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日大闘争と「日大の体質」

(※日大アメフト部員の薬物事件にともない、あらためて1968年に起きた日大の約二〇億円におよぶ使途不明金事件当時からつづく日大の体質について振り返りたいと思います。『全共闘、1968 年の愉快な叛乱』の著者である三橋俊明さんにご許可をいただき、『現代の理論』2022年の春号より以下の文章を転載させていただきます。=編集部)

文筆家・『日大闘争の記録-忘れざる日々』編集人
                            三橋 俊明


[ 1 ]  日大の体質

日本最大の私学である日本大学で、金銭にまつわる不正が発覚した。アメリカンフットボール部が2018年5月に起こした「悪質タックル」につづく不祥事だった。
東京地検特捜部は、2021年10月7日に日本大学理事の井ノ口忠男と大阪の医療法人錦秀会藪本雅巳理事長を、日本大学医学部附属板橋病院の建設工事や医療機器購入に伴う背任容疑で逮捕し、11月に起訴した。
続いて11月29日、日本大学理事長の田中英寿を所得税法違反の疑いで逮捕した。
田中英寿は、逮捕後の12月1日に理事長辞任の意向を示し、同日の臨時理事会で了承され、加藤直人学長の理事長兼務が決まった。3日の定例理事会では理事解任決議案が可決され、15日に評議員職も解職、22日に校友会会長職も解任され、全ての役職が解かれた。
12月17日の『朝日新聞デジタル』は、「日大の田中前理事長を脱税容疑で告発 東京国税局査察部」との見出しで「査察部の発表によると、田中前理事長は2018年と20年に日大の関連業者から受け取ったリベート収入など計約1億1800万円を税務申告せず、計約5200万円の所得税を免れた疑いがある」と報じた。
だが12月23日の「ヤフージャパンニュース」は、「日本大学の病院建て替えを巡る金銭授受事件は、理事だった井ノ口忠男被告が背任で起訴された一方、理事長だった田中英寿被告は「脱税」での起訴にとどまり、捜査はこれで終結する見込みだ。日大から業務を受注する業者から「お祝い」などの名目で多額の金銭を受け取っていても、理事長としての「職権濫用」の責任は問われず、所得を申告していなかったという罪だけが問われるという幕引きになりそうだ。日大は田中被告との「永久決別」を宣言しているが、逆にいえば、この事件は田中被告「個人の問題」だと言っているに等しい。これで日大の体質は変わるのか」と『デイリー新潮』の記事を伝えている。
「変わるのか」と指摘された「日大の体質」。
「悪質タックル」につづき理事の背任や理事長の脱税によって明かされ、田中英寿被告が象徴することとなった「日大の体質」とは?「遺伝と環境の相互作用によってつくられる」(百科事典マイペティア)と解説される「体質」を築いてきた日本大学の「遺伝」と「環境」とは、果たして何なのか。

