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変わり行く薩摩土手 17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道の役割と歴史

 安倍川流域の木材産業は、1916年に開通した井ノ宮-牛妻間の鉄道によって大きく発展した。 

安倍鉄道の機関車

鉄道は木材の生産、加工、販売、流通を効率化し、市場を拡大した。また、地域住民の生活や交流にも貢献した。

 しかし、鉄道は自動車の普及によって衰退し、1934年に廃止された。

 安倍川沿いの鉄道は、木材産業や地域社会にとって不可欠な役割を果たした歴史的な存在である。 

経過
1916年(大正5年)4月15日 - 井ノ宮-牛妻間開業
1934年(昭和9年)11月15日 - 廃止

路線データ(廃止時点のもの) 
路線距離(営業キロ):9.6km軌間:762mm駅数:10駅(起終点駅含む)複線区間:なし(全線単線)電化区間:なし(全線非電化)
井ノ宮駅 - 籠上駅 - 菖蒲ヶ谷駅 - 御新田駅 - 役場前駅 - 福田ヶ谷駅 - 下村駅 - 大土手駅 - 門屋駅 - 中沢駅 - 牛妻駅
開業時、籠上は設置されていなかった

参考 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E9%89%84%E9%81%93
明治時代末、安倍川沿いで産出される木材を運搬するための鉄道を建設する計画が安倍川周辺の住民の間で生まれ、1916年(大正5年)4月15日、井ノ宮 - 牛妻間9.6kmが開通した。

本来の目的である貨物輸送や地元住民の足として親しまれ、一時期は改軌や梅ヶ島温泉への延長、藁科への支線の構想があり、1923年(大正12年)には静岡駅までの延長も計画されたが、自動車の普及によって経営が悪化。

安倍鉄道も1926年(大正15年)より井ノ宮-静岡駅間、牛妻-俵沢間の乗合自動車業を開始したが、結局鉄道を延伸することのないまま1933年(昭和8年)10月20日に営業を休止、この間乗合自動車は営業していたが翌1934年(昭和9年)6月16日に鉄道旅客営業を廃止して、乗合自動車事業を山下バスに譲渡。

鉄道も11月15日をもって正式に廃止となる。最終の列車には乗客が1人もなかったという、寂しい終焉であった。

なお、この路線は開業から廃止に至るまで一度も他の鉄道路線と接続することのない孤立した路線であった。 以上、Wikipediから抜粋


近くの小学校の生徒も体育館横を安倍鉄道の機関車が走っていたことを話しても然程興味は持たないようである。

何年か前に4年生に薩摩土手を中心に学区内の昔と今の話をする機会があったときも、知っていたのは先生の中でも一人だけだった。

話をしたその集会室「わかあゆホール」は、薩摩土手の碑が建立されたときと同じ年の平成元年だった。


https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園



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