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13話-霞城最上義光と慶長出羽合戦

みちのくのエスカルゴ号車旅

7日目 2022.04.14 その1

最上氏の祖斯波兼頼(しば かねより)

 このシリーズ10話、上山(かみのやま)城址の稿(⇦リンク)で「南北朝の対立が奥羽にも色濃く及んでおり、その煽りをうけ抗争勃発している。上山の国はその小ささ故、その南北を標榜する豪族たちの旋風に翻弄された」と書いた。
 その北朝を標榜したのが最上氏で山形城を本拠とした。足利の当主のはずが北条に押し出され、その傍流だが出羽国按察使としてここに入部した。羽州探題最上氏の祖となる斯波(最上)兼頼だ。当然土着の豪族と対峙するのだが、加えて兼頼は北朝方で地元には南朝方がいる。冒頭の旋風とはこのことである。
 その後、最上氏は配下を分散配置し安定を図ろうとした。それが後にそれぞれの地で割拠の風を強め、土着豪族もからめ混沌を呈してゆくのだが。

この旅7日目の朝

 そんな山形霞城内で目が覚めた。朝の散歩だ。早朝0530、昨夜はあんなに人でごった返していたのにごみ一つ落ちていない。深夜に清掃作業が入ったとは思えない。清潔で素敵な日本の風景だ。こんな日本人の美徳はキリスト教宣教師たちが、あるいは時代が下り(日本の植民地化を目論見そして半ば諦め)貿易外交を求め日本に入った列強国の者たちが異口同音に記し残している。そしてこの清潔の風は多くの疫病を局限し日本を守ったことだろう。清潔が隅々にまで浸透しているのは、潔斎し八百万の神々をその依代に迎え、ともに生きた日本の原風景がなからしめたものだろう。清潔でない処に神々は依って下さらないのだ。
 スペイン風邪が世界を席捲したとき、欧州の中で死者が少ない特異な地方があった。その地方では酒でテーブルなどを拭く習慣があり、その効果だろうとの由。清潔の風が疫病から日本を守ったであろうことは、このことからも想像できる。

 昨夜は暗くて素通りしてたが、最上義光公の馬上像がそこにあった。斯波兼頼が最上氏の祖で義光は11代。この像は山形盆地に侵入した上杉の直江兼続軍を迎え撃つため富神山に向かい出陣するところと説明書きがあった。
 10話でふれたが、兼続は南と西から山形盆地へ侵攻した。南からの侵入には上山城、西口隘路には上山城の北6.5kmの北長谷堂城、そしてその一つ北にある西からの隘路に対しては長谷堂城の北2.5kmの富神山での戦いばかりでなく、山形盆地外周の十数か所の支城にはそれぞれの運命があった。

茶が落城した最上方支城(Wikipedia)⇦リンク

敵は「赤」、味方は「青」

 1600年の「北の関ヶ原」と呼ばれる慶長出羽合戦だ。
 本家関ヶ原合戦は、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)だが、こちらはその数日前に戦端が開かれた。関ヶ原は1日の闘いで決着したが、出羽では半月に及ぶ闘いとなった。

 つい数日前までは会津や米沢は私のなかで「青」だったのだが、山形盆地に入りその風土に接しているうちに、山形を「青」に米沢を「赤」に考えていて苦笑する。
 自衛隊はもちろん帝国陸軍でも米軍でも、味方は「青」、敵は「赤」で標記する。ノモンハン戦のおりソ軍将校の携行した地図を捕獲した。その地図は自軍が「赤」、日本軍が「青」に描かれていた。これそのまま使えると笑ったと。そんな逸話があった。

慶長出羽合戦全般図

慶長出羽合戦

 慶長出羽合戦だ。豊臣方五大老の1人として、家康を許せない関ヶ原西軍の立場の会津城上杉景勝は120万石、その武将米沢城直江兼続は景勝120万石のうちの30万石。対する徳川方の山形城最上義光は20数万石ほど。領地100石で数名の兵を擁しえるから、景勝は4.5万ほどの兵力となる。最上軍は1万強ほどになろうか。鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で最上は潰えるか。

 徳川家康は関東から北上し上杉征伐の態勢を見せた。西軍大阪方に隙を演出したわけだ。白河付近で野戦築城しこの地での徳川東軍迎撃を準備しあった兼続は、関東集結東軍の戦域離脱を受け、景勝軍の約半数2.5万の軍を指揮し反転、徳川東軍方の山形盆地に南、西、そして北から侵攻を開始する。
 岩出山の伊達政宗は家康から転封以前の旧領切り取り回復勝手次第を許され、また最上義光の要請を受け山形へ3千の援軍を出したが、当初は闘いの趨勢を傍観していただけでなく、空になった最上義光の山形霞城奪取の進言も受けたが、母を人質に出していたようで、さすがに実行には移していない。

