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ピアニストだった

東京に引っ越してきてからピアノを弾かなくなった。
もう越してきて半年以上経っているのにピアノを弾いたのは数回だけだ。
電子ピアノはあるけれど、いちいちセッティングするのが面倒くさい。
椅子とスタンドを置くと部屋のスペースがなくなるからローテーブルに軽く10キロはある鍵盤を置いて、それにおもちゃみたいなペダルとヘッドフォンと電源プラグをぶっ刺したら元はマットレスだったソファに座って弾く…非常に面倒くさい。
ピアノは空間に響く余韻までが美しいと思う。だからヘッドフォンをつけての演奏はあまり好きじゃない。都会、共同住宅暮らしにとって楽器は厄介者だ。

「私はピアノが好きです。」この言葉を口にすることに関して、今は抵抗がないけれど、いつか言えなくなりそうで怖い。
なんで怖いかというと、本気でピアノに向き合ってた過去の自分がなんだか別の人みたいで羨ましく妬ましく思えてくるし、ピアノを弾いている時の快感と、心から楽しめる機会がもう二度と来ない気がするから。

ピアノを始めたのは小学1年生だった気がする。その後、両手で小曲を弾けるようになった頃に東日本大震災があって、ピアノ教室に通えない期間が半年くらい続いた。小学生の頃は、毎年出なきゃいけないピアノの発表会が嫌いだった。人前で演奏することはとても恥ずかしくて、親でもない大人たちに聴かれて勝手に上手いとか下手とか思われてるんじゃないかと考えるととても嫌だった。だから、コンクールには絶対出ないと決めていた。
中学生の頃は、発表会は嫌なものから退屈なものへと変化した。ドレスで着飾った小さい子たちはみんな同じ曲を弾くから、発表会の三分の一は同じ曲を聴かなきゃいけない。だから、受付だけ済まして自分の出番の直前に会場に戻って本番もとりあえず弾いて帰っていた。曲も、坂本龍一のMerry Christmas Mr. Lawrenceを弾いたことしか覚えてない。それくらい印象は薄い。
そして、中学生のほとんどが経験するであろう合唱コンクールでは3年間伴奏者だった。特別な役のように思えるかもしれないが、コーラスか指揮の方がよっぽど楽しいし思い出になると私は思う。伴奏者は音楽の時間も練習時間もひたすらピアノの前で待機だし、個人練習するだけ。コーラスの音とりくらいならわざわざピアニストに頼まなくてもできるから、呼ばれた記憶があまりない。伴奏曲の練習に飽きて少し気分転換に違う曲を弾くと音楽の先生に怒られる。合唱と指揮はお互いの顔が見えるし、音楽を作ってる感じが生まれるかもしれないけど、伴奏者はコーラスの顔はほとんど見えないし、なんとなく合わせてるからそれほど一体感とかクラスみんなで頑張った思い出みたいなものは薄い(気がする)。

こんな感じで中学までは不真面目にピアノを頑張っていた。
私がピアノに熱中しはじめたのは高校に入ってからだ。ここからの成長が凄まじい。

高校生の頃の、ピアニストだった私はキラキラしてた。
部活の演奏会でラプソディ・イン・ブルーを弾ききった時なんか人生で一番キラキラしてた。舞台の照明のせいでキラキラした汗が飛び散るのが目に見えるし、ピカピカに磨かれて黒光りしたスタインウェイに反射する私とハンマーの踊りは美しい。他人の目から見ても、舞台最前中央のグランドピアノを歌わせているたった一人ブルーのシャツを着たピアニストは誰の目にも輝いて映っていたに違いない。
顧問にピアニストを任されてから本番まで暇さえあればピアノを弾いていた。周りが大学受験に備える夏休みに、私はピアノに時間も身も心も捧げていた。課外授業にも行かず音楽室でピアノを弾いていたから、夏休み明けに受験モードの先生からは叱られた。当たり前のこと。でも、反省も後悔もなかった。部活の顧問はそれを許してくれていたから、むしろ誇らしいようにも思えた。
毎日部活の開始時間より早めに学校に来てピアノを弾いた。部活が始まったらサックスに集中するが、部活が終わった途端にピアノの練習をしていた。多民族が混在するアメリカのカオスさをラプソディ・イン・ブルーを作ったガーシュウィンは表現していると私は思う。そんなカオスな曲を弾くのは初めてだったし、ジャズクラッシックっぽいこの曲をジャズピアノは苦手な私が弾くわけだ。相当な練習時間と技術が必要だった。だが、私には技術が圧倒的に足りない。だから、ひたすた練習した。何人かのピアノの先生のもとで基礎から鍛え直してもらった。ハノンに真面目に向き合うのは何年ぶりだっただろうか。
体にも向き直さなければいけなかった。指を限界まで開けるように授業中も指のストレッチをして、肩を柔らかくするためのストレッチで肩の動きを柔軟にする、ペダルの踏み方まで先生たちから学べることはとことん学んで実践した。両手とも腱鞘炎になったこともあったが、腱鞘炎は脱力できていない証拠なので、また体の使い方を見直さなきゃいけなかった。おかげでサックスを演奏するのが辛かった。
また、クラシックの弾き方はなんとなく身についてはいたが、ガーシュウィンをショパンで弾いたら何もかっこよくない。だから、小曽根真さんの演奏を聴くようにした。小曽根さんのできる限り全ての表現と動きを盗んでガーシュウィンをガーシュウィンで弾けるように頑張った。そんなこんなで、アレンジを加える余裕が生まれるほどにはガーシュインを弾けるようになった。
本番は本当に人生で一番輝いていたし楽しかった。間違いなくあの時の私はピアニストだったし、本番でやっとピアニストになれたと思った。20分を弾き切った時の快感と汗と光、観客の拍手、顧問とのハイタッチ、人生で一番深いお辞儀は忘れられない。音を外すこともあったが、あのバーンスタインでさえラプソディはミスだらけだ。それがまたカッコいい。ガーシュウィンはそれでいいのだと思う。カオスな曲には、本番のあの沸々と湧き上がる楽しさと興奮と観衆の視線と照明の光でできたカオスさが相まったカオスな演奏がお似合いだ。いつ見てもわざとモサモサにした髪を鬱陶しそうにしながらピアノを弾く、気持ち悪いニタニタ顔を浮かべたピアニストはカオスである。

ラプソディをきっかけに完全にピアノに心臓を奪われてしまった私はラプソディレベルの曲にも挑戦するようになった。様々曲を聴く中でも、ブーニンの名演「英雄ポロネーズ」は衝撃だった。英雄に挑戦する動機としては十分すぎたから、英雄を弾き始めた。その後はリストを弾きたかったので、ラ・カンパネラと愛の夢で迷ったが、久々に大人しめな曲を弾きたかったので愛の夢を選んだ。英雄はまだまだ聴かせられたものじゃないが、いつか人前で弾いてみたいと思っていた。


そんなピアニストだった私の影は今や薄くなっている。もしかしたらピアニストの私の影は既に切り取られてどこかへといなくなっているかもしれない。でも、どうしても、あの頃のピアニストだった私にもう一度なりたい。今はもうラプソディもショパンの英雄も弾けないだろう。でも、ただの高校生だった私は相当な努力でピアニストになれた。あそこまでの成長はないだろうが、少しずつピアニストだった私の影を探して、影と身体をくっつけていこうと思う。
手はじめに、ガーシュウィンの3つのプレリュードを弾こう。そうしよう。

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