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変わり行く薩摩土手 14 安倍紀行、駿河國新風土記における薩摩土手

安倍紀行

 安倍紀行は、薩摩土手のことを直接的には掲載されていない。
 安倍紀行の本文には、薩摩土手の守護神、井宮神社や徳川家康の正室旭姫の墓所、瑞龍寺などのことが掲載されている。

安倍紀行

紀行本文では、
「井宮村 、 妙見社は祭神破軍星也。むかし当山に於て唐櫃を堀出。内に宝剣あり、今本社に蔵す。其 処を地主 、 権現の塚と呼なり。浄土宗に丼宮山梃槻フ際なL数十とて法地あり。開山大誉光公上足天正 九年(一五八一)遷化の僧なり。地内に竹中半兵衛が孫竹中定右衛門の墓あり。本尊崇峯大禅定門、 寛永十九年二六四二)八月二十一日没すとなり。同宗に籠鼻山浄功院、開山定誉蓮随上人。当山の 起立は神祖の御姫君一昭小院殿乳母の庵室の地にて尼公姫君の御回忌に当り御菩提の為メ心願により て台命を蒙り慶長十六年(三ハ一こ一月一有渡郡平澤村の浄光院を此処に移し、伽藍御建立と聞し。 御尊牌等あり 。 洞家に泰雲山瑞龍寺とて法憧地 、 御朱印符寺田十六石を賜う。開基瑞龍寺殿光室総旭 大祥定尼ヒ中奉じ菫豊臣秀吉公御姫(妹)君旭姫駿河御前と申奉。姫君有馬に湯治彼地にて逝去ありし 御分骨を当地に蔵(葬)るなり。寺内恵心僧都の作、金像の観音を安置の堂あり。」とある。

安倍紀行

これを現代文にすると
 井宮村にある妙見社は、祭神が破軍星だと言われています。
 昔、この山で唐櫃という箱を掘り出したことがあります。

妙見社

 その中には宝剣が入っていて、今は本社に保管されています。
 その場所は地主の人たちから権現の塚と呼ばれています。

 浄土宗の寺院で、丼宮山梃槻院という名前があります。 
 開山は大誉光公上人という僧侶で、天正九年(一五八一年)に亡くなりました。

妙見神社またの名を井宮神社                   

 この村には竹中半兵衛の孫である竹中定右衛門の墓もあります。
 本尊は崇峯大禅定門という僧侶で、寛永十九年(一六四二年)の八月二十一日に亡くなりました。

 同じ浄土宗の寺院で、籠鼻山浄功院という名前があります。 
 開山は定誉蓮随上人という僧侶です。

 この寺院は、神祖のお姫様である一昭小院殿の乳母が住んでいた庵室の跡地に建てられました。

 尼公姫君というお姫様の御回忌にあたって、御菩提のために心願をかけて、慶長十六年(一六一一年)に有渡郡平澤村にあった浄光院をここに移しました。

 伽藍を建立したと聞いています。お尊牌などもあります。
 洞家という場所に泰雲山瑞龍寺という寺院があります。

 法地として御朱印符寺田十六石を賜りました。
 開基は瑞龍寺殿光室総旭大祥定尼という方で、豊臣秀吉公のお姫様(妹)である旭姫駿河御前と仰っています。

 姫様は有馬で湯治をされていたときに亡くなりました。
 その御分骨をこの地に埋めました。

 寺内には恵心僧都という僧侶が作った金像の観音様が安置されている堂があります。

  薩摩土手の守護神、井宮神社                    

 さらに、詳細に記すると、

 井宮村にある妙見社は、祭神が破軍星だと言われています。

 破軍星は、中国の五行思想で金星を表す星で、武運や財運を司るとされています。

 この神社は、古くから武士や商人に信仰されてきました。
 昔、この山で唐櫃という箱を掘り出したことがあります。

 その中には宝剣が入っていて、今は本社に保管されています。
 その場所は地主の人たちから権現の塚と呼ばれています。

 この宝剣は、平安時代の名工である三条吉光の作と伝えられており、刀身に「妙見大菩薩」と刻まれています。

 この神社の近くには、浄土宗の寺院が二つあります。一つは丼宮山梃槻院という名前があります。

 開山は大誉光公上人という僧侶で、天正九年(一五八一年)に亡くなりました。

 この僧侶は、戦国時代に活躍した武将である明智光秀の弟であり、光秀が本能寺の変を起こした後に出家したと言われています。

 この寺院には、竹中半兵衛の孫である竹中定右衛門の墓もあります。
 竹中定右衛門は、江戸時代初期に徳川家康に仕えた武将で、大坂夏の陣では大坂城攻めの先鋒を務めました。