直江兼続軍の山形盆地への侵攻経路

 山形盆地を北東から南西を俯瞰している。義光は日本海酒田方面からの側背からの侵攻にも対処しつつ、南からの主敵と乾坤一擲の闘いを挑まなければならない。
 上図から分かるように外側から囲うように攻め来る(外線作戦)軍はどの隘路からでも進入でき、どこに重きを置く(主攻)かを自由に選択できるが、反面それぞれの隘路にある軍は相互に支援することができず各個撃破される恐れを内在している。
 一方内側の線(内線作戦)で闘う側は、敵の各個撃破に勝ち目を見いだす。が同時に常に側背からの浸透迂回包囲に怯えなければならない。

 内線側の最上軍の兵力は1万強ほどかと先に推測した。上杉軍は4.5万ほどだった。実際に動員されたのは直江兼続に託された2.5万だが、最上軍にはそれは分からない。支城を中心に全ての隘路に兵力を分散配置する。
 上の俯瞰図から山形霞城と山との間に、図では左右に河川が緑の線で、緩く蛇行しているのが確認できる。この須川の向こう側は丘陵となり霞城の盆地平野より一段高くなっている。須川を上杉軍に渡河されたら霞城の敗退は時間の問題になろう。
 霞城最上義光の手持兵力は4千。これで籠城するのか。

 上杉軍は各隘路から侵入を開始した。
 直江兼続自ら指揮する上杉軍主攻筋に当たった、細谷城の義光側近家臣江口光清は、義光からの撤退命令を退け奮戦し、配下300余の将兵とともに討死した。(9月13日)
 細谷落城の4日後(9月17日)、上山城の里見民部以下500余は、上杉軍別動隊4千に対し城を開けて撃って出た。慣れ親しんだ地形を巧みに利用した里見の戦闘指導に翻弄された上杉別動隊は、遂に決戦場にある兼続主力部隊との合流がかなわなかった。

 細谷城を落とした兼続軍 1万8千は長谷堂城を包囲する。長谷堂城の志村光安以下1000名余に対し兼続は9月15日、攻城戦を発起した。志村は上山城の里見に劣らぬ巧みな戦闘を演じ兼続軍を翻弄する。
 24日ここにきて伊達政宗の援軍3千は主戦場の河川、須川の対岸に布陣した。背後にいた伊達援軍が前に出たことに伊達」への警戒を解いたか、霞城の最上義光4千はその翌日やはり主戦場対岸に陣を進めた。
 29日兼続軍は長谷堂城への総攻撃を開始したが苦戦を強いられている。

 そこに両軍ともに相次いで関ヶ原戦西方軍敗退の報せが届き、ここに至り形勢が逆転する。10月1日、上杉軍撤退開始。最上伊達連合軍は追撃戦に移行する。兼続は先に自らが落とした細谷城に拠り、殿軍として自らその指揮をとりつつ戦場を後にした。形勢逆転に際し兼続は切腹して責任を取ろうとしたが部下に諫められ思いとどまっている。であれば爾後の米沢経営もよほど変わったものになっていただろうか。

最上軍内線作戦の功第一等は

 防勢の内線作戦を成功させた最上軍の立場から、この戦を眺めるに、その功の第一等は上山城の里見民部以下であろう。彼らが籠城の消極戦を闘っていたならば、この方面の上杉軍は一部の警戒部隊を残置させ、残余主力は長谷堂城攻撃部隊に合流できたであろう。であれば、長谷堂城に対しても警戒部隊を残し、上杉軍主力をもって須川対岸に布陣した最上軍主力と平地で会戦できただろう。この際、上山を攻撃していた部隊は遠くから先に須川を渡河させておくのだ。最上に勝ち目はない。であれば関ヶ原の勝敗のここへの影響は小さいものになっていただろう。
 上山城の里見民部以下500は、その奮戦で、上のような負けの芽を摘んだのだ。

一所懸命

 もともとは「一所懸命」だ。一生懸命は気持ちが悪い。
 おらが土地に命を懸けているのだ。おらが土地はおらを育んでくれる。おらが土地が無くなるとおらは生きてゆけないのだ。だからそれを懸命に守る。熟知した土地、その地形を利用して侵入した敵を翻弄殲滅するのだ。時代が進んでも、国が違っても、ここのところは変わらないように見える。
 が、お花畑国では平気でそんな大事な土地を外国人外国資本に売り渡している。そんなお気楽な国がある。目を覚ませ。

早朝の最上義光公の馬上像

 早朝の散歩で出会った最上義光公の馬上像。
 あの時の霞城出陣の雄姿とされているが、私としては兼続軍の動揺に乗じて追撃を開始した義光公の姿と解したい。義光が右手に持つ指揮棒のようなものが指し示す、その方向には撤退する上杉軍補足のための当面の追撃目標だったであろう富神山がある。

 出発前にもう一度霞城を見渡した。

霞城桜祭り、城内早朝の散歩(⇦動画リンク) 

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