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18話-敵味方識別と仙台の夜など

みちのくのエスカルゴ号車旅

8日目 2022.04.15 その3

一家に一台、朱雀くん

 エスカルゴ号キャンピングカー旅も8日目のまもなく12時になる。岩沼市海岸線の「千年希望の丘公園」、仙台空港そして(阿)武隈ならぬ竹駒神社を経て、懐かしい朱雀くんの住居に向かっている。
 陸上自衛隊の飛行実験隊で私の乗った供試ヘリを整備してくれた機付長だったが、その後幹部自衛官となり今は仙台にいる。私の停年退官後も彼が関東勤務の時は岐阜の拙宅などでよく会っていたのだが、もっと遠方になってからはそうもいかなくなった。私は恥ずかしながら61歳でスキーをはじめた。当時の朱雀くんの来岐目的は私のスキーの先生をやってもらうためだった。スキー検定1級の彼から、スキーの基本とその楽しさを教わった。

朱雀くんと岐阜高鷲スキー場にて(2012.03)

 ともかくも朱雀くんは随分年下だが気の置けない大事な友なのだ。器用で困ったことをなんでも解決してくれる人で、我が家では「一家に一台ほしい朱雀くん」と失礼な笑(称)号を冠してもニコニコと動ずるところがない。そしてよく私の口調をまねて話し、同僚や私の家族を笑わせた。最後に会ったのは2013年2月に岐阜の「めいほうスキー場」だったから、9年ぶりの再会となる。

 この日は金曜日だったが当直の代休をとってくれていた。
 エスカルゴ号のキャビン照明が道中に点滅をはじめ、またその他にもマイナーな不便が生じてしまい、でも朱雀くんに会えばなんとかなると。
 一緒に昼食に出かけるその足で電気部品店を3軒回り、多分特殊な型番とおもうが、それをいとも簡単に見つけ出し復旧してくれた。やっぱり「一家に一台ほしい」朱雀くんはかわってなかった。

 午後の時間帯で回れるツアーを朱雀くんは考えてくれていたのだが、美術館はスルーさせてもらい、塩釜神社と夜間出撃前の温泉を所望した。
 塩釜も丁度50年振りだった。温泉は時間を押してしまったので翌日に持ち越しだったが。

塩釜神社のある高台の庭園から松島湾を望む

 塩釜神社へ登りながら振り返ったら、桜の向こう低い雲の下に、日本三景の一つに数えられる松島湾を遠望できた。

 岩沼分校の学生時代よく「この真上」を飛んでいた。松島が美しかった記憶は余りない。まあ外を見えなくする計器飛行訓練用フードを被っていたし、外していてもそんなことを感じる余裕がなかったのだろう。きっとまじかで見るのが美しいのだろうと思う。実は地上で近くから眺めたことがない。

昔の計器飛行精密進入とレーダー識別

 「この真上」と云うのは、松島基地へレーダ誘導を受け R/W 07(滑走路番号はその磁針方位を10度単位で示すもの)へ計器進入するとき Dog leg が松島湾の上だったからだ。

 中波の無指向性航空無線標識(NDB)の電波をたどっての計器着陸進入については、このシリーズの15話(⇦リンク)で書いた。この方式では対地600ftまでしか降下できなかった。ここで滑走路を視認できなければ、これ以上の進入はできない。レーダーの精密誘導(GCA)を受けたなら接地点の手前1海里、対地高度300ftまで誘導を受けられた。
 不安定なNDB電波をたどって雲中を飛び地面に近づくのと、レーダーの誘導を受けて進入するのとは、安心感に雲泥の差があった。
 NDB局の方向を示す計器盤の針は、電波伝搬の特性から右に左にフラフラしている上に、当時のシステムは機首からNDB局の相対方位を示すだけで、磁針方位とは関係づけられていなかった。
 だから局への磁針方位などを知りたいときはジャイロコンパスを見て頭で算出する。おまけに磁針方位を示すジャイロコンパスと地磁気は、電気的にも機械的にも関連付けられていない。そのためキャノピーの前方枠上部に取り付けられている、小さな磁石の方位計(スタンバイコンパス)を読み取って、その方位を手動でジャイロコンパスを設定する。とにかく実際の進入コースと設定されている進入コースが違っていたら、その空域は保護されておらず山があるかも知れないのだから。

