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変わり行く薩摩土手 15 明治の薩摩土手周辺の様子

 薩摩土手築堤から300年後の1907年頃の薩摩土手北側近隣の籠上では、30戸余の家があった。

籠上 小長井勘四郎氏所有

 現在は、この20倍程度以上の規模の町内となっている。

 薩摩土手の位置する籠上そのものも農地が多かったが、薩摩土手(安西新田堤)と同じ機能を持つ美川、平和1丁目の間にある籠上新田堤により、この南側に新田が作られ、現在は宅地化されている。

 安倍川には、このような信玄堤方式の土手が、両側に20数本ある。
 これらには、伝馬町新田のように馬の飼葉をつくる馬草場などもあり、全てが稲作農地ではないが、それぞれの新田が出来上がり、米の生産高が一気に伸びた。

 薩摩土手より、南側近隣は、井宮、安西など旧静岡市街地北部を形成していた。

 この安西という地名は、安倍川の西という説もあるが、静岡市葵区にある安西と安東という地名は、安部氏の安部町の西東からきているという有力説がありります。

 安部氏は平安時代から鎌倉時代にかけて、静岡県の東部を支配した豪族でした。

 安部町はその本拠地であり、現在の静岡市葵区北安東付近にあったとされます。 安部氏は源頼朝に従って戦功を挙げましたが、承久の乱で敗れて没落しました。

 その後、安部町は幕府の直轄領となり、江戸時代には徳川家康が静岡城を築いた際に一部が城下町に編入されました。

 安部町の西側と東側にあった集落は、それぞれ安西と安東と呼ばれるようになりました。 これが現在の地名の由来だというのです。

 静岡市の安西と安東は、歴史的な背景を持つ地名です。
 安部氏の栄枯盛衰を感じさせる地名でもあります。
https://note.com/saimonasuka/n/n5e2f88a5cfad

 薩摩土手築堤は、江戸時代初期に安西氏が築いた信玄堤方式(=雁行堤=霞堤)の土手である。

https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0502_abekawa/0502_abekawa_01.html

 信玄堤方式とは、川沿いに高い土手を築き、その内側に水路を掘って水を引き込み、水路と土手の間に新田を開発する方法である。

 この方法は、水害から新田を守りながらも灌漑用水を確保できるという利点があった。

 薩摩土手築堤は、安倍川下流域で最初に作られた信玄堤方式の土手であり、その後も多くの新田開発に影響を与えた。

 薩摩土手築堤は、現在の静岡市清水区薩摩から静岡市駿河区平和まで約3.5キロメートルにわたって続いている。

薩摩土手近辺


 その北側には、籠上や伝馬町などの古くからの集落や新田があり、その南側には、美川や平和など、一部、近代的な住宅地や工業地が広がっている。

 薩摩土手築堤は、安倍川沿いの風景や歴史を形作ってきた重要な遺構であり、現在も多くの人々の暮らしに関わっている。

薩摩土手近辺

https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園


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