず終わりの日があるように、そのパレードも最後の時が近づいているようだった。

 京北線の送電線に、物の列がやって来なくなったのだ。


 最後の列が荒川の水面下に没していくと、あたりは急に閑散とする。



今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 ここまで読んでいただけたことが、何よりの励みとなります! もし、ご支援をいただきましたらば、小説家・賽助の作家活動(イベント交通費・宿泊費・販促費など)にありがたく使用させていただきます。(担当編集・林拓馬)