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変わり行く薩摩土手 19 平成の薩摩土手の碑建立(佐久田昌一氏などの協力)

碑の近くに立つ説明板


 碑の近くに立つ説明板には、
 薩摩土手の由来
 薩摩土手は権現様堤または一部火屋土手とも呼ばれ、江戸時代の 始めに作られました。
 薩摩土手という呼び名が初めて記録に見えるのは、旧静岡市史に掲載の天保13年(西暦1842年)に描かれた地図、駿府独案内と言われています。
 静岡市史によると、慶長11年(西暦1606年)薩摩藩主島津忠恒公が徳川家康公の命によりここ井宮妙見下から弥勒約4.2kmにわたって築堤したのが薩摩でと言われています。
 この堤は江戸時代以来、市民の生命と財産を守ってきましたが、今日都市化の進展の中で現存しているのはこの辺りだけどなっています。
              平成元年4月  静岡市

 この碑は、平成元年(1989年)に、発起人佐久田昌一氏の提唱により、多くの寄付者の協力のもと、静岡市が薩摩土手の歴史と価値を後世に伝えるために建立された。
 除幕式には、徳川家、島津家末裔をはじめとして、市関係者、地域住民など多くの人が参加した。井宮町史にも当時の様子が掲載されている。

薩摩土手近辺

https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園


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