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19話-黄金の国ジパング平泉へ

みちのくのエスカルゴ号車旅

9日目 2022.04.16 / 10日目 04.17 その1

 みちのくのエスカルゴ号車旅 9日目は整備日を決め込む。
 整備の日だ。自衛隊で使われていた言葉。大きな訓練などの谷間に装備や身辺を整備し次に備えるのだ。休養の意味も持つ。昨日所望していた温泉などでまったり。

 その翌朝の旅10日目早朝、朱雀くんに送られ快晴の仙台を後にする。朱雀くんは私の終発直前まで、エスカルゴ号を点検し風防磨き、もとい、車の窓磨きをしてくれた。明野で私が供試機に乗り込む前後の朱雀くんの振る舞いそのものだった。ありがとう。

風防磨きありがとう!

黄金の国ジパングは平泉

 旅10日目の行進目標は平泉だ。
 この界隈で相次いで金の鉱脈が発見された。マルコポーロが黄金の国ジパングと見聞録に書いたし、東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏さん)が建立当時に金箔で覆うことができたのもそのおかげだ。もちろん平泉の、京の文化を凌駕するかのような仏の世界の具現化の源泉であった。

 本稿1話フォッサマグナ(⇦リンク)で見てきたように地球の皺でできあがった日本列島やその周辺に、貴金属やエネルギー資源がないわけがない。もう半世紀もたてば海洋からの採取技術と相まって日本は大資源国になっていよう。願わくばその時も祖国は私たちのものであり続けるように祈らずにはおられない。アイヌは日本民族ではないだとか、琉球もだ。敵対国家に土地を無警戒に購入させ、太陽光発電や風力発電の弊害をまともに考慮することなく、そんな輩に牛耳られる日本であってはならないのだ。旧来どおりのエネルギー流通を守ることで得られる、莫大な権益を守りたい内外の国と内外の人が日本の独自開発を執拗に阻んでいる。

「古都ひらいずみガイドの会」による平泉ゆかりの金山(⇦リンク)

中通りか浜通りか、ヘリコプターの場合

 エスカルゴ号車旅だが仙台から北上するに東北本線沿いのいわゆる中通りにするか太平洋沿いの浜通りにするのか。それは何処を経由したいかという単純な決心であったわけだが、ヘリコプターで移動するときには幾度も迷ったものだ。

