15話-神町山形空港 YS-11と計器飛行
みちのくのエスカルゴ号車旅
7日目 2022.04.14 その3
神町飛行場と奥羽海軍航空隊司令部
舞鶴山天童公園を北向きに下ると、ちょうど両手を突き出した両郭の胸元にあたる溜池にでる。街に出て食堂探すの時間かかりそうで、この綺麗な場所で休憩もおつだと飯盒炊爨し昼食タイム。
で、次の目当ては山形空港なのだが気分としては神町飛行場と呼びたい。93式中間練習機(通称赤トンボ)などが置かれ、その当時1400mもの立派な滑走路を有しており、海軍搭乗員の初等教育が行われていた。
米軍撮影の航空写真を拡大すると主滑走路の両脇に小さな滑走帯ストリップが何本か見える。赤とんぼに1400mの滑走路は非効率であり、当然ストリップを使ったことだろう。
滑走路の東に一本の連絡道路を介し海軍航空隊の施設が置かれた。戦争末期には航空部隊の作戦活動を地上において支援する陸上部隊組織、いわゆる「乙」航空隊である、少将を司令官とする奥羽海軍航空隊司令部をここに置き、東北奥州にある各海軍航空基地機能を統括した。
その跡地には陸上自衛隊第6師団司令部と、その一部の隷下部隊が駐屯している。現役時代に業務調整にため訪れたことがある。当時もうだいぶガタがきていたものの、ずしんと歴史をたたえていた。
地方空港とYS-11
初めてここの飛行場、いや空港を使ったのは昭和43年(1968)だったことを思いだした。
当時1200m級の滑走路をもった空港が日本全国に整備されていった。敗戦後初の国産旅客機 YS-11クラスの運航が可能な長さだ。
離陸をしようとする飛行機がもっとも厳しいタイミング、即ち離陸を継続するか中止するかの決心ポイントで一発のエンジンが停止したとき、残りのエンジンと滑走路長を使って安全に停止でき、または安全に離陸を継続できる、その長さの基準がこのクラスの機体では1200mだったわけだ。
今の地方空港は2000mだ。ジェット便になるとその長さが必要となる。
沖縄が米国施政下であったころも、南西航空(今の JTA )のYS-11が沖縄で活躍していた。南大東島便も同機が使われていた。だが沖縄の日本返還以降、南大東島YS-11運航は禁じられた。
滑走路先の空域、進入表面と云うが、これにサンゴ礁が隆起しできた島の低い台が、進入する飛行機の保護空域を侵しており駄目だと。
最近では静岡空港建設からしばらく、滑走路延長上の森の木がこの表面にかかっているとして、木が伐採されるまでのあいだ有効滑走路長を短くしての運航がなされていたこともこれだ。
規制するのは簡単だが、利用者の利便性を満足させるためにどうするか、をセットとした行政であってほしいものだ。
ちなみに計器の精密進入(GCAや ILS)の場合、その進入角度が3度に対し、法で規定される進入表面の勾配は 1/50(1.1度)。それ以外の着陸で1200m滑走路(正しくは着陸帯)の場合の勾配は1/30~1/40(1.9~1.4度)の間で国交大臣が指定することになっている。
18歳の私だ。八戸駐屯地の高射特科部隊3ヵ月の部隊実習を終え、正月休暇を付与され里帰りの途上だった。東亜国内航空のYS-11で三沢から花巻、山形を経由して羽田に連絡していた。それぞれで着陸して乗客を入れ替え離陸する。目的地が先である客は暫しの機内待機だった。着陸から離陸まで30分ほどのターンアラウンド時間を要し、それに計器出発と計器進入に要する時間を加味すると三沢から羽田までは少なくとも 1.5 時間程よけいにかかってしまうわけだが、それでも東北本線で移動するより随分早い。
上の航空写真はその頃の山形空港だ。エプロンと空港ビルが、今とは反対側、滑走路の東にある。エスカルゴ号旅で空港ビルに入ったのだが、ずっと違和感があった。この稿を書いていてその原因がわかった。滑走路の西に空港ビルがあることだった。
写真に戻る。
滑走路両端に円形の地積が見える。滑走路上で180度向きを変えるのは不可能ではないが、滑走路エンドにある円形パッドを使えば楽に回れるし、何より離陸のときは滑走路長を最大限に利用できる。国鉄時代の機関車の方向を変えるターンテーブルを思いだした。
着陸した、あるいは離陸する機体は、Uターンのためエンドまで走る。そして円形ターニングパッドで外側エンジンふかして、内側ブレーキかけながらキリキリ転回した。
YS-11で思い出すのだが、この帰省旅の3年後に函館空港夜間進入時、山に激突墜落し乗客乗員68名全員が死亡する事故が起きた。
この当時の地方空港はレーダー管制はない。そして航空路を形成する航空標識には中波の搬送波に可聴音の振幅変調が施されたA2電波の形式だった。その可聴音には時々操縦者の耳により、受信電波が所望の局つまり所望の場所ののものであるかを識別するためのモールス符号をともなった、方位情報が含まれない無指向性電波(全周に同じ電界強度の電波が発信されている)が使われていた。
無指向性電波で方向を知るためにループアンテナの受信電界強度特性を利用した。その特性、感度が大のところはなだらかな変化で、どこに目当ての局があるのか特定できない、だが局に対し機体に取り付けたループアンテナを回していくと無感帯となり電波を受信できなくなる。この無感帯は受信感度が急激に落ち込むため、このアンテナの方向を局の方向としたのだ。