フーコーの振り子とジャイロ

フーコーの振り子概念図

 ここでまだ問題がある。ジャイロコンパスは、独立したジャイロそのものだったことだ。何が問題か。フーコーの振り子実験を思いだしてほしい。巨大な振り子を北極において風の影響がなければ、振り子の振動の地表面投影軌跡はぐるっと回って24時間で一周する。

 地球の自転がジャイロコンパスに与える影響も無視できない。現実には緯度によっでその回転の影響は変化し、日本は北緯35度ほどでその場合、ジャイロコンパスは1時間当たり8.6度変位していく。だからフラフラ揺れているスタンバイコンパスつまり予備方位磁石という名だが、気分としてはメインコンパスで、その読み取り方位を、ジャイロコンパスに頻繁に、パイロットの手でノブを回して修正しなければならなかった。

GCA管制官の航空機誘導手法とILS

 精密進入の管制官は基本的に3度と2度単位で、航空機の機首方位を指示して誘導する。だから例えば右に1度振らせたい場合、この時は正規の進入コースの左に位置しており、機体を右にずらしたいのだから、右に 3 度振って左に 2 度もどすわけだ。
 実に合理的だ。時代が進み ILS 進入、つまり空港の地上から最終進入コースに発射されている電波の道をたどって、管制官のレーダー誘導を受けなくとも精密進入ができる時代となり、パイロットは計器上の十文字の指標(縦軸はコース、横軸は高度)を合わせておけば対地300ftまで自分で降下できた。
 ただその十文字指標をやみくもに追いかければ、瞬時に十文字指針はどこかに飛んでしまう。あくまで方位の修正は3度切って2度もどす。自分がレーダー管制官になったつもりで機体をコントロールすれば楽に降下できたものだった。

 今は地上の設備と機体の装備が適合しておれば、最後までなにも見えなくとも着陸まで可能な時代となっている。

レーダー識別

 古のレーダー誘導の話しにもどる。
 レーダー管制官は自分が誘導する飛行機がスコープ上の輝点(1次ターゲット、レーダー電波の機体からの反射によるもの)のどれであるか識別しなければならない。

 今はそんなもの輝点(2次ターゲット、レーダーからの質問符に対し機体からそのつどの回答による)ごとに機番(便名)や飛行諸元などが、更新されつつテキスト表示されているから、常時スコープ上の全機の識別がなされている。

 その一昔前は管制官の求めに対して識別信号(アイデント信号)をパイロットがスイッチを押し、機体から送信することでレーダースコープ上の 1次ターゲットを強調表示し識別していた。

 これらも航空機の敵味方識別技術(IFF、SIF)が民に転用されたものだ。これを民間機に装備していてよいですか学術会議さま。これ外したら今の航空トラフィック量の1/00も捌けないだろうと、陸続として列をなす地球規模の航空交通を、スマホアプリを見ていてそう感じてしまう。

陸自と海自の敵味方識別と米海軍

 航空学生に合格する以前は高射特科にいたが、高射のレーダーで目標を捕捉したとき IFF(identification friend or foe) 質問電波を発して彼我を識別していた。質問電波に回答がないのは敵だ。スティンガー携帯対空ミサイルなどは歩兵が向かってくる航空機に対して、時間の余裕などなく、とにかく狙って撃つ。味方機であるならば味方の識別信号が返ってくるのでミサイルは起動されない。返ってこなければ発射される。機体側のこの装置が故障していたり、電源が入っていなければ味方の対空兵器に落とされる。大事な装備だ。

