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変わり行く薩摩土手 16 大正の洪水被害と湯浅堤

 薩摩土手は、安倍川の左岸にある江戸時代初期の堤防です。

 徳川家康が安倍川の氾濫から駿府市街を守るために築堤したもので、薩摩藩が大きく関わったという言い伝えがあります。

 しかし、その言い伝えは確かな証拠に基づいていないという地方史研究者の説もあります。

この薩摩土手は、近代の川に沿った一本の土手でなく、いくつもの逆八の字が安倍川の上流から下流へと連なったものでした。

そのいくつかの信玄堤を川の流れの近くで、一本の土手として、築き上げたのが後の近代式の湯浅堤です。

「安倍川と静岡平野」の項、「湯浅堤築造」の中で、

「時の県知事湯浅倉平は小森静岡市長、田沢安倍郡長等と共に九月六日賎機方面の水害状況を視察した。

知事は災害の非常に激しいのに驚き、安倍川の対策に万遺感なきを期すると共に、直ちに根本的に安倍川堤防の改修を行うことを決意し、その暮の県議会に必要経費を計上した。

これは土木費経常費において二三万五九二一円の内、安倍川分一二万二〇〇〇円、土本部臨時費において安倍川堤防費四万九二一円を提案した。

これに対して多数派である政友会は、反対して修正または削除し、特に静岡市の大水害に最も密接な関係にある賤機村下堤防一万一二九円を六五四〇円の約半分に修正し、更に安西外新田の二万三五〇〇円は全部削除してしまった。

県知事湯浅倉平は沸然として色をなし、「府県制第八十三条よつて内務大臣の指揮を仰ぐつもりである。」と原案執行の意志を宣告した。

当時 知事が原案執行の胆を決めれば大体その通り になったもので、この湯浅知事の措置も内務 大臣の許可を得て殆ど原案に近い数字で執行 され安倍川堤防は完成した。

のちに、この堤 防を湯「浅堤防」と呼ぶようになった。現在 柳町安倍川畔に建つ湯浅知事の頌徳碑大(正 十二年八月建碑)はこの原案執行の英断をた たえて地元有志により建てられたものである。」とあります。

安倍川 湯浅堤 位置図

 薩摩土手には、湯浅知事顕彰碑や修堤碑などの歴史的な碑がありますが、現在では多くの文字が読めなくなっています。

湯浅知事顕彰碑

 「安倍川と安倍街道」という本によると、碑には次のようなことが縦で書かれていました。

「大正三年八月十五日安倍川崩壊以来十年間にわたり治水工事を行い、この地域の発展に貢献した湯浅知事を顕彰するものである」

 安倍川修堤碑は、大正三年八月に発生した安倍川の洪水で被害を受けた堤防の修復を記念して、大正十三年八月に建立された石碑です。

 碑文は、湯浅倉平という静岡県知事の功績を讃えるもので、羽田膝という人物が撰文し、松齋良嘉という人物が書したものです。

 碑は、安倍川左岸の薩摩土手と呼ばれる堤防の上にあります。碑文には、安倍川の水害の歴史や堤防の改修の経緯が詳しく記されています。

 碑文は、以下の通りである。

安倍川修堤碑 正三位 動生等 石原健三 象額静岡縣下河川多実而安倍川源委十餘里滞惇辻駿劃静岡市西端而南注但以其灌漑区域不甚廣之故堤防護岸之施設 常在他河川之下焉此甚可憂也大正三年八月大雨連日其廿九日北賎機村有功堤之決潰也暴怒奔激連破壊福田谷松富籠 上譜堤遂衝潰所謂薩摩提沿滑横温殆侵静岡市大半南氾濫於大里村患害所被死者四十五傷者九十流屋凡一千侵水一萬 餘戸田園流没者百八拾餘町歩何其惨也縣知事湯浅君親目撃其状深憂之謂宜速施複奮工事且 堤防卑薄之需加増修乃具 案付縣會之議営時議者以為工事姑止復奮如其増修則譲之他日湯浅君日増修亦不可一日緩也遂稟申内務省決行豫完工 事増卑倍薄能成是堤沿崎居民得安其堵者裳君之力也然是一時應急之施設而非百年安固之長計也蓋安倍諸峯土質疎髯 毎大雨至沙礫流出年年堆積河身高於平地而静岡市常有被衝背後之患此識者所憂而不措也今荻甲子有志相謀欲建石勒 其事以停湯浅君功績併詮為後固者徴文於予予廼承其意而記梗柴云 大正十三年八月羽田膝撰文 松齋良嘉書」

湯浅知事顕彰碑                    

現代文に直すと、
 安倍川は、静岡県の下流にある川で、源流から十数キロメートルのところで駿河湾に注いでいます。

 静岡市の西端から南に流れていますが、灌漑地域があまり広くないため、堤防や護岸の整備が他の川よりも遅れていました。

 これは非常に危険な状態でした。大正三年の八月には大雨が連日降り、そのうちの二十九日には北賎機村の有功堤が決壊しました。

 安倍川は激しく暴れて、福田谷や松富、籠などの堤防を次々と破壊しました。

 薩摩堤も崩れて、町などを水に浸しました。
 静岡市の大半が水没するという大惨事になりました。

 大里村では死者四十五人、傷者九十人が出ました。
家屋は一千戸が流され、一万戸以上が水に浸かりました。

 田畑も百八十町歩以上が流失しました。
 どれほど悲惨なことかと言えます。

 当時の県知事であった湯浅さんは、この状況を目の当たりにして、深く心配しました。

 すぐに工事を再開して、堤防を高くして強くする必要があると考えました。

 そして、県会に提案しましたが、議員たちは工事を中止するように言いました。

 もし堤防を高くするなら、後日に回すべきだと言いました。
 しかし、湯浅さんは一日でも遅れると危険だと言って、内務省に申請しました。

 そして、工事を早めて完了させました。
 堤防は以前よりも高くて強くなりました。

 これで安倍川沿いの住民は安心できるようになりました。
 これは湯浅さんの功績です。

 しかし、これは一時的な対策であり、長期的な安全対策ではありませんでした。

 安倍川の上流の山々は土質が緩くて、大雨が降ると砂や石が流れ出してきます。

 年々川底が高くなって、平地よりも高くなってしまいました。
静岡市はいつでも後ろから水に押される危険がありました。

これは分かっていることですが、何も対策を取っていませんでした。

 今では荻甲子さんたちが志を持って集まって、石で囲む工事を計画しています。

これで湯浅さんの功績を引き継いで、後世に安全を固めることができます。

 この工事のために文章を書くように頼まれましたので、要点をまとめて書きました。

       大正十三年八月 羽田膝
               松齋良嘉

薩摩土手近辺

https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園


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