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ドクターコール

前回のチェロレッスン後、チェロ師匠に

「お前にチェロコンクール出場の話が来てるんだけど。」

と言われた。

私が豆鉄砲を喰らったような表情をすると、先生が笑った。

「お前に、というと語弊があるな。ボクの門下で出られる人はいないかって話が来たんだよ。」
「センセの門下って、今4人しかいないじゃないですか。誰か出るんですか?」
「話はしたけれど、誰も出る気はなさそうだ。ボクは知り合いからお願いされただけで、何がなんでも出したいわけじゃないしね。もちろん本人が出たければ、全力で応援するよ。」

私の演奏レベルがとてもじゃないけれどコンクールに出るほどのものではないことは、先生が一番分かっている。揶揄われたのだと思う。

でも、この話が私が10代の頃、スポンジが水を吸うように先生のレッスンでメキメキ上達していた頃だったら、出たいと言ったかもしれない。それをきっかけに、音楽の道へ進むことも考えたかもしれない。

…そんなふうに考えてしまうのも、今、私が人の生死に関わる仕事から、とても逃げたくなっているからに違いない。本当に今更だけれど。

           ★

ちょっと話は逸れる。

公共の場で「お客様の中で、お医者さま、もしくは医療関係者の方はいらっしゃいますか。」というアナウンスを聞いたことがある人はどれくらいいるだろう。

いわゆる「ドクターコール」だ。

私は、片手で数えきれないくらいある。

同僚に聞くと、全くないという人のほうが多いから、私は「当たりやすい」らしい…宝くじだったらいいのに。

私が当たった中で一番多いのは、新幹線内。
こういう時、名乗り出る義務はない。
私は一度目のコールは様子見する。二度目は「ホントに誰もいないの?!」と訝しみながら、おずおずと名乗り出る…。

休日、普通にお買い物を楽しんでいたら、目の前の人が倒れたこともあった。

また、歩いていたら目の前で車と人の接触事故に遭遇し、咄嗟に救助に当たったことがある。
間も無く救急車とレスキューが到着したのだが、ちょうど「レスキュー密着24時」的な番組スタッフが取材中だったらしい(被害に遭われた方の怪我は幸い大したことはなかった)。
そんなことがあったのも忘れた数ヶ月後、たまたまその全国ネット放送を見ていた子どもたちが

「ああー!お母さんが映ってる!!」

と気付き、録画していた。
帰宅後見せられると、確かに救急隊員と話をしながら救急車に乗り込む私が映っていた…。
翌日、番組を観た同僚たちに「夜先生、全国デビュー!」と、大いに笑われた。

趣味のパラグライダーでは、かなり当てにされるし、実際に救助に当たったこともある。
(パラグライダーは安全なスポーツなので、滅多にないですよ。)

           ★

そんな中、私が一番困ったのは、飛行機内でのコール。

学会と研修のために、一人、カナダ行きの飛行機に乗っていた。
しばらく日本へ帰れないため、私は飛行機に乗るギリギリまでかなり忙しく仕事をしていた。
数日まともに寝ていなかったが、「飛行機内でゆっくり寝よう♪」と思っていた。

飛行機が太平洋上空を飛んでいるときに、ドクターコールが。
私は機内食をたっぷり食べ、眠りを貪ろうとアイマスクをしたところだった。

もう疲労の限界、私は寝るもん!

毛布に包まった…が、日本語と英語のコールが何度も繰り返される。

医者、ホントに居ないのかよ?!

私は、毛布を畳んで、眠い目を擦りながら客室乗務員に声をかけた。

患者はアメリカ人の女性だった。
エコノミー席で苦しそうに前かがみになっていた。隣には泣きそうな顔で女性の背中を摩る旦那さんが。
今よりずっと若かった私。中高生に見えたようで、旦那さん、「Oh my goodness!(なんてこった)」と呆れたように言った。

ともかくも、診察。
飛行機内でできる処置など限られている。
ここは太平洋のど真ん中。着陸できるところもない。目的地まではあと6時間ほど。
命に関わる病気だったら…私、大いに焦る。

しかし、幸いにして、食べ過ぎによる食あたりと思われた。

横になって休めると良い、と言うと、ビジネスクラスが空いているからということで、夫婦はそこへ案内された。

私も側にいて欲しいとのことで、エコノミーから移動。
初めてのビジネスクラス!
個室で広い!横になれる!テレビ画面デカイ!ジュースもお酒もおつまみも選び放題…状況が状況だけに、泣く泣くお酒は遠慮した。

女性の様子を診るために、とてもじゃないけれど眠れなかった。
朝には女性もだいぶ回復していた。
私の朝食は、陶器のプレートでフルコースが振る舞われた。お礼だったらしい。ワインもいただいた。

飛行機がバンクーバーに着くと、念のため、女性と旦那さんは待機していた救急車で運ばれた。

転んでもタダでは起きない私。
このトンデモ経験を研修始めの自己紹介でしたところ、とてもウケて、すぐに研修仲間と打ち解けられた。

子どもたちが言う。
「名探偵コ◯ンは、コ◯ンがいるから事件が起こるんでしょう?お母さんがいるから、トラブルになるんじゃないの?」

…そうかもしれない。

           ★

今、仕事でトラブルが続いている。
そんな中で、仕事とはいえ人の生き死にに関わるのは、私はとても疲弊するほうだ(淡々とマシーンのように仕事をする先生も結構いる)。

だから、「もし自分が音楽の道に進めていたら、こんな思いはしなくて済んだだろうに。」と思ってしまうのだろう…なんて、チェロ師匠に言ったら「音楽家の苦労を、お前はちっとも分かっていない。」と怒られそうだ。

きっと「楽な仕事」なんて、世の中にはないんだろうな。