新しい文化の興し方

日本にはたくさんの伝統文化がある。

所謂、トラディショナルカルチャーである。

例えば、道。

アスファルトではない。
茶道、華道、書道のように、
○道と名のつく文化である。

これらは物ではない。
情報である。

物はいつか形が変わる。
つまり、壊れる、ということだ。
万物流転ということである。

情報は壊れない。
次々と更新されていくことはあるが、
基本上書き保存である。
形を持たないが故に、
ダイヤモンドよりも壊れない。

そして形ある物は、
設計図がある。
手順がある。
法則がある。

これらは情報である。

つまり、この世は情報の集まりである。

情報から形が生まれる。
壊れても、情報があれば、
直すことも、新しく作ることもできる。

文化や道の情報から、
一定の形が生まれる。
故に、文化や道自体は、物ではない。

この一定の形。
これを型とする。

さて。

新しい文化を興すためには、
方法が2つある。

既存の文化を改変する方法。
誰も情報にしたことがないものを
作り出す方法。
の2つだ。

これは誰でもわかると思うが、
後者の方が圧倒的に難しい。

既存の文化に手を加えて、
新しい文化です!と言い張る方が
どれほど楽であり、受け入れやすいだろうか。

後者の方で文化を興すためには、
技術革新や生活様式の変化が必要になる。
ガスから電気、和式から洋式などの変化だ。

前者だが、これは情報の性とも言える。

常に進化していくためには必要なことだ。

ただし、寛容になることと、
改変していくことは違う。

コロナ禍において、
寛容は多く見られた。
マスク着用や、三密回避などだ。

これらはその場しのぎである。
改変ではない。

ここでいう改変とは、
無駄を省き、手間を追加することだ。

それを継続することによって、
より洗練された文化が作られる。

無駄を省き、手間を追加するためには、
その文化について知らなければならない。
それも本を読んで知った、ではいけない。

稽古を受け、型の意味を、
心から理解するよう努めること。
これを習とする。

習を経て型を得る。
これにより、初めて、

型破り

が可能となる。

型を知らずに改変するのは、
型破りではない。

実を忘れないことが、
改変において最も意識することだ。

実とは本質のこと。
日本の伝統文化ならば、
おもてなしの心などが該当する。

習により、実を理解する。
実を忘れずに、改変する。
これが型破りである。

さて。

型破りが、新しい文化を興すための
手段ということはわかった。

ならあとは実行するだけ!
とはならない。

文化は1人で興すものではない。

何人、何十人、何百人という人が集まって
初めて興すことができる。

文化とは情報である。
物とは違い、記録や記憶に
残らなければ、廃れる。
物は壊れなければ残る。

そこだけ見落としがちである。

終わりに

昨今の町興しなどは、
特産品を作ったりするなど、
どうも物にこだわっているらしい。

確かに、目に見えるし、
金にもなるので、
理にかなっているのかもしれない。

ならば、文化はどうだろう。

新しい文化を興せば、
町興しになるのではないか。

祭も文化の1つである。
祭が観光資源となっているところもあるが、
毎日できるわけではない。

いつでもできる文化。
限られているが、物にも匹敵するだろう。

それを作り出すのは、今を生きる
若い世代の人である。

私には1つ構想がある。

形にはまだできないが、
習をせねばならない。

やってみる価値はあると思うのだが。

またnoteを書こうと思う。
その時まで。

またね。

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