[ 2 ]  理事長・田中英寿と会頭・古田重二良

時代を下ること五十数年前の1968年4月15日、源泉所得税調査で日本大学に「二十億円の使途不明金」があると東京国税局が公表した。『読売新聞』の見出しに「ヤミ給与、脱税も? 日大あいまいな20億円 国税局が調査」の文字が躍った。その直後、経済学部会計課長の蒸発事件が起こり、理工学部会計課の女性徴収主任が自宅で首つり自殺していた事実も報じられ、世間を騒がせた。
2021年に理事の背任や理事長の脱税によって明かされていった「日大の体質」は、1968年には「日大あいまいな20億円」と報じられた不祥事の主人公、会頭の古田重二良によって象徴されていた。
日本大学の理事長・田中英寿と会頭・古田重二良。この日大出身の二人は、共に東北で生まれ体育会系学生として活躍し、日本大学に就職して頭角を現し、独裁者への階段を昇っていった。
田中英寿は、青森県北津軽郡金木町で農家の三男として生まれ1965年に日本大学経済学部に入学し、卒業すると日本大学農獣医学部体育助手兼相撲部コーチに就任する。1999年に学校法人日本大学理事、2000年保健体育事務局長、2001年校友会本部事務局長、2002年学校法人学常務理事、2005年に校友会会長となり、2008年から2021年まで学校法人日本大学理事長を歴任した。相撲部では3年生のときに学生横綱となり、1969年70年74年と3度アマチュア横綱となって34のタイトルを獲得し1980年に現役を引退した。1983年から相撲部監督に就任し、大相撲に卒業生を送り出すなど人材育成に務めた。1994年には財団法人日本オリンピック委員会(JOC)理事に就任し、後にJOC副会長を務めたが、広域暴力団住吉会会長や山口組組長らとの交際が発覚し辞任した。
古田重二良は、秋田県秋田市に生まれ、日本大学専門部法律科へと進学し、学生時代は柔道部主将として学業より柔道に専念した。1926年(大正15年)に日本大学高等専攻科法律学科を卒業すると現在の理工学部(当時は日本大学高等工学校)の職員となるが柔道師範も兼務していた。1945年(昭和20年)に日本大学本部の事務長に、1949年12月には理事長となり、1958年6月、会頭に就任する。
会頭となった古田重二良は、各地に付属高校を増設して学園を拡大し、大学、高校、中学を合わせて14万人に達する「マンモス学園」を築いていく。その一方で、在学生対策として政治活動を一切禁止し学生組織を全学連に加入させず、職員の組合活動を認めないなどの独裁体制を敷いていった。1958年に大学審議会会長に就任すると、当時首相だった佐藤栄作を総裁に「日本会」を結成し、政界との太いパイプも確立していった。
だが1968年の春、古田独裁体制を大きく揺るがす出来事が勃発する。
「20億円の使途不明金」に端を発した日大闘争が、神田三崎町を舞台に沸騰したのだ。

[ 3 ]  日大闘争を沸騰させた「遺伝」子

全国紙やTVニュースでも報道された「使途不明金」をはじめとする不祥事に、1968年4月~5月にかけて日本大学の学生から異議申し立ての狼煙があがった。
5月23日、「栄光の200メートルデモ」が決行される。
5月27日、経済学部校舎前を横切る白山通りの路上で、議長に名乗り出た秋田明大によって日大全共闘(日本大学全学共闘会議)の結成が宣言され、日大闘争の熱気は全学部バリケードストライキへと一気に沸騰していった。
後に私はこうした日大闘争の経験を記録しようと日大全共闘書記長の田村正敏と無尽出版会を設立し、1973年に『無尽』を創刊して四号まで刊行した。また2011年から副議長の矢崎薫を発行人とする『日大闘争の記録-忘れざる日々』十巻を編集人として2020年まで制作してきた。自力で執筆・編集・発送を続けてきた記録本づくりはひとまず終刊したが、日大闘争の様々な経験を毎号800名ほどの読者に送り届けることができた。
記録づくりとともに当時のビラ・旗・ヘルメットなど第一次資料の収集や整理にも取り組んだ。集められた一万五千点余の資料は国立歴史民俗博物館へと寄贈され、2019年に開催された「『1968』無数の問いの噴出の時代」の展示資料として一般公開された。
だが、記録され寄贈できた資料は、日大闘争のほんの一部分でしかなく、十分な成果には達しなかった。それでも私は、記録づくりを通して日大闘争の重層性や他者にとって忘れざる経験が何なのかを、多少は知る機会を得たように思う。
例えば、日大闘争への助走路となった暴力事件の顚末を、秋田明大議長へのインタビューから知らされた。秋田明大議長は「そもそも日大闘争を起こそうと思った切っ掛けは何だったんですか」と問う私に、こう話してくれた。

「秋田 1967年に経済学部学生会が主催した新入生歓迎会のときに目の前でね、許せん事件が起こったからなんだ。私が進学した経済学部では、その頃はサークルを中心にして大学のなかで活動をしていたんだよね。そのサークルの一つを運営していた学生会の藤原執行部が、その年の4月20日の新入生歓迎会で暴力的に弾圧される場面を見ていて、この大学は情けないいうんか、どうしようもないなっていう思いを強く持ったんだ。あの時は、講演に来てくれた羽仁五郎さんも少しやられたんじゃないかな。そりゃあ、めちゃくちゃでしたよ。20人ぐらいの学生を黒い学ランを着た応援団や右翼の連中が大勢やってきて、会場の大講堂で講演を妨害したうえものすごい暴力を振るったんだよね。(中略)ショックだったよね。暴力がまかりとおる日本大学を変えなくちゃならないと思って学内で運動を始めたのは、その事件が切っ掛けだったんだ。」(『日大闘争の記録―忘れざる日々』第8号P15~16「全共闘はみんな自分で決めていた」より)