ただこの無感帯は180度反対方向にもう一つ顕れる。どちらが本当の局の方向なのかは白紙的には分からない。そのための工夫(下図)がある。また器機が故障したとき、可聴音を聞きながそれが聞こえなくなるナル点をループアンテナを回しながら局の方向を探るのが、当時の計器飛行の緊急操作手法の1つだった。それを雲の中で計器飛行しながら操作する。操縦者の技量がもろに顕れて面白かった。
日本の空の計器飛行黎明期
この中波の航空無線標識の放送局(NDB)は、AMラジオと同じ週数帯であり、音が歪んだり聞こえなくなったり、また聞こえだしたりと安定しない。ラジオ放送でそんな覚えがないだろうか。空でも同様なことが起きている。①夜間は精度が落ちるし②海岸線に沿っても電波伝搬がかわるので誤差がでる。おまけに③天候が悪く空が帯電してたらさらに悪くなる。
YS-11函館の事故。無線標識の電波の質ということになれば、上の3つが重なったのか。あくまで推測だがありそうなシナリオとして、局への方向を示す無線方位指示器の指針が回ったのではないか。局上を通過するとその計器の針がグルっと回る。グルっと元気に回ってくれるほど局直上の通過なのでパイロットとしては気分がよい。局から左右に離れて通過するとゆっくり回る。
いずれにしてもそれから1分ほど直進し、針が後方で落ち着いていることを確認してから、所定の進入降下方式に従って滑走路に向かう。この計器進入方式は精度が悪いので非精密進入と呼ばれ、地形にもよるが基本的にたしか対地600ftまで降下できたかと思う。ここで滑走路を視認できなければ所定のコースをたどって上昇し、進入をはじめた航空標識にもどり次の方策を選択することになる。
あのとき近くで雷鳴でもあったのか、勢いよく針が回ったのかもしれない。1分の直進で後方に針が安定するのを確かめなかったのだろうか。それが2回目の直上通過であれば1分の経過は必要なく、針が90度回れば手順として局上判定してよかったと記憶している。そこで所定の方式で降下を始めた。降下旋回中の針は参考にはするが暴れることもあり、雲が帯電しておればなおさらで、だから針が暴れてもあまり気にしない。旋回の開始点が直上ではなかったなら、所定の高度を旋回降下したら山があっても不思議ではない。
Twitterで@uchujin17さんが零戦のループアンテナの写真を掲載してくれていた。海軍ではクルシー(無線帰投測定器)と呼ばれていた。洋上機位不明のくるしー時、母艦から電波を発射してくれたら帰投できた。
ただ電波を出すか出さないか、飛行長は艦長に詰め寄ったことであろう。搭乗員も大事だが、艦長には母艦もその乗組員のことも考えなければならないから。
西ベルリンを助けた大航空輸送作戦と計器飛行
日本の計器飛行の黎明期はそんなことだったが、世界の空が計器飛行を本格的に必要としたのは独国敗戦後の東西分裂を期とした。
ソ連が西ベルリンを封鎖したのだ。西側、なかでも米国はどうしたか。西ベルリンの人々が生きるには4500 t / 日の物資が必要だった。
Luftbrücke(ベルリンエアリフト)作戦、空の架け橋作戦が練られ、体制を整え、装備を開発増産し、それに当たる者を訓練し、実行した。
その実力は西ベルリンの飛行場に対し、輸送機の3分毎の直陸を可能とさせるほどのものだった。現代の航空輸送網はこれを土台としている。その本家で輸送機もとい、旅客機の信頼が揺らいでいるのは悲しいことだ。
上の話しは⇩に纏めていた。
現代の航空管制とBerliner Luftbrücke!⇦リンク
第6飛行隊と第6師団司令部
神町海軍航空隊司令部跡を眺めている間に、この稿もいささか機位不明の漂流に過ぎている。クルシーで進路修正だ。
ここは第6師団司令部が置かれる陸上自衛隊神町駐屯地。駐屯地への営門の手前に広報館があるのだが、武漢熱騒動で閉ざされているようだ。少しでも海軍施設の空気にふれたく、広報館から500mほど北の海軍倉庫跡(防空壕)を見にいった。
ここを訪れたのは初めてだと、ここを書いている昨日までそう思っていた。写真を上にアップしていて突然おもいだした。神町の師団司令部に業務調整に行ったとき、調整相手の後輩が第6飛行隊への道すがら寄ってくれたのだった。
後日、同飛行隊の支援を受け開発ヘリコプターの寒冷地事前試験を行った。もちろん本試験はその後、札幌、帯広そして旭川で実施した。
陸自第6飛行隊を外からながめ、そして今夜の目的地と予定する仙台にむけ出発だ。神町から空路仙台に向かうと離陸したら着陸準備に入るほど近いが、陸路も割と近い。
国道48号を東進する。仙台城址を取り囲むように流れる広瀬川を渡るときバイパス国道のトンネルを抜け、すぐまたトンネルに入る。その一瞬地隙が後ろに飛び去る。おおここは仙台城を守る大事な地球のシワだった。懐かしい!
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