 岩沼分校の学生時代から15年後は、厚木の海上自衛隊テストパイロットコース TPC の学生だった。
 P-2J で太平洋の試験空域に向かっていた。機上レーダ員が「巨大な艦船 ターゲット方位〇〇、距離✕✕海里」つづいて「 IFF 信号返った。厚木からと思われる航空機収容中」と報告した。そりゃ艦艇も敵味方識別は必要だなと、海軍の現場での初体験だった。それは横須賀を出港した直後の空母ミッドウェーだった。その近傍を飛んだ。F/A-18編隊がブレイクして母艦にアプローチしているのが見えた。泥沼のイランイラク戦争のころだ。
 厚木基地の週末は米海軍将校クラブでよく夕食をとった。ミッドウェー出港前は彼らとその家族との雰囲気でそれが伝わった。帰ってきたらお祭り騒ぎだが、この出撃ではホーネットスコードロンのリーダーが未帰還となったと聞いた。

レーダー誘導のドッグレッグと松島湾

 航空管制レーダーの航空機識別の話しだった。アイデント信号による識別ができるようになる前の時代は、松島湾の上を飛んでいたころだが、識別すべき航空機の航空無線標識ヒット後の、アウトバウンド方位や、そこから進入のための基礎旋回を終えたインバウンド方位や、管制官の旋回指示に対する輝点の反応で識別していた。だから機番を聞き間違えて旋回したら混乱するし、それで保護空域から逸脱することにもなり、管制官が気付いてはくれるが危険なことだ。

 そうやって識別された機体は、レーダで着陸滑走路延長上の最終進入経路へ誘導されることになるのだが、このときは管制官もパイロットも旋回終了したときにピッタリその軸線上にのっかりたいわけだ。ところがその旋回が例えば90度も回ることになると誤差が大きくなる。そこで最終経路にのせる直前の経路の方位は通常30度以内で誘導することになっている。その直前の経路と最終経路との方位の開き(150度になる)が、犬の後脚の開きに似ていることから、この経路は Dog leg と呼ばれ、松島基地の場合その真下が松島湾であったわけだ。

塩釜神社と御釜神社と津波

 と、まあ塩釜神社とは関係のないことを思いだしながら参拝する。  

塩釜神社と境内案内図、右下はその下方にある末社の御釜神社

 上に黄色丸印に示された神社は塩釜神社の末社である御釜神社だが、塩釜神社の急な階段を下った街中にある。上の右下の写真の神社だ。

御釜神社から200m海側の景況

 塩釜神社は標高50mの高台にあるが、御釜神社は1~2mほどしかない。上の写真はそこから200m離隔しているが標高は同じだ。下の地図で御釜神社は赤丸でありここで津波は西と南に分かれ、神社に浸水はない。
 高台のほうの塩釜神社の祭神として別宮に祀られている鹽土老翁神(しおつちのおじ)は、大和建国に大事な働きをした主祭の2神を案内してこの地に至り、鹽土老翁神のみこの地に残り塩づくりなどを広めた。同神はまた御釜神社の祭神であり、そこにはご神体として4口の「神竈(しんかま、神釜)」が安置されているらしい。その釜には朽ちることがないとされる水(海水?)が湛えられており、その色の変化によって卜占(ぼくせん、うらない)が行われていた。

 はたして東日本大震災の日の朝、いつもは濁っているその釜のうち2つがきれいに透明になっていたと、震災の日の朝に境内を清めた釜守案内の女性は語っている。
 50年前ここにお詣りしたとき、引率してくれた地元出身の整備教官が、大昔の津波がこの直前で止まったと話してくれたことを思いだした。私の手元ではその記録を見つけることはできないが、そうなんだろうなと思っている。