1968年当時、日本大学は「20億円の使途不明金」を指摘されるほど腐敗していたが、他にも欠陥や問題点を抱えていた。例えば会頭の古田重二良は、日大が学生運動のない大学だと自慢していたが、校舎や大学周辺では高い詰め襟の学生服を着た応援団や右翼体育会系学生たちが大手を振って闊歩し、赤い服の学生に「お前、アカか」といって脅すような環境だった。大学当局は日大で学ぶ学生の自由な活動を「暴力」によって萎縮させる行為を容認し、支援もしていた。大講堂での授業はいつも定員を上回り、休息できるキャンパスなど何処にもなかった。
そんな日本大学の「暴力」を背景にした学生支配に、多くの日大生が不満を抱きながらの大学生活をおくっていた。日大闘争が沸騰するまで、学生たちは秋田明大と同じように大学当局と右翼・体育会系学生が結託した威圧的な「暴力」支配を幾度となく目の当たりにして辟易としていたのだ。
1968年に日大闘争を沸騰させた日本大学のこうした「暴力」支配こそ、会頭古田重二良が築いてきた「日大の体質」だった。同様に「暴力」を背景に学生や教職員を支配する「日大の体質」を「遺伝」子として受け継ぎ、2021年まで独裁体制を維持してきたのが理事長の田中英寿だった。

 [ 4 ]  残された署名と拇印

秋田明大が「学内で運動を始めたのは、その事件が切っ掛けだったんだ」と語った「事件」とは、どんな出来事だったのか。「事件」は日大闘争が沸騰する前年、1967年4月20日の「新入生移行生歓迎大会」で起こった。
当日「事件」現場にいた森雄一は、こう証言している。

 あの日の朝、経済学部で突然行われた学生証検査体制下で、新入生歓迎の「羽仁五郎」講演会場に校舎裏口から400人もの他学部生を中心とした応援団、空手、ボクシング、相撲部等の者たちが秘かに入館し、講堂の前席を占拠していた。そして羽仁先生が登壇したとたんに「全学連に結集しろ-経済学部学生会」との偽ビラをばらまき、そのビラを手にした者たちが一斉に「ジジイ帰れ、赤殺せ」と叫び、壇上に押しかけて執行部員に暴行を始めた。(中略)
 部の先輩であり、我々の代表である学生会委員長と執行部員たちが「不定の輩、国賊」と彼らに罵倒されて殴られ蹴られ、校内のあちこちに小突き回された挙句、学生会室に閉じ込められて「学生会を解散する同意書」に強制的に署名させられた。 (『日大闘争の記録―忘れざる日々』第9号)

多くの学生の目前で起こった暴力行為を大学当局も無視できず、教授らによる調査委員
会がつくられ聞き取り調査が実施された。結果は、4月27日「日本大学経済学部・短期大学部」の名前で『学生諸君に告ぐ』と題され配布された。
暴力事件はパンフレットに都合良くまとめられ幕引きとなったが、調査委員会による聞き取り調査が同時に議事録として残された。その議事録が、経済学部闘争委員会によって校舎がバリケード封鎖された際に、大学当局が残していった資料の中から発見された。現在議事録は、国立歴史民俗博物館に日大闘争の資料として寄贈されている。
見つかった議事録の中に、暴力行為に加わった右翼・体育会系学生たちの証言と一人一人の署名・拇印が残されていた。その自筆署名者の一人として、当時まだ経済学部の学生だった田中英寿の名前と拇印が記録されていた。
先に暴力事件を証言した森雄一によると「その時の暴行現場写真があり、現田中理事長、現経済学部校友会会長も写ってリストアップされている」が、まだ見つかっていないという。だが議事録には、古田独裁体制下での暴力事件に加わっていた田中英寿の署名と拇印がしっかりと残されていた。暴行事件の確たる証拠として国立歴史民俗博物館に収蔵されている田中英寿の署名と拇印は、日本大学を金と暴力によって支配してきた「日大の体質」の「遺伝」子を、田中英寿が古田重二良から受け継いでいた証拠でもあった。