 本尊は崇峯大禅定門という僧侶で、寛永十九年(一六四二年)の八月二十一日に亡くなりました。

 この僧侶は、徳川家康や徳川秀忠の師として尊敬されており、江戸幕府から多くの寄進を受けました。

 もう一つは籠鼻山浄功院という名前があります。開山は定誉蓮随上人という僧侶です。

 この寺院は、神祖のお姫様である一昭小院殿の乳母が住んでいた庵室の跡地に建てられました。

 尼公姫君というお姫様の御回忌にあたって、御菩提のために心願をかけて、慶長十六年(一六一一年)に有渡郡平澤村にあった浄光院をここに移しました。

 伽藍を建立したと聞いていて、お尊牌などもあります。洞家という場所に泰雲山瑞龍寺という寺院があります。

 法地として御朱印符寺田十六石を賜りました。
 開基は瑞龍寺殿光室総旭大祥定尼という方で、豊臣秀吉公のお姫様(妹)である旭姫駿河御前と仰っています。

 姫様は有馬で湯治をされていたときに亡くなりました。
 その御分骨をこの地に埋めました。

 寺内には恵心僧都という僧侶が作った金像の観音様が安置されている堂があります。

 この観音様は、三十三間堂の千手観音像と同じ型で作られており、国の重要文化財に指定されています。

参考
 この著者、桑原藤泰(号は黙斎)は、日本の歴史家であり、江戸時代後期に活躍した人物です。

 彼は駿河国(現在の静岡県)の地誌を編纂することを企図した駿府町奉行服部貞勝から、志太郡の調査と執筆を依頼されました。

 その結果、彼は「駿河記」という地誌を完成させました。
 この書籍は、当時の駿河の国の村々の生活の様子や文化伝承を詳しく調査して記録したもので、島田の大井神社についても触れています。

 また、彼の功績はあまり知られていないため、近年になって彼の名前を取り上げた作品もあります。

 例えば、「島田宿の歴史家・桑原藤泰余話」は、彼の生い立ちや功績に迫った作品であり、大津野田城に関する資料を読み解いた「野田・城山の歴史ミステリー」も含まれています。

 旭姫とは、豊臣秀吉の妹で、徳川家康の正室だった女性です。
 秀吉の政略により、既に夫がいたにもかかわらず、離縁させられて家康に嫁ぎました。

 家康との結婚後は駿河御前と呼ばれ、病気がちな晩年を過ごしました。
 京都の東福寺と静岡の瑞龍寺に墓があります 。

駿河國新風土記

「安倍川右岸に駿府御囲堤と云ふ堤防あり。是は徳川家康公駿府城を築くに際し安倍川の氾濫より城下町を守る為に造られしものなり。此堤防は薩摩国島津忠恒公石材木を多く運び来て築いたと云ふ伝説ありと雖も其事実確かならず。堤防は井宮妙見神社より始まり弥勒の下まで続きて居り。堤防の形雁行性と云ふものなり。本線より枝状に支堤伸びて居り。此堤防今も予備的な役割を果たして居る。」

駿河國新風土記                                                                                                 

現代文にすると   
 駿府御囲堤というのは、安倍川の右岸にある堤防です。
 徳川家康が駿府城を建てるときに、安倍川の洪水から城下町を守るために作ったものです。

 薩摩の島津忠恒が石や木をたくさん運んで築いたという伝説がありますが、それは確かなことではありません。

 堤防は井宮妙見神社から始まって弥勒の下まで続いています。
 堤防の形は雁行性というもので、本線から枝のように支堤が伸びています。この堤防は今でも予備的な役割を果たしています。

薩摩土手近辺

参考
` 駿河国新風土記(S220/11)とは、江戸時代に新庄道雄という人が駿河国の地理や歴史について記した全25巻の書物です。

 風土記とは、その地方の自然や文化を詳しく説明したもので、『駿河国新風土記』はその中でも優れた作品として知られています。

 なぜ「新」という字がつくのでしょうか。
 それは、この本の前にも『駿河国風土記』という本があったからです。
 しかし、その本は完成されずに途中で終わってしまいました。

 そのため、道雄は自分で駿河国の地誌を書くことを決めました。

 道雄は駿府の宿屋の主人でしたが、学問が好きで、有名な儒学者の平田篤胤に師事していました。

 篤胤は道雄の才能を認めて、彼に原稿を見せてアドバイスを与えてくれました。

 道雄は国府(駿府)、益津郡、有度郡、安倍郡、富士山、庵原郡などについて詳しく書きましたが、残念なことに志太郡、駿東郡、富士郡は書き残せませんでした。

 道雄は天保6(1835)年に亡くなってしまったからです。

『駿河国新風土記』には、当時の駿河国のさまざまな情報が盛り込まれています。

 例えば、富士山の高さについては、「昔はその術もわからず証としがたし」と書いていますが、「近きころ、伊能忠敬という人が須走村に宿って測量して、直立36町ありと里人に語りし」とも書いています。

 これは、伊能忠敬が日本全国の地図を作るために富士山を測ったことを示しています。伊能忠敬と道雄は同じ時代に生きた人物でした。

『駿河国新風土記』は出版されずに手書きの本として伝えられましたが、昭和9(1934)年に飯塚伝太郎という人が出版しました。

 この本では、欠けていた志太郡、駿東郡、富士郡についても他の人の著作を補っています。

 道雄の死後100年後にして『駿河国新風土記』は、世に広まったのです。静岡市紺屋町の小梳神社には道雄の石碑があります。

新庄道雄の碑        

 この石碑には篤胤が道雄を称えた碑文が刻まれています。
 この碑文は道雄の功績を讃える貴重な資料です。

静岡県立中央図書館所蔵の貴重書紹介
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002688_20040929054927054.pdf


https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園


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