東日本大震災津波浸水域、塩釜市資料から

25年振りの仙台夜間出撃

 そうして仙台の青葉通りへ電車移動。
 懐かしい。陸上自衛隊航空学校の研究部員だったとき、青葉区で航空関連のシンポジウムがあり訪れていたが、それでも25年振りだ。岩沼分校の学生時代は月に2度ほど、バスと列車にゆられて通ったものだ。こっちは50年前だ。
 青葉通りのアーケード街にはその50年前の面影がそのまま残っている。つまり50年前からすでに写真のような街並みを開発していたことがわかる。
 この街並みは札幌と並んで、私の気に入りだった。あのころは仙台も札幌も繁華街で人々は右側通行していた。それに驚きまた街並みの明るさとともに印象にのこっている。25年前も右側通行者が多かったのだが、朱雀くんと歩く青葉アーケード街は、あまねく日本人の習性であろう左側通行に変わって?戻って?いた。

青葉通りのアーケード街にはその50年前の面影が

仙台が牛タンなわけ

 ここでは朱雀くん推薦の、牛タンの老舗「一隆」に案内される。朱雀くんに教えてもらうまで、牛タンは古くからのこの地に伝わるものなんだろうと思っていた。
 これが違った。仙台もまた占領米軍が駐屯していたわけだ。彼らが当然ながら牛を食するわけだが、そのとき大量の舌が破棄されていた。これをなんとか敗戦後食糧難の日本人に美味しく食べせられないだろうかと試行錯誤したのが佐野啓四郎という方だった。それがヒットしたわけなのだ。「一隆」はその佐藤さんの弟子だったそうで、『仕込みから焼き上げまで機械を一切使用せずに「昔ながらの手法」「塩味」「炭火焼き」に現在もこだわり続けております』と同店のホームページにあった。

 9年振りの朱雀くんとは積もる話もある。「一隆」だけでは寝床に向かえない。そこで寝床近くの店に陣地変換だ。

嗚咽の涙はヘルシー

 美味しい酒と肴。
 区画された個室はそこそこ人が入っていたようだが、私たちは30人は入りそうな畳敷きの広間に陣取った。先客が2人いる。その先客の会話がときどき耳に届く。ああ今は、第一線部隊を離れ東北方面隊の中枢で勤務している、そんな感じがした。

 基本的に私は寂しがり。そこでいつも先制攻撃で声をかける。すぐ4人で席を囲むことになった。
 普通科(歩兵)の中隊長を下番しこちらの勤務になった、元中くんと朱雀くん、もちろん初対面だが、話し込んでいる。元中くんは中隊長として東日本大震災に出動した。朱雀くんはそのとき 統合任務部隊(Joint Task Force) の指揮所勤務をしていた。そのときの辛い胸の内を回顧し露呈している。
 堰を切ったように朱雀くんが嗚咽した。私も出動したあのときの悔しさを話した。それぞれに4人で話し嗚咽した。第一線でも司令部でもあの時の辛さは、亡くなった方々やそのご遺族と比すべきもないだろうが、筆舌に尽くしがたいものが鬱積しているのだ。

 ご遺体など見たこともない二十歳前の若い隊員が被災の現場で、泥に浸かりながらご遺族の願いを胸に捜索する。全国から応援に駆け付けた消防組織などの隊員は基本的に3日で現場から離れるのだが、陸自の隊員は災害派遣撤収の日まで現地に留まり続ける。若い隊員でなくても神経がもたなくなる。また3日で地元に戻った消防の隊員も、ローテーションでまた派遣されるわけだが、もう行きたくないと泣いた人の話しもちらほら聞いた。後方と現地の落差でそれも大変つらい立場であったと思う。
 陸上自衛隊では夜、隊員たちに語らいの場をもたせた。その日の辛いできごとを皆に露呈し共有し泣くのだ。泣くことはヘルシーである。よって明日も任務に就けたのであった。この場は毎日もたせたそうだ。

 4人で献杯しそれぞれの今後の健闘を祈念して明るく散会した。
 百発百中で桝に美酒を注いでくれたお店の娘さんにも感謝しつつ。

 8日ぶりに床の上の布団で熟睡した。いやエスカルゴ号でも熟睡はしてるのだが、揺れない床もいい。


みちのくのエスカルゴ号車旅目次ページへのリンク

https://note.com/saintex/m/m68537e104164


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