 [ 5 ]

 秋田明大や森雄一たちを日大闘争へと導いた1967年の暴行事件からおよそ一年後の1968年春、日大闘争は沸騰した。
4月から5月にかけ神田三崎町界隈の路上でデモや集会を続けた日大全共闘は、大学当局に「1全理事の総退陣・2経理の全面公開・3検閲制度の撤廃・4集会の自由を認めろ・5不当処分をするな」の五大要求を大衆団交を開催して認めるよう求めた。掲げられた要求は「学園民主化」だったが、一方で日大闘争は学生自治会とは異なる全学共闘会議を結成し、また右翼・体育会系の襲撃に備えて強固なバリケードを大学校舎に築き、ヘルメットとゲバ棒を装備した実力闘争として闘われた。
日大闘争は、6月11日の大衆団交要求集会に右翼・体育会系学生の暴力で応じた「血の弾圧」に抗議して法学部三号館をバリケード封鎖し、全学ストライキへと進撃し、夏休みを乗り越え、9月4日には法学部・経済学部への機動隊導入に徹底抗戦を挑み、9月の激動で機動隊を粉砕してバリケードを再構築した。9月30日の大衆団交では古田重二良が要求を認めて署名・捺印し、日大講堂に紙吹雪が舞うなか全共闘は勝利を手にした。だが10月1日、佐藤栄作首相の発言で大衆団交での確約は一方的に破棄され、バリケード闘争は継続されていった。その後、疎開事業が始まると機動隊によってバリケードは撤去され、日大闘争はそれぞれ学部ごとの取り組みへと分散し、闘争を担っていた全共闘たちも徐々に大学から社会へと散っていった。
日大闘争は、大学校舎をバリケード封鎖して籠城し実力闘争によってストライキを持続していく取り組みとしては、ゆっくりと終了していった。それは日大闘争だけでなく、全国の学園闘争や全共闘運動にもおとずれた終幕だった。そうした環境変化だけをとらえるなら、1968年を起点とした取り組みは終焉したのかもしれない。
私はその後1973年に『無尽』を1980年に津村喬と『全共闘-持続と典形』を2010年には『路上の全共闘1968』を出版するなど、日大闘争や全共闘運動の経験を様々な場面で記録しようと試みてきた。同じように、自らの経験を総括し記録づくりに取り組んできた仲間たちは多い。昨今では1968年を起点にした全共闘運動を、「戦後社会運動」という観点から位置付けようという歴史研究の流れも生まれている。
私が1968年の日大闘争で感じ考えながら手に入れた自由で愉快な自治空間や予示的関係は、今、どこに実現できているのだろう。そう思うとき、私にとって現在とは未だ達成されざる1968年なのだ。
だから今も私は、1968年を起点にした経験を記録する作業に取り組んでいる。
他にも、私が記録づくりを止めずにいる理由がある。
「日大の体質」にかかわる問題だ。
日本大学が、今もなを公式な記録として、正式な沿革としても、1968年を起点とした日大闘争について、何一つ「記録」していないことをご存知だろうか。今では国立歴史民俗博物館でも戦後史の一項目となった日大闘争を、日本大学は自らの経験として受け取ろうという姿勢をまったく見せていないのだ。驚きを禁じ得ないけれど、事実だ。
せめて「早稲田大学百年史」の「年表」に「4・15 国税庁が日本大学の経理に20億円の使途不明金があると発表,これに端を発して5月27日に日大全共闘が結成される」とある程度の歴史認識を日本大学に自覚していただきたいと思う。その日がくるまで、私としては記録づくりを止めるわけにはいかない。
日大闘争が日本大学の歴史として何らかの形で記録されることなしに、「日大の体質」は変わっていかないだろう。
その日が来るまで、記録づくりへの取り組みを、私の日大闘争として継続していこうと思っている。皆さん、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。


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