緑線はあのときの飛行経路

 防衛「庁」で技術研究本部であった時代のことだ。同本部は空中のテストベンチとしてBK117ヘリコプターを保有し、全国の試験場や演習場でそんな試験のための飛行を行っていた。あのときは岐阜から北海道矢臼別へのフェリー飛行だった。土浦の霞ヶ浦で燃料補給し仙台の霞目飛行場への移動では降雪で有視界気象条件が維持できず機体の氷結がなかったので仙台から計器飛行承認を受けレーダーに引っ張ってもらい霞目に着陸した。
 霞目の運航管理所(BaseOperation)で天気資料を閲覧する。次の燃料補給は八戸なのだが雪止まず、先ほどの飛行で着氷の恐れなしと判断できるので、いざとなったら花巻も陸自の駐屯地もあるし、また前回のように途中から計器で八戸までの選択肢もある。そんな腹案で中通りを北上することにした。
 BaseOperationでは私たちのほかに八戸へ帰投したいとする、対戦車ヘリコプター×4と観測ヘリコプター×2の6機編隊のクルーがいた。私が北上の決心をしたら彼らが色めき立った。私たちの数分後を追随するという。八戸から天候偵察機を2機上げてくれるという。1機は一戸の南、奥州街道の最高標高点の十三本木峠方向に、もう1機は浜通りの久慈方面へだ。これはありがたい。私のヘリコプターは通常の機内増槽に加え機外左右にも増槽を抱いているが、対戦車ヘリコプターはそれはど燃料に余裕ない。
 霞目を離陸し古川までは順調だったけれど、降る雪がどんどん濃くなってくる。地上も空も右も左も白一色。だが奥羽本線の鉄道は明瞭に行く手を示してくれる。今のように地図がディスプレイにでてくれればだいぶ楽なのだが紙の地図しかない。
 一人が地図とにらめっこし、一人が線路を追いつつ飛行する。
 「10秒後線路左に変わる。進路330゜」
 「前方500m進路に直行する高圧線。更に減速」
 「高圧線視認。高度よ~そろ~」
 本当に雪が濃くなれば40~20ノット(20~10m/s)に減速して地線を追う。 こんな時、航空地図は余り役には立たない。自衛隊作戦用の地図が大変にありがたい。
  盛岡付近で、八戸から十三本木峠に向かってくれた天候偵察機から、この方面からの進入はできないと連絡が入る。一方、久慈の天候偵察機から飛行可能との連絡が。でも、そのためには奥羽本線中通りから三陸海岸へ、岩手 4000ft 級の北上高地を超えねばならない。
 後ろの陸自編隊は回れ右をすると思いきや、先行する我々を置き「後続編隊三陸海岸へ向かう」ときた。彼らにとってこの空域は云わば庭であり各峠などの最低安全通過高度や線状障害物は熟知しているから強気だ。
 こっちはそうはいかない。とりあえず機首を東に向け付近の最高標高をチェックして雪雲の上に出ることにした。私の機体には空中テストベンチとしてリンクレーザージャイロ方式の計測器を搭載していた。時代なのでGPSとのハイブリッドはないが、当時の大型機に搭載されていた畳一枚分より巨大で重かった慣性航法装置と同じことが弁当箱ほどの大きさの装置で実現できていた。その装置のウェイポイントを久慈東の海上にセットし参考情報とし、自分の推測航法の結果と参照する。
 久慈の海岸で雲が切れており、海面を視認し降下する。雲の下から西に戻り観天望気する。国道281号沿いの峠は空いている。そのことを後続編隊に伝える。ヘリコプター育ちの彼らは間違いなく峠を這ってくるだろう。ビンゴ!先頭機を確認した。その状況を久慈に北に在空している天候偵察機に通報、おっ、お迎え機は同期が操縦していた。声で分かる。彼は国道45号ではなく国鉄(当時)八戸線沿いに飛んで来い云っている。線路がトンネルを潜ってるのが恨めしい。用心しつつ低い山を超越したら輝く青い空と。そして我々を視認した天候偵察機は北に進路を変更せんと鋭く旋回した。そのとき同機の平面キャノピーが一瞬太陽光を反射した。きれいだ。
 国道方向を見れば真っ黒だった。国道方向に潜っていたら苦労しただろう。誘導ありがとう。

中通り北上、エスカルゴ号の場合

 とエスカルゴ号で仙台から北上しつつそんなことを思いだしていた。目的地は八戸ではない平泉だが、朱雀くんご推薦の経路上観光スポットを経由しつつ北上する。

厳美渓の方状節理と貞山桜

 先ずは厳美渓(げんびけい)。
 伊達政宗が松島とともに愛でた地であるらしい。仙台には2泊したが青葉城址にはいかなかったので、私の頭の中の歴史旅では本編13話の慶長出羽合戦(⇦リンク)のときの政宗像で止まっているのだが。この旅を折り返し南下するときには、短時間でも青葉城と松島は巡りたいと思いつつ。

 厳美渓は900万年前の火山活動で生じ、方状節理が発達した地形となった。高千穂峡の神秘的な柱状節理(⇦リンク)とは真逆に、岩だけでなく磐井川の水流までが荒々しい。磐井川の両岸の桜は満開だった。本当に期せずして桜前線を追いかける旅になっている。
 左岸(北岸)には政宗公自ら植樹された桜がが現存しているとされている。それで政宗公の諡号から貞山桜と呼ぶらしい。

厳美渓の方状節理と磐井川
磐井川左岸の桜

窟屋の毘沙門堂と枝垂桜

 さていよいよ平泉に近づいた。同一から南西6kmは達谷窟(たっこくのいわや)に寄ってみた。鳥取の投入堂(なげいれどう)ほどは急峻な地形ではないが、それでも標高差35mの断崖に建て入れられた窟屋の毘沙門堂だ。毘沙門堂のすぐ西(向かって左)の岩面には摩崖仏が彫られている。
 源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたがその鎌倉帰還の際この地に立ち寄り寺社を安堵した。安堵したと云えば藤原氏が残した平泉の文化財全般を安堵したのだが経済的な裏付けを与えず、結局は廃れゆくのだった。
 ここは枝垂桜が満開だった。

 平泉まであと 6km !

窟屋の毘沙門堂と摩崖仏
満開の枝垂れ桜の下で

みちのくのエスカルゴ号車旅目次ページへのリンク

https://note.com/saintex/m/m68537